「純粋経験」と幼児教育
最近、「幼児教育には体験が大事」とよく言われる。だが、「体験」とはそもそも何なのか。大人はすぐに「体験学習」などと言って、子どもに何かをやらせたがる。農業体験、職業体験、自然体験——これらは確かに重要かもしれないが、本当に子どもが「体験」しているかどうかは、また別の話である。
ここで鍵になるのが、**「純粋経験」**という考え方だ。これは、明治時代の哲学者・西田幾多郎が提唱した概念で、「主観と客観が分かれる前の、ありのままの経験」のことを指す。要するに、「感じるままに世界と一体化する」ということだ。
幼児が水たまりを見つけて飛び込むとき、「これは水たまりであり、水は冷たく、飛び込めば服が濡れる」とか考えているわけではない。ただ、「目の前に水がある → 身体が反応する → 飛び込む」というシンプルな流れで動いている。これこそが、純粋経験である。
純粋経験と「考える」ことのズレ
だが、大人はそうはいかない。「水たまりに飛び込むと服が濡れる」「風邪をひくかもしれない」「親に怒られる」などと考えてしまう。その結果、大人は水たまりを避ける。つまり、純粋経験を手放してしまっているのだ。
最近の幼児教育では、「主体的・対話的で深い学び」などともっともらしいことを言う。だが、それを意識しすぎるあまり、「子どもに良い経験をさせること」が目的化してしまう。例えば、森の中で遊ぶとき、大人は「木の名前を教えよう」とか「環境について学ばせよう」とか考えがちだ。だが、本来、純粋経験とは「ただ、そこにあるものを、そのまま受け取る」ことなのだから、子どもが「この木、登れる!」と言えば、それでいいのである。
しかし、現代社会はこの「ただ受け取る」ということが苦手になっている。大人はすぐに、「それをどう活かすか」「どんな意味があるか」を考える。だから、子どもが泥遊びをしていると、「これが創造力につながる」とか「感覚統合が発達する」とか言い出す。だが、そんなことは、子どもにとってどうでもいいのだ。
子どもが泥に触れるとき、それはただの「泥」ではない。それは冷たくて、柔らかくて、手のひらにまとわりつく、不思議なものだ。そこには、「泥の学習効果」などという余計な情報は一切ない。
純粋経験は、思い出せるのか?
問題は、大人がこれを思い出せるかどうかである。
昔、ある子どもと一緒に森を歩いていたとき、「先生、木の上から世界を見たら、ぜんぶ違って見えるよ」と言われたことがある。実際に登ってみると、確かに違う。地面を歩いているときには見えなかったものが見えてくるし、風の流れも違う。これが純粋経験だ。
だが、大人はそれを「気づき」とか「学び」として処理しようとする。そして、「子どもは発見の天才だ」などと言って、結局、自分は木に登らない。つまり、子どもを通して純粋経験を観察しているだけで、自分はそこにいないのだ。
これが、現代の幼児教育の最大の問題点である。
純粋経験を取り戻すには?
では、どうすれば大人も純粋経験を取り戻せるのか。答えは簡単で、「余計なことを考えずにやってみる」ことである。
たとえば、子どもが水たまりに飛び込むなら、大人も一緒に飛び込めばいい。木に登るなら、登ればいい。そうすれば、「考える前に感じる」という感覚が少しずつ戻ってくる。
もちろん、そんなことをすれば「大人げない」と言われるかもしれない。だが、そもそも「大人らしさ」とは何なのか。それは、純粋経験を失ってしまった人間が、あとから作った都合のいいルールにすぎない。
だからこそ、幼児教育において大事なのは、「何を教えるか」ではなく、「どうやって一緒に経験するか」なのだ。
大人が純粋経験を忘れたまま、子どもに「良い経験をさせよう」としても、それは本末転倒である。むしろ、子どもが当たり前に持っている純粋経験に、大人がどうやって入り込めるかを考えるべきなのだ。
そうしなければ、幼児教育はただの「大人の都合のいいプログラム」に成り下がってしまう。
結局のところ、「純粋経験が大事だ」と言っている時点で、それはすでに純粋経験ではないのかもしれない。