自分を大好きになるまでの道♡
私は、両親の独特な教育方針で育ちました。
父の職業はカントリーウォーカーで、主に海外のユースホステル活動を日本で広める活動や青少年育成の野外活動、個人型の歩く旅の推奨でした。母は、小学校の音楽教師です。
独自の教育方針とはヨーロッパの子育てを参考にした「自力、自由、自信をもてる人間になるべく人間力を磨くことに特化した教育」で、勉強ではなく、人生を生きる上で必要なスキルを旅を通して自ら学ぶことでした。
物心ついた頃から、子供ではなく一人の人格としての扱いだったので、「自分がしたいことは、なぜしたいのか?どうしてそれが必要なのか?」を両親に対して説明し納得してもらうことが必要でした。
「クラスのみんながもってるから…」というと、父は「クラスメイトのうちの何人がもってるの?全員じゃないでしょ」といわれることが多かったです。
小学校はランドセルを背負っていくのが当たり前じゃないと知ったのは自分が入学してからでした。
我が家はランドセルでなく、ヨーロッパの小学生の通学用カバンでした。今は理解できることですが、いいものなのかもしれないけれど、当時の私には理解できないことでした。
「みんなと同じこと」「ふつうなこと」にとても憧れていました。
お父さんがサラリーマンで、お家にお風呂があって、テレビがあって、お母さんは家にいて帰りを待っていてくれて、お休みの時は家にいてお友達と遊ぶ。
15歳過ぎたらすきなようにしていいといわれていたので、毎日がただ早くすぎたらいいと思うだけでした。とくに小学校での日々はつらい日々でした。
なぜなら、私は個性的でもなかったし、将来の夢をもってなく流れるままにいきている子供だったからです。
学校に行けば、先生からは先生の子供として扱われ、家では人としての在り方や10年後のビジョンを描いて建設的に生きろといわれ、旅先ではやまさんの娘さんとしてみられ、でも当人はごく平凡に生きたくて。とても複雑でした。
学校のない日は、父のしていた「やまさんの千里道場」の行事や家族の行事が入ってることが多かったので、休みの日はどこかしらへ出かけていました。
でも、千里道場で歩くことは嫌でしたが、仲間たちとの時間は楽しかったです。いろんな事件がおこるものの、親と離れていられたからです。嵐のなかをあるいたり、野宿したり、ヒッチハイクしたり、ビニールハウスでねたり。今でも同志のような存在です。この経験は今までの人生でとても役にたっています。
人生において大切なのは「本物をたくさん経験すること」だと教えられ、できるかぎりの様々な経験をさせてもらいました。
家にTV、新聞はありませんでしたが、ラジオ、レコード、絵本はよく見たり聞いたりしていました。
母が音楽教師で、父は旅に出ると、スケッチをしていたので、芸術や文化面で触れる機会は多かったと思います。
我が家の教育方針は、15歳以上は、自分で人生を選択して創っていくことだったので、中学校卒業後、1年間調理師専門学校へ行った後、北海道の十勝にある私塾である「生活学校」へ1年在学。
ここでは山奥で動物や植物との共生しながら生きていました。北海道へ行った理由も、親から離れて暮らしたいということ、また密かに「ここへ行ったら喜んでくれるはず」という思いもあったと思います。
ここでの暮らしも大変でしたが、貴重な体験をたくさんしました。生活の全てを0から創る日々でした。
その後、東京に戻るも、両親の教育方針に反抗し、自分がしたいようにしたいことをしていた時期もありましたが、その間も一度も見捨てずに遠くから見守ってくれました。
24歳でひょんなことから大検を受検することになり、猛勉強して合格後、6年かけて大学を卒業しました。
大検合格の経験は、いままで勉強に縁のなかった私の自信になりました。8時間以上勉強していた日もあったし、中学生と一緒に数学の塾に通い教えてもらいました。
とにかくできることはなんでもして試験に臨みました。
ラッキーなことに私が受験した年から1年に2回試験が開催されるようになって、1回目で1科目だけ落とし、2回目で全科目合格しました。
せっかく勉強モードにいるので、大学も行ってみたらというすすめで通学クラスの授業も選べる大学の文学部に通うことにしました。
勉強を頑張れた背景には、膝のけがが大きく影響しています。飲食業を天職と思って働いていたのに、ある日突然歩けなくなり、先がまっくらになり、なにかに集中しないと生きていられなかったのです。
20代での大学生活と、在学中に国立国会図書館職員組合の専従書記というお仕事も経験できてとても充実した時期でした。
卒業論文は、偶然にも父の尊敬する方をテーマに選ぶことになり、びっくりしました。しかも卒論が優秀賞に選ばれさらにびっくりしましたが、とても嬉しかったです。
卒業後、なんと夢だった会社員になれて嬉しかったです。
けれど、会社員を続けていくうちに、自分の個性が分からなくなり、どんどん人生の迷子になっていきました。やりたいことはしているし楽しいけれど、このままでいいのだろうか?という不安でいっぱいでした。そんなときに今の主人に出会い、結婚し福岡に引っ越ししました。
冠婚葬祭が1年で全部起こり、子育てと介護と自分の心の病の間で、苦しい時期を過ごし、このままでは子供の成長にもよくないし、自分にもよくない!と覚悟を決めて自分を取り戻すことをはじめました。
自分で自分のことも大好きになれたら、子供にもそれが伝わるはず!と思いました。改革を始めて3年半ほどたちますが、当時と比べて自分も周りも大きく変化しました。
私はどんな時も息子にわかるように説明するように心がけています。感情的にならず、冷静に彼の心に寄り添うようにしています。
子供扱いはせずに1人の人として接しています。それは私もそう育ててもらったおかげで、今の自分があると思っているからです。
「自己肯定感」の高い人であれたら、それだけで毎日が幸せだと思います。どんな状況になったとしても最後まで裏切らないのは自分だからです。
教育とか難しいことはわかりませんが、私が妊娠しているときからしていることは、子を褒めることです。
そして同じ目線にたつことです。
現在は、その生い立ちを語ること、この環境だったからこそ伝えられることを作品に表現して、誰かの心に寄り添うことができるとよいと思い創作活動をしています。