季椀日記|輪島塗り
昨年秋、はじめて輪島塗りの椀をお迎えした。
塗師・赤木明登さんの作品【季椀(ときわん)】だった。
大切な友人が弟子入りしていて、『杜季(とき:わたしの息子)の名前のお椀があるよ』と教えてもらって、すぐに3つ購入した。
(既に"季椀"としては販売していなくて、ちょうど最後の季椀を譲り受けたのだそう。)
はじめて手にしたその椀は、あまりにも日常的なものに感じて、すぐに馴染んで何かを見逃しそうだと思った。馴染む様子を見逃したくなくて、思ったことを日記にすることにした。
季椀は、マットな質感と繊細な光沢で、高貴な存在感を放っていたけど、芸術品というより、やっぱり日用品という感覚が印象的だった。
滑らかな手触りは毎日触れていても飽きない。
寒さが増す季節、漆のお椀越しに伝わるじんわりとした温かさも、またごちそう
と、友人が送ってくれた美しいことばのとおり、この椀で食事をするたびに、その温もりを感じる。
使うたびに身体の一部になっていくような感覚。
これまでなんとなく使っていた椀では得られなかった体感。
僕はものを丈夫にするため、使いやすくするために漆を塗っている
とは、赤木明登さんの言葉。
高価な器だからと慎重に扱う必要はないし、漆は扱いづらいものでもないということ。
漆の椀は、日常の品であり、日常こそが特別。
「ごちそうさまでした、”ご馳走”でした。」と心から感謝する朝食後、掃除をして一息ついたとき、その感謝の気持ちがより深くなる。
夫は「軽い、口当たりが優しい」と言って、杜季はいつも飲まない味噌汁を一口だけ飲んで「美味しい」と言った。家族それぞれが季椀との関わり方を見つけ、わたしたちの食卓はさらに豊かになっていく。
_
この椀を迎えた3日後、わたしの父が亡くなった。
帰省先では心身ともに、疲弊した。自宅に帰ってきて、この椀で食べるご飯を噛み締めた時、やっと日常に帰ってきたという実感ができた。
忙しいときも、しんどいときも、どんなイレギュラーな日も、『日常』に戻してくれるのが季椀だと思った。
わたしたちの日常は、そこにある小さなものから豊かさを見出すことができる。この椀を通じて、日常の中に潜む美しさも学ぶことができる。
現在、輪島が直面している困難に思いを馳せる時、まずわたしにできることは、日々の生活のなかで輪島塗りを使うことだと思った。
既になくてはならない存在ではあるけど、すこしずつ、ぬりものを集めたいと思う。
_
もし輪島塗りを手にする機会があれば、ぜひ体感してみてください。
暮らしに溶け込むその美しさと温もりで、日常こそ特別なものだと感じられると思います!
読んでいただき、ありがとうございました。