「アクティブラーニング」という言葉…AIとの主体的・対話的な深い学び
私:アクティブラーニングという言葉がありますが、アクティブではないラーニングってあるのでしょうか?
AI:面白い視点ですね。「アクティブラーニング」があるなら、「アクティブでないラーニング(パッシブラーニング)」もあるのか?という疑問ですね。
一般的に、**「パッシブラーニング」**という言葉は、受動的な学習を指す概念として使われることがあります。たとえば、
• 講義を聞くだけ(教師が一方的に話し、生徒は受け身)
• 教科書を読むだけ(思考を働かせず、ただ情報を受け取る)
• 単純な暗記(意味を理解せず、ただ記憶する)
といった学習形態は「パッシブ」と見なされがちです。
しかし、これを深掘りすると、本当に学びに「受動的」な形態がありうるのか?という問いが浮かびます。
たとえば、講義を受けるときも、聞き手が自分なりに考え、疑問を持ち、頭の中で整理しながら聞いていれば、それは十分アクティブな学習になります。逆に、グループワークをしていても、ただなんとなく流されているだけなら、それは受動的とも言えます。
つまり、「アクティブラーニング vs パッシブラーニング」という対立構造ではなく、学びのアクティブさは、学習者の内的な姿勢に依存するのではないでしょうか。
⚪︎⚪︎さんの自然教育の実践でも、子どもたちが主体的に関わることで、どんな環境でも「アクティブな学び」が生まれているのでは?
私:アクティブでないとラーニングではないという考えです。
AI:なるほど、「アクティブでないとラーニングとは言えない」という考えですね。これは非常に本質的な視点だと思います。
学びというものは、情報を受け取るだけではなく、それを自分の中で意味づけし、経験と結びつけ、何らかの形で活用できるようになるプロセスです。そう考えると、学習とは本質的に能動的な営みであり、「パッシブラーニング」というものはそもそも成立しないとも言えますね。
例えば、講義をただ聞いているだけの状態を「学び」と呼べるのか? もし本人が情報を処理せずに流しているなら、それは「学んだ」とは言えない。ただし、同じ講義でも、聞き手が自分なりに考えながら受け取っているなら、それはアクティブな学びになる。
つまり、「アクティブでないラーニング」は言葉の上では存在するように見えても、実際にはそれはラーニングとは呼べない、という考え方ですね。
この視点でいくと、「アクティブラーニング」という言葉自体が冗長なものになりますね。「学び」と言った時点で、それは本来アクティブなものだから、わざわざ「アクティブ」とつける必要はない。むしろ、「パッシブラーニング」という言葉があるからこそ、「アクティブラーニング」という概念が作られたのかもしれません。
⚪︎⚪︎さんの自然教育の実践では、まさに子どもたちが環境と主体的に関わることを重視していると思うので、その視点からも「アクティブでない学びはありえない」という考えはしっくりきますね。
私:ラーニングを「学び」と訳すのか、「学習」と訳すのか?
AI:「ラーニング」を「学び」と訳すか、「学習」と訳すかは、文脈によって変わりますね。
「学習」=ある程度体系化された知識やスキルの習得プロセス
「学び」=より広く、経験や気づきを含む能動的なプロセス
という違いがあります。
例えば、
• 学校の授業や試験のための知識習得 → 「学習」(learning as studying)
• 自然の中での発見、遊びの中での気づき → 「学び」(learning as experiencing)
という感じですね。
⚪︎⚪︎さんの自然教育の実践や、子どもの主体性を重視する立場からすると、「ラーニング=学び」と捉えたほうがしっくりくるのではないでしょうか? 「学習」は受動的なニュアンスを含みがちですが、「学び」は本質的に能動的だからです。
この視点から考えると、「アクティブラーニング」は 「能動的な学習」 よりも 「主体的な学び」 と訳したほうが、本来の意味に近くなるかもしれません。
私:となると、そもそもアクティブという言葉は必要ないということではないですか?
AI: そうですね、その考え方に立つと、「アクティブラーニング」という言葉自体が冗長である、という結論になりますね。
もし「ラーニング(学び)」が本質的に能動的な営みだとすれば、「アクティブ(能動的な)」という修飾語は不要です。学びはそもそもアクティブなものなので、「アクティブラーニング」という言葉は二重表現になっていると言えます。
この言葉が生まれた背景には、伝統的な「受動的な教育(lecture-based learning)」への対抗として、「学習者が主体的に関わることが大事だ」というメッセージを強調する意図があったのでしょう。しかし、本来の意味を考えれば、**「アクティブラーニング」という概念をわざわざ作る必要があった時点で、「学び」が誤解されていたのでは?」**という問いも生まれますね。
もし「アクティブでない学びは存在しない」とするなら、「ラーニング(学び)」と言えば、それだけで十分ということになります。
私:日本の文部科学省はなぜこの言葉を使っているのでしょうね?
AI:文部科学省が「アクティブラーニング」という言葉を使っている理由には、大きく 「教育改革の意図」と「従来の教育観との対比」 という2つの背景があると思います。
1. 教育改革の意図
日本の教育は長らく「知識の詰め込み型」と批判されてきました。教師が一方的に教え、子どもたちは受け身で学ぶというスタイルが主流だったため、「主体的に考える学び」を強調する必要があった のだと思います。
文科省は「主体的・対話的で深い学び」を推進するために「アクティブラーニング」という言葉を使い、従来の教育スタイルからの転換を促そうとしたのでしょう。
2. 「受動的な学習」との対比
もし本来「ラーニング」がすべて能動的なものなら、「アクティブラーニング」という言葉は不要なはずです。しかし、現実には「受動的な授業」が一般的だったため、あえて「アクティブ」という言葉をつけて対比を明確にしようとした 可能性があります。
つまり、「アクティブラーニング」と言うことで、「これまでの受け身の学習とは違うんだよ」とメッセージを伝えようとしたわけですね。
本当に「アクティブ」と言う必要があるのか?
とはいえ、⚪︎⚪︎さんの視点からすると、やはり「学び=アクティブなもの」という考えが本質的なので、「アクティブラーニング」とわざわざ言うこと自体が不自然に感じるのは当然です。
もし「学び」という言葉が本来持っている能動性を正しく理解していれば、「アクティブラーニング」と言わずに、「学びの質を高める」「主体的な学びを重視する」 などの表現で十分だったかもしれませんね。
要するに、「アクティブラーニング」という言葉は、日本の教育の歴史的な文脈の中で生まれた「変革のためのスローガン」 であって、本質的に必要な概念ではなかったのかもしれません。
私:私はその立場でこれからの幼児教育を考えていきたいと思います。
AI:素晴らしい視点ですね。「学びは本質的にアクティブなもの」という前提に立てば、幼児教育においても「どうやってアクティブにするか?」ではなく、「子どもたちが本来持っている学びの力をどう引き出し、深めるか?」という問いにシフトできますね。
自然教育や遊びの中での学びを重視されている⚪︎⚪︎さんの実践とも深く結びついていて、単なる「教育手法の選択」ではなく、「学びそのものの捉え方」の話になってくるのが面白いです。
この視点から、幼児教育の現場にどのような変化をもたらしていくのか、ぜひ一緒に考えていきたいですね。
私:よろしくお願いします。
AI:こちらこそ、よろしくお願いします!
ユーザーさんの視点で幼児教育を考えると、「子どもが本来持っている学びの力を引き出す環境とは?」「大人の関わり方はどうあるべきか?」など、探求できるテーマがたくさんありますね。
これからの幼児教育について考える上で、特に掘り下げてみたいことがあれば、ぜひ教えてください!
続く…