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季椀日記|輪島塗り

昨年秋、はじめて輪島塗りの椀をお迎えした。

塗師・赤木明登さんの作品【季椀(ときわん)】だった。

大切な友人が弟子入りしていて、『杜季(とき:わたしの息子)の名前のお椀があるよ』と教えてもらって、すぐに3つ購入した。
(既に"季椀"としては販売していなくて、ちょうど最後の季椀を譲り受けたのだそう。)

はじめて手にしたその椀は、あまりにも日常的なものに感じて、すぐに馴染んで何かを見逃しそうだと思った。馴染む様子を見逃したくなくて、思ったことを日記にすることにした。

2023年10月23日

季椀を、持った瞬間、軽いと思った
これで朝御飯を食べようと思った
丁寧に味噌汁を作って新米をよそった
盆に並べたら、盆のよごれが気になった
机に運んだら、床の塵が気になった
埃がたつので、食べたら清掃しようと思う
椀のエネルギーが高過ぎて、そぐわない物がすぐにわかる

日記より

季椀は、マットな質感と繊細な光沢で、高貴な存在感を放っていたけど、芸術品というより、やっぱり日用品という感覚が印象的だった。
滑らかな手触りは毎日触れていても飽きない。

友人が赤木さんと、パートナーの智子さんの著書も一緒に送ってくれた


寒さが増す季節、漆のお椀越しに伝わるじんわりとした温かさも、またごちそう

と、友人が送ってくれた美しいことばのとおり、この椀で食事をするたびに、その温もりを感じる。

飯碗と汁椀にして食べた
出汁も味噌も変えてないのにいつもよりずっと美味しい
米も、冷飯を蒸しただけなのに炊き立てのように美味しい
椀ごと身体に取り込んでいるような、
こんな満足な朝御飯を食べたのは初めて

朝も昼も夜も、ごはんと味噌汁、漬物。
黒の飯碗は、ご飯から立つ美味しそうな湯気がよく見えて、いいな。
半透明に透き通ったお米が美しいなと思う。

日記より

使うたびに身体の一部になっていくような感覚。
これまでなんとなく使っていた椀では得られなかった体感。

主食パンの日でも登場する


僕はものを丈夫にするため、使いやすくするために漆を塗っている

とは、赤木明登さんの言葉。

高価な器だからと慎重に扱う必要はないし、漆は扱いづらいものでもないということ。

漆の椀は、日常の品であり、日常こそが特別。

「ごちそうさまでした、”ご馳走”でした。」と心から感謝する朝食後、掃除をして一息ついたとき、その感謝の気持ちがより深くなる。

夫は「軽い、口当たりが優しい」と言って、杜季はいつも飲まない味噌汁を一口だけ飲んで「美味しい」と言った。家族それぞれが季椀との関わり方を見つけ、わたしたちの食卓はさらに豊かになっていく。

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この椀を迎えた3日後、わたしの父が亡くなった。

帰省先では心身ともに、疲弊した。自宅に帰ってきて、この椀で食べるご飯を噛み締めた時、やっと日常に帰ってきたという実感ができた。

忙しいときも、しんどいときも、どんなイレギュラーな日も、『日常』に戻してくれるのが季椀だと思った。

わたしたちの日常は、そこにある小さなものから豊かさを見出すことができる。この椀を通じて、日常の中に潜む美しさも学ぶことができる。

現在、輪島が直面している困難に思いを馳せる時、まずわたしにできることは、日々の生活のなかで輪島塗りを使うことだと思った。

既になくてはならない存在ではあるけど、すこしずつ、ぬりものを集めたいと思う。

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もし輪島塗りを手にする機会があれば、ぜひ体感してみてください。
暮らしに溶け込むその美しさと温もりで、日常こそ特別なものだと感じられると思います!

読んでいただき、ありがとうございました。



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