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立ち止まり、僕であり続ける~「走ル」ブックレビュー~
僕がこの本に出会ったのは大学生だから、もう10年以上も前のことになる。しかし、記憶は鮮明だ。大学の図書室の2階、あの本棚で見つけたんだ。「走ル」という背表紙に惹かれて指をかけたのが、脳内に写真のように残っている。
この作品に影響を受けてロードバイクに興味を持ち、社会人2年目のボーナスで主人公と同じ「ビアンキ」を購入。今春で8年の付き合いとなった。妻との付き合いよりも長いことになる。
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大学で読んだ本。その影響で買ったビアンキのロードバイク。それに今でも乗っている自分。記憶が、経験が繋がり、ふと、またこの本を読みたくなって購入した。
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主人公は高校2年生の陸上部員。夏休み明けの暑い日、家の物置から引っ張り出した貰い物のロードバイク(ビアンキ)を整備し、深夜に八王子の自宅を出発して皇居まで乗っていってしまった・・・と思ったら、その主人公は授業をサボり、北へ北へ。さらには日付を超え、野宿を繰り返しながら、栃木、福島、山形、秋田、そして青森まで。
学校をさぼるどころの話ではない。家にも帰らず、陽が出ている間はひたすら北にビアンキを漕ぎ続ける。ママチャリと違った細いフレームとタイヤは、地面からの衝撃をもろに受ける。とにかく速く走ることに特化したマシン。身体と、ビアンキが一体となり、地面に吸い付くように、ただ高速で走る。
そうだった。大学生になっても、自分の意志の反して栃木県の実家に住み続けていた僕は、「自分の身体で、すべてを放り出して、自由に、ただ走り続ける」主人公に、強いあこがれを抱いたんだ。
午前中から世間の流れと逆走するとは、とても刺激的だった。
「いいのか? え! いいのか!」
誰にも聞かれないのをいいことに、橋の上で叫んでみた。
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この本の序盤に、栃木県の描写がある。東京を出発した主人公は、渡良瀬遊水地から栃木県に入り、僕の実家のすぐそばの道路を通り抜けている。ただ、当時の僕にはそこら辺しかリアリティがなかった。
10年以上が経ち、小説にも出てくる東日本各地に仕事で行った経験から、よりリアルに情景を思い浮かべることができた。そして、ロードバイクに乗ったことがなかった大学生とは違い、ビアンキが道路を掴む感覚も想起できる。
あの頃から積み重ねた経験。しかしながら、”強いあこがれ”という感情は、当時と変わっていなかった。
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途中、主人公がエネルギー不足でふらふらになる場面がある。このシーンを読むと、社会人3年目の夏に、一人暮らしをしていた川崎から栃木の実家まで120㎞ほど、ビアンキで帰ったことを思い出す。
じりじりと照り付ける太陽。川崎から東京を跨ぎ埼玉県。実家までまだ半分にも満たない距離で倦怠感を覚え、急遽ミニストップに立ち寄った。ウィダーインゼリーと、エナジードリンク(モンスター)を注入し、涼しい店内で少し休んでから走り出すと、びっくりするくらい身体が動いたのだ。結局何が原因だったのかはわからない。単純にエネルギーや水分不足が妥当なところだが、あれだけ劇的に変わるとモンスターが効いたように思えてならなかった。
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観光地で足止めを食らっているという焦燥感がふつふつと湧いてきて、再びビアンキにまたがった。特に目的地があるわけでも、時間に縛られているわけでもない。けれども、絶えず移動し続けていなければ落ち着かない感じ
こういった感情の表現が何度も出てくる。目的はない。ただ、陽が出ている間は走り続けなければいけないという焦燥感。
この感覚に強い共感を覚えた。走り出したら、とにかく進み続けないと気が済まない。
『るるぶ』の地図ページを開く。ラインマーカーを取り出し、今まで走ってきたコースを蛍光色でマーキングする。この快感は、ただ自転車で走っているだけでは得にくいものなのかもしれない。地図があるからこそ可能。最近はランナーの中にも、GPS送信機を衣服に装着して走り、家に帰ってから走った経路をパソコンで確認する人が増えている。けど、それは何か違う気がする。
僕は、頑張って走っているわけではなかった。ペダルの一回転の積み重ねが100キロにも1000キロにも繋がっていただけだ。食べ物が燃料となり、身体を動かす。その単純さは、走ったことのない人にはわからないのかもしれない。
そうだ。理由などなく、自分の意志と脚で進んでいることが、僕にとって大切なんだ。人生においても同様と言える。だから僕は、妻子を持ちながら、好きな仕事と言える会社と給料を捨てて、独立したのかもしれない。
自分で納得して、自らの脚で地面を踏みしめ、進みたい。それ自体が理由であり、それ以外に理由はない。進まずにはいられない。そういう、走り続ける人生なんだろう。
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主人公は、北へ1000kmもひたすら走り続けていながら、脳内では東京の彼女や部活、学校に振り回されている。1000kmの本能に対して、自分の生活圏数km内で繰り広げられる現実とのコントラスト。
最終的には、部活動の顧問との会話、親友の計らい、彼女からの言葉によって、東京に帰ることになる。そのあっけなさは、1000㎞以上の旅が夢だったかのよう。
こういう人種は「帰る場所」が必要なのかもしれない。止まれない。ひたすら、走り続けたい衝動に駆られているからこそ、帰る場所がないと、本当にどこかにいってしまいそうだ。
帰る場所があるからこそ、本能に忠実に走り続けることができる。その場所は、子どものころは強制的に縛られて必ずあるものだが、社会人になり、歳を重ねるにつれて、自分で大切に作らなければいけないものになると思う。
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10年以上前、大学生の頃に読んだときには、ただひたすらに強いあこがれであり、もっと遠くへと願ったような気がする。
今はと言えば、本能的には変わっていないにしても、立ち止まる余裕と帰る場所を意識するようになった。
これからもこの小説とビアンキが、僕の人生を進め、ときには立ち止まらせ、僕は僕であり続ける。
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余談。僕の大好きなマンガ家、古味直志さんの作品「ウィリアムス」から、好きな言葉をもうひとつ。
彼のような人間はね、止まれないんだよ。風に呼ばれるんだ。風に呼ばれ、大地に呼ばれ、少年は歩くのをやめられない。見知らぬ土地へ行き、谷や山河や平原を越えてもなお、海の向こうのさらに向こう、大地と空の境まで、そこにたどり着くまでは、少年は決して負けはしない。