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東京近郊に暮らすインドネシア人(2)日本で数千人にインドネシア語を教えたアイ先生の45年(西野恵子)

~『よりどりインドネシア』第174号(2024年9月24日発行)所収~

みなさま、こんにちは。西野恵子です。東京近郊に暮らすインドネシア人へのインタビュー記事をお送りするシリーズ、第2回目をお届けいたします。

前回、はじめての記事を公開したところ、たくさんの方からメッセージをいただきました。第1回目:ミヤ・ドゥイ・ロスティカさんはこちらから。

いただいたメッセージの内容は、ミヤさんへの愛が溢れるものばかりで、私まで心が温まりました。ミヤさんの人生物語の一部を文章として残すことができたこと、とても感慨深く感じています。

改めてご協力いただきましたミヤさん、そしてお読みいただいたみなさま、ありがとうございました。

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さて、第2回目の今回は、アイ・クスハヤティーさん(74歳)にお話を伺いました。最初の来日は1974年、日本での滞在歴は計45年にのぼるというアイ先生。そのうちの29年間は、上智大学でインドネシア語講師をし、現在は東ジャワのマランにあるご実家を生活拠点にされています。筆者が上智大学で非常勤講師を務めて以来(2017~2020)、大変お世話になっている大先輩です。

2024年8月中旬、ちょうど東京にいらしていたアイ先生をお誘いし、新宿のCinta Jawa Caféにて、久しぶりにゆっくりとお話しすることができました。

45年という長い期間、日本からインドネシアを見つめ続けてきたアイ先生。「人生は色々で、私の人生は不幸も多いけれど、頑張るしかない」と明るく語る姿が印象的でした。

「アイ先生、いつもお若くて、全然変わらないですね」と声をかけると、「アイロンしないとね」と言いながら目尻のシワを伸ばす、とてもチャーミングなアイ先生(左)と筆者(右)

学生時代から来日まで
ー インターネットのない時代 ユニークな日本語学習法

軍人のお父さんの元に生まれたアイ先生は、8人きょうだいの2番目。男の子が5人もいたため、自宅に柔道の先生がレッスンに来ていた。その影響もあってか、正義の味方に憧れて、警察官や探偵になりたかったという。

心理学、法律、犯罪に関することなどに興味を持っていたから、インドネシア大学の社会学部犯罪学科(Fakultas Ilmu Sosial, Jurusan Kriminologi)で学んだ。当時はインドネシア語の先生になるとは考えてもいなかった。

来日当初、日本語はまったくわからず、頼れる人もいなかった。インターネットもGoogle翻訳もない時代。アイ先生の力になってくれたのは、娘さんの学校で出会ったママ友たちだった。

子どもが学校に行っている間に、うちにみんなが集まってくれた。『3時のあなた』というテレビ番組をよくつけていて、そこに着物を着ているご婦人が出演していた。彼女が使う敬語がとても綺麗で、参考になった。「そうなんですの」とかね。日本語は、耳から勉強していった。

ある日、船が「行方不明(Yukuefumee)」だというニュースをテレビで盛んにやっていて、Yukuefumeeって何の姫(Hime)かしら?って。Yukuefumeeという響きから、かぐや姫とか白雪姫を想像していたら、全然違った。

そう言いながらお上品に笑うアイ先につられて、筆者も思わず笑ってしまった。他には、『ハイカラさんが通る』や『ガラスの仮面』といった漫画に出てくる敬語も参考にされたそうだ。1983年生まれの筆者が「これらの漫画を読んだことがない」と話すと、「ごめんあそばせ」と返ってきた。笑いが絶えない。そんなご自身の経験から、「言葉は耳で聞いて言ったほうが楽。面白く勉強しなくちゃ」と語る。

インドネシア語講師を始めた頃

アイ先生が最初にインドネシア語を教えることになったのは、1984年。子育てが少し落ち着いた頃、Japan Times の求人欄で、信濃町にある学校がインドネシア語講師を募集しているのを見つけたことがきっかけだった。

当時は、町田市に住んでいて、Japan Timesは駅にしか売っていなかったから、わざわざ駅まで買いに行っていた。偶然、「Looking for Indonesian Teacher」という求人を見つけた。

そのときの生徒は、これからインドネシアの工場へ派遣される技術者の方たちで、英語はまったくできなかった。生徒は英語ゼロだし、私は日本語ゼロ。「コミュニケーションで大事なのは、とにかくスマイルですよ」と言いながら、ゆっくり勉強していった。

それ以来、Japan Times の求人欄に募集が出ていたら、どこへでも教えに行ったそうだ。民間の語学スクールだけでなく、数々の大企業で早朝や夜間のプライベートレッスンをすることも多かった。

インドネシア語を教えるときに、平仮名で「ふつ」と書いたら、生徒が「先生、それは「ふつう」という風に、「う」をつけるんですよ」と教えてくれた。そうやって生徒に教えてもらいながら、日本語の勉強にも、社会勉強にもなった。

妹さんの来日と村井先生との出会い

1985年、KOMPAS紙の記者をしていた妹さんが来日することになる。当時KOMPAS紙では様々な言語の翻訳をできる人材がいたが、日本語の翻訳者だけが欠けていたそうだ。そこで妹さんに白羽の矢が立ったのだ。

お姉さん(アイ先生)が日本にいるならちょうどいいということで、妹が日本へ来ることになった。当時は受け入れてくれる大学が限られていたなか、妹は拓殖大学へ入学した。朝大学へ行き、昼はNHKでニュースの翻訳(英語→インドネシア語)をし、夜9時頃帰って来て、午前3時頃まで漢字練習をするという生活。これ以外にも、インドネシアや東南アジアに関わるニュースを毎日インドネシアの上司に伝え続けていた。インターネットがない時代、連絡手段は国際電話。毎月驚くほどの電話代がかかったけど、それはもちろんKOMPAS持ちだった。毎晩電話するものだから、いまだに妹の上司の名前が忘れられない。この頃、妹のリズムに合わせた生活を送っていたから、今でも午前3時に寝るのが習慣。

妹さんは1988年にインドネシアへ帰国することになるのだが、この妹さんがキーパーソンとなり、アイ先生のインドネシア語講師としての道がまた一つ大きく開かれることになった。

インドネシア研究で有名な村井吉敬先生が、TEMPO誌などに記事を送っていた。その際、そのインドネシア語原稿のチェックをしていたのは、メディアの言葉にも詳しい妹だった。妹は、村井先生から「上智大学のインドネシア講師を探している」と頼まれたが、間もなく帰国しなければならない。それで、「姉があちこちでインドネシア語を教えている」と紹介したことがきっかけで、上智大学で教えるようになった。

数千人にのぼる教え子たちとの思い出

やがて恵泉女学園大学でも教えるようになり、アイ先生は多忙を極めていった。朝は企業でのプライベートレッスンなどがあるので、大学での授業は午後に入れてもらっていたという。大学が終わると、またレッスンへ。これまでに教えた生徒の数は、なんと数千人に上るそうだ。

午後の授業は学生がちょうど眠くなってしまう時間帯だから、「目を大きく開けなさーい」と言って、チョコレートを配ってから授業を始めるのが恒例だった。成城石井でチョコレートを買っていって、「これはmerah(赤)、こっちはbiru(青)」という風に、配りながらついでに色を教えたりもした。

1クラス40人くらいいるけれど、日本人はだいたいいつも同じ席に座るでしょう?だから2週目にはもう名前を覚えている。下の名前のほうが覚えやすい。

ふと、インドネシア語通訳者である土部隆行さんも、大学時代にアイ先生から教わったと聞いたことを思い出した。土部さんは、理工学部数学科に所属していたにもかかわらずインドネシア語の授業を履修したことがきっかけで、現在、数少ないインドネシア語の同時通訳者としてご活躍されている。そのことをアイ先生に話そうと、「そういえば土部さんも…」と口に出したところ・・・

89年のタカユキね!よくうちに遊びに来てくれた。「週末イベントがあるんだけど、時間ある?」と誘うと、「行きます!」と言ってよく参加してくれた。タカユキと同期には〇〇と、〇〇もいたわね。

アイ先生の記憶力に驚いた。後日土部さんに聞いてみたところ、年代もぴったり、同期の方の名前も正確だった。

教え子たちとは、卒業後もインスタグラムなどを通じて連絡を取り合っているそうだ。インドネシア人と結婚したり、インドネシアで就職したりした人も多い。なかでも印象に残っている学生さんについて写真を見ながらお話を聞いた。

4年生の時に、一流企業に内定をもらっていたのに、単位が足りなくて卒業が危うい学生がいた。その子はインドネシア語の授業には毎回出席していて「インドネシア語だけは大事にしている」と笑っているので、「何言ってるのよ!」なんて会話をしていたのだけど、なんとか卒業していった。その後、彼はインドネシア勤務になった。

しばらくして、2000年にジャカルタのマリオットホテルで、インドネシアの活動家たちと集まる機会があった。そのときに彼が「先生、本当にお世話になりました」といって、数十人分のホテルでの会食費を全部支払ってくれた。婚約者を紹介しにも来てくれて、婚約者の名前は〇〇ちゃんって言うんだけど、その後は〇〇ちゃんとも連絡を取っている。

夏休みにはたくさんの学生を連れて、インドネシアへ行くことも多かったそうだ。なかには東ジャワにあるアイ先生のご実家に1ヵ月以上滞在する学生もよくいたのだとか。そうこうしているうちに現地に友だちができて、次からは自分で行くようになるのだという。

ただ、みんながみんなインドネシアを直に体験できるわけでもない。そういう学生もインドネシアに触れ合うことができるよう、毎年夏休み前にホームパーティーを開いていたという。おいしそうなインドネシア料理と楽しそうな学生たちが映る、たくさんの写真やビデオが、きちんとフォルダに分けられて、保存されていた。そこには、現在インドネシアを専門にご活躍されている方々が学生の頃の写真も多くあった。

ホームパーティーだけでなく、インドネシア料理レストランにもよく学生を連れて行ったそうだ。「レストランAは周辺の都市開発で地価が高騰して移転を余儀なくされた」とか、「レストランBは以前別の店にいた料理人が移ってきた」とか、1990年代~2020年頃までのインドネシア料理レストラン事情について聞いていると、人だけでなく、お店にも歴史があるのだ、ということを感じさせられる。

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