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いんどねしあ風土記(61):国際交易で栄えた夢の跡・バンテン王国盛衰記 ~バンテン州セラン~(横山裕一)
〜『よりどりインドネシア』第183号(2025年2月9日発行)所収〜
日本でいえば、戦国時代末期から江戸幕府初期、すなわち16世紀から17世紀にかけての約150年間、ジャワ島で当時最大規模の国際交易で栄えたのが現在のバンテン州セランにあったバンテン王国だった。ヨーロッパをはじめアラブ諸国、中国や東南アジア諸国などから商船、多人種が行き交い賑わったという。バンテン王国の盛衰はジャワ島にあった王国間の勢力争いとオランダによる植民地化に伴う攻防の歴史でもあり、現在も街や人々にそれを反映した名残を残している。国際交易港とともに発展したバンテン王国の痕跡と今の姿を巡る。
朝の魚市場で賑わうカラガントゥ漁港
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朝8時、眩しい日差しが斜めに差し込む漁港近くの路上は多くの人で賑わっていた。ジャワ島最西端に位置するバンテン州の州都セランの北海岸にあるカラガントゥ漁港の朝市だ。かつて国際交易港として栄えたカラガントゥ港は海岸線にあったが、現在の港は北海岸に注ぐカラガントゥ川の下流部にある。朝の魚市は橋やそれに続く川沿いの道路脇で開かれる。毎朝6時から昼前まで続き、多種類の近海魚をはじめ貝やエビ、カニなどがずらりと並ぶ。客は地元だけでなく、チレゴンやタングランといった周辺都市からも訪れるという。魚を売る漁師たちが呼びかける。
「朝戻った漁船から降ろしたばかりで、獲れたて新鮮だよ」
カラガントゥ地区は漁師町で、州都セランながら中心部からは約10キロ離れた北海岸沿いの田舎町である。カラガントゥ(Karangantu)という地名の由来には諸説あるが、最も有名なのが周辺海域の至る所に岩礁が隠れるようにあるため、船がいくら気をつけていても頻繁に座礁してしまったことから来ているという。まるで岩礁(カラン/ karang)が幽霊(ハントゥ/ hantu)のように潜んでいるという二つの単語を合わせてカラガントゥと名付けられた。海の街らしい地名の由来である。
このカラガントゥを含めた北海岸沿いの地域は地元の人々はバンテンラマ(古いバンテン)と一般に呼んでいる。これに対し、内陸にある現在のセラン中心部はバンテンバル(新しいバンテン)と呼ばれる。これはかつて国際交易で栄えたバンテン王国がカラガントゥなど海岸地域にあったことからきていて、「バンテンラマ」とは、「かつての都市(王国)の中心地」だったという意味が込められている。バンテンラマの特徴は現在のスンダ地方(西ジャワ州)を挟んで遠く離れながらも中ジャワ州を出自とするジャワ民族が多く居住していることだ。これもかつてスンダとジャワとで繰り広げられた国盗りの歴史経緯の影響である。
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バンテンラマより約10キロ内陸にある(Google Mapsより)
カラガントゥ漁港近くの川沿いでは漁から戻った漁師が網の手入れをしていた。網に絡まった海藻やシャコ、カニなどを取り除く。この漁師もジャワ民族だという。網の手入れをしながら彼が次のように話した。
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「私たちの先祖はジャワからハサヌディン王と一緒にこの地に来たと言われています」
このハサヌディン王こそがバンテン王国を建国した一人で初代王の名前である。
スンダからジャワへ、バンテン王国の成立
バンテン王国(1552~1813年)の建国に向けては、ジャワ(現在の中ジャワ州)のドゥマック王国とスンダ地方(現在の西ジャワ州など)のスンダ王国(パジャジャラン王国)との海外交易を巡る争いの末に成り立っている。スンダ王国は16世紀当時、現在の西ジャワ州から首都ジャカルタ、バンテン州を含むジャワ島西部を支配し、ポルトガルと海外交易の協定を結んでいた。この海外交易の拠点が、ジャワ島北海岸にあった、現在のジャカルタのスンダクラパ港とバンテン州セランのカラガントゥ港だった。
このため1526年、ジャワのドゥマック王国は当時属国にしていたチルボン王国から軍隊を派遣して両港を手中に収めた。当時、バンテンの地にはスンダ王国の属国であるバンテンギラン王国があった。バンテンギラン王国の宮殿は内陸部、現在のセラン南部に位置していた。スンダ王国にならってヒンドゥー教が信仰されていて、宮殿周辺の遺跡からは当時の王がヒンドゥー様式で礼拝や瞑想を行ったとされる洞窟や石組みの祭壇跡などが発掘されている。
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このバンテンギラン王国攻略の中心人物がチルボン王国のスナン・グヌン・ジャティと息子のマウラナ・ハサヌディンだった。二人はバンテンギラン王国を滅ぼすと、1526年、新たな国の中心を内陸部から約10キロ北の海岸近くに移して都市(バンテンラマ)を建設した。これが実質的なバンテン王国の始まりだが、スナン・グヌン・ジャティは王位につかなかったため、26年後に息子のマウラナ・ハサヌディンが初代王に即位した1552年が正式な建国年とされている。
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バンテン王国建国後、ハサヌディン初代王は都市の中心部に王宮を建設した。現在も遺跡として保存されているスロソワン宮殿(Kraton Surosowan)だ。宮殿は港から約1キロの場所に位置し、東西約300メートル、南北約100メートルという広大な長方形の敷地で、周囲に高さ約2メートル、幅5メートルの強固な城壁が巡らされている。これはこの地の再奪還を目論むスンダ王国からの攻撃に備えるためのもので、宮殿は要塞の役割も果たしていた。城門は3ヵ所設けられていたといわれ、現存する東側の城門はトンネル状で入ってすぐに右側へと折れ曲がっている。外部の敵が開門しても直接宮殿内に発砲できないよう工夫したものだと考えられている。
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また、現在のスロソワン宮殿遺構前にある博物館の庭に、長さ約3.5メートルの大砲が展示されている。この大砲もかつては宮殿内で、海岸のある北に向けて配備されていたという。
現在、宮殿内には煉瓦造りの建物の基礎部分が残るばかりで、各建物の役割などはわかっていない。しかし、円弧を描いた洒落た階段が確認できることから、デザインに気が配られていたことが窺える。当時の宮殿を見たヨーロッパ人がその美しさから「ダイヤモンド要塞」と呼んだとも伝えられている。
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宮殿の中央付近に唯一、水を貯める施設だったことが伺える建物がある。ロロデノック貯水場(Kolam Roro Denok)と呼ばれている。驚くべき点は、当時この宮殿に注がれた水には浄水施設が整備されていたことだ。約2キロ離れた湖から素焼きの水道管で結ばれ、途中3ヵ所の濾過装置によって浄水が行われていたという。この宮殿はデザインを含め、ヨーロッパの当時の最新技術が取り入れられていたことが伺える。
スロソワン宮殿の北側に広場(アルンアルン)があり、宮殿とともに広場を囲むようにイスラム寺院、バンテン大モスク(Masjid Agung Banten)がある。新しい国を作ったスナン・グヌン・ジャティと初代王ハサヌディンがヒンドゥー信仰だったバンテンの地にイスラム教を広めた象徴でもある。この寺院には歴代の王らの墓地もあり、現在も多くの観光客らが訪れる。ひときわ目立つ高さ23メートルの白い塔は礼拝時間などを伝えるためだけでなく、当時は港をはじめ周囲を監視する物見台としても使用されていたという。
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このように新しいバンテン王国の都市中心部は、権力・権威の象徴である宮殿、信仰の象徴である大モスク、そして人々の活動を象徴した広場を三大要素としたコンセプトで構成された。さらに都市の周囲を城壁で巡らし、城塞都市として形成された。外部からの襲撃に備えながらも海外交易を進め、住民を従える王国の機能が示されているといえそうだ。
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バンテン王国は、ジャワ民族のドゥマック王国とチルボン王国がスンダ民族の地を支配して成立した。この結果バンテン王国には多くのジャワ民族が移住した。こうした歴史を反映して、現在でもバンテン州の州都セランは大枠ではスンダ地方でありながら移住者だったジャワ民族の子孫が多数居住し、日常的にジャワ語が飛び交っている。セラン中心部は北海岸部のカラガントゥ地区から離れた内陸部にあるため、元来の居住民族であるスンダ民族も比較的多くいて、スンダ語も耳にすることができる。
これはスンダ地方のチルボン王国が隣接するジャワのドゥマック王国の属国となった経緯と似ていて、現在のチルボン(西ジャワ州)でも多くのジャワ語とスンダ語が入り混じった、スンダ民族とジャワ民族の混在都市であることと同じ状況である。チルボンは現在でも中ジャワ州と西ジャワ州の州境に位置する都市ではあるが、バンテン州セランは中ジャワ州から遠く離れた地であるだけに、ジャワ語を日常的に聞くと初めは不思議な感じを受けるほどだ。
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