キノコ姫の下僕
世の中には、善良なキノコとそうではないキノコがある。
一般的にスーパーに売られているキノコは当然だが食べても育てても鑑賞しても当然なんの問題もなく、特有の芳醇な香りとともに奥深い味わいによって料理の質を高める優れものである。
一方で、ひとたび足を踏み入れれば2度と帰ってはこられないような深い森やあるいはそこら辺のちょっと怪しげな茂みに入れば、見た目からして明らかにヤバそうなキノコがいくらでも生えていたりする。口にすれば痙攣や幻覚作用など薬物中毒にも似た症状を発するものや、一口食べただけで死に至るもの、触れるだけでも危うい代物まで様々だ。まさに生と死は隣り合わせというわけだ。
僕が通う高校はごく一般的な普通科高校なのだが、その校舎の裏山は、そういうヤバめなキノコの群生地だ。夏から秋にかけて――夏の終わりの今がちょうどその時期なのだが、日当たりの悪い地面や木の隙間からにょきにょきと顔を出す。そしてあっという間に増殖する。まともな人なら本能で危険を察知してまず近づきもしない危険地帯だ。どうしてごく普通の町のごく普通の高校の裏山にそんな危険地帯があるのかは不明だが、今のところ恐ろしいことに誰も手をつけず野放しにされている。
そして僕、坂崎祐一は、裏山に生えているヤバめなキノコのほとんどを一度は口にしている。毒キノコを口にするなど尋常な人間の行為ではない。そう僕は尋常な人間ではない。もはや人間ですらないのかもしれない。
なぜなら、何度毒キノコを食べても、死なないから。いや、死ねないのだから。
実際、毒キノコを食すことで顕れる一般的な症状(腹痛、嘔吐、発汗、めまい、痙攣、呼吸困難、幻覚、幻聴、異常な興奮etc)の全てを経験しているにも関わらず、まだしぶとく生きている。精神力と体力はミミズ並みの自覚があるが、なぜか生命力だけは無駄に持ち合わせているらしい。
僕はこの裏山に誰の命令でもなく自ら入って何度も毒キノコを食べてきた。その度に意識が朦朧としたり猛烈な腹痛に襲われたり逆に愉しくなってきて踊りだしたりもするが、命に別状はない。しかもそんなことを繰り返しているうち、だんだんと中毒症状に慣れてきてしまった。そしてもっと強力な毒物を探し求めるようになった。完全に薬物中毒ならぬキノコ中毒だ。もしかしたらキノコの毒にはある種の中毒性があるのかもしれない。おそらく普通はその前に死ぬのだろうけれど。
これはいけない、と思った。
遊びじゃないのだ。僕は本気で死にたいのだ。死を求めてキノコを食すと、確かにほんの一瞬だけ天に召されたような心地にはなる。けれどその後には決まって反動のように凄まじい絶望に襲われる――またダメだった、と。
そんなときだった。
「これだ」
やっと、見つけた。木の根元に1本だけ生えている神々しいまでに白く輝くソレを。
ドクツルタケ。
傘から根元まで全身真っ白で、ところどころ棘のようなささくれがある。ひとくちでも口にすれば、適切な処置をしなければ確実に死に至る。どれただけ毒に耐性のあるツワモノでもコレを食べて無事で入られた者はいない(そうネットに書いてあった)。なにせ猛毒キノコ御三家、別名「破壊の天使」。その神々しさと毒々しさの両面性を持ち合わせた彼女の風貌にふさわしい二つ名である。思わず彼女と言ってしまったが、キノコに性別はない。たぶん。
ともかく、僕は感動していた。
これだ、僕が探し求めていたものは。きっと僕は、この1本を食べるために、もっと言うならばこの1本によって生命を終えるために、今まで無駄にしぶとく生き長らえてきたのだ。君になら殺されてもいい。いや、むしろ喜んでこの命を捧げよう。
僕は純白のドクツルタケを胸に抱いてそう心に誓った。
これで死ねなかったら僕はもはや完璧に人間じゃないのだろう。たぶん人間の皮をかぶった低級モンスターかなにかだ。
「いただきます」
僕は死に場所を探していた。滅多に人が立ち入らない、学校の裏山に足を向けたのは、極めて自然な流れだったと言える。
そこで僕は、色とりどりの毒々しくも美しいキノコの大群を目にしたのだった。
こんなにも美しい光景があるのか。そして同時に、危険だから近寄らないようにと、大人たちが口うるさく言うのも理解できた。その場所自体がすでに匂いや空気からして、常軌を逸した何かを醸し出していた。本来のキノコの匂いをもっと強烈にし、長い間熟成させたような匂いに満ちていた。
その瞬間、僕は心に決めた。
そうだ、ここで死のう。
いや、実際はそんなちょっとひとり旅にでも出るような軽やかな心地ではなかったけれど、それくらい唐突にそして確信的に、思ったのだった。どうせ死ぬのなら、この見目麗しいキノコを口にして死にたい、と。
以来僕は、ネットや本を片っ端から調べ尽くし、毒キノコといわれるものを見つけては食べ続けた。その結果は前述したとおり、悶え苦しむことはあっても死ぬまではいかなかった。
だが、さすがに、今回は今までのそれとは明らかに違っていた。ごっくん、とソレを飲み込んだ瞬間、喉の奥が焼けるように熱くなり、粘膜という粘膜を引き剥がしながら咽頭を転げ落ちていくような強烈な痛みに見舞われた。まさに殺人キノコだ。破壊の天使という二つ名は伊達じゃなかった。
「あ……ぐあああ……っ」
僕は声にならない呻きを発しながら喉を搔きむしり地面を転がり文字通りのたうちまわった。凄まじい苦痛が延々と続く。
……そう延々と。ていうかいつまで続くんだこれ。
普通の人間ならとっくに死んでいるはずの苦痛をしばらく耐え抜いたのち、僕は悟った。
――ああ、またダメだったのか。
そんなつもりは毛頭ないのに、また耐えてしまったのだ。どれだけ毒に耐性があるんだ僕の体。
僕は薄く目を開けた。涙で歪んだ視界に何か奇妙なものが映り込む。
あたりを囲む鬱蒼とした木々。毒々しいキノコ。そして――、あり得ないものを見た。いや、それは、人だった。
「え……は?」
僕はぱちりと目を瞬かせる。おかげで視界はもはやくっきり明瞭に回復してしまった。頭の中の何らかのフィルターが作動してしまったようだった。
……なんだこれ。幻覚か?
僕はためしに目の前のソレを両手でつかんでみた。そしてもんでみた。やわらかい。
直後。バチィン! と頰に衝撃が走った。
「貴様ッ、何をするッ!」
「……………………え?」
僕の目の前には少女がいた。さっきまでは僕の他には誰もいなかったはずなのに。少女は長く美しい白髪を靡かせ、真紅の着物を身につけ、そしてなぜか、頭から、何やら異様なモノを生やしていた。
それはドクツルタケだった。真っ白なキノコが2つ、まるで角のようにして、髪の隙間から伸びている。破壊の天使と云われるが、なんだかそれは、悪魔の角のように見える。
――白い悪魔。
そんな言葉が、一瞬、頭に浮かんだ。
少女(の胸)がぷるぷると震えだす。
「いつまで汚らわしい手を乗せておるんじゃ、この変態がッッッ!」
再び激しい平手打ちを食らった。それもさっきと同じ場所に。すぐに手を退けなかったのは決して僕が変態だからではなく単に衝撃で固まっていただけなのだが、
「ごめんなさい」
僕は素直に謝った。
「この無礼を謝って済むと思っておるのか貴様?」
しかし少女は許してくれそうにない。
「いや、でも、幻覚だし……」
「誰が幻覚じゃい!」
「え、違うの?」
「この千姫を幻覚呼ばわりとは、首を刎ねられたいのか貴様?」
「そ、それはちょっと嫌かも。血が大量に出るし、頭と胴体はできればくっついててほしいっていうか……」
とそこで、ある単語が僕のあるアンテナに引っかかる。
「いま、千姫、とか言いませんでした?」
「それがどうかしたのか」
少女はむすっとしている。むすっとした顔も可愛らしい……いやそうではなく。
「いや、あの、千姫って、あの千姫ですよね? 戦国時代最後のヒロインとか、呪われた姫君とか言われてる……」
「誰が週末ヒロインじゃボケ」
「いやそんなことはひと言も……だからあの千姫」
「呼び捨てにするでない下僕があッ!」
またしても強烈なビンタを食らった。いまだかつてこんなに連続でビンタを食らったことなどもちろんないし、いや、グーパンや蹴りならそれはもう数えきれないほどあるけれども、そもそも美少女にビンタされるなんて二次元だけのイベントだと思ってたんだけど……。
これはもしや別次元なのだろうか? 僕はキノコを食べて世界線を移動してしまったのだろうか?
それともやっぱり幻覚? いやでも普通に痛いし。
「で、ではなんと呼べば……?」
僕はまっとうな質問をした。
「千姫さまに決まっておろう。くだらないことをほざくな下民よ」
ふん、と少女は両手を腰に当てて生ゴミでも見るかのような目で僕を見た。確かにその不遜な態度は姫と言っても過言ではなかった。しかし、頭からキノコ(しかも猛毒)を生やした姫というのはいかがなものか。
よく見れば少女は、奇特な格好をしてはいるが、僕と同じ17歳くらいに見える。そんな女の子がどうしてここに?
そうか、と僕は心の中で手を打った。彼女はきっと、「千姫」のコスプレイヤーなんだ。
そういえば、先日『戦国姫ロワイアル2』なる戦闘ゲームが発売されて、早くも一部では人気に火がついていると聞く(ネット情報である)。たぶん、この近くで何かのイベントでもあったのだろう。それで彼女はなぜかたまたまこの裏山に迷い込んでしまったのだ。多少の不自然さはあるが、それがいちばん納得のいく結論だった。
がしかし、
「コスプレ? なんじゃそれは?」
と、少女は言う。
コスプレを知らないだと……いやいや、ご冗談を。
「コスプレとは、好きな漫画やアニメのキャラクターに扮する行為です。コスチューム・プレイを語源とする和製英語ですね」
と僕は一応律儀に説明を試みるが。
「ふん、そんなものは知らん」
「…………」
どうやら本当に知らないらしい。
じゃあその格好は何なのだ。コスプレでなく、その格好で私生活を送っているのだとしたら、それはそれでちょっと危ない人ではないか。
「えっと……じゃ、じゃあ、僕はお先に失礼します」
とりあえず逃げることにする。君子危うきに近寄らずという古くからの言い伝えがあるように、危険そうな人にはなるべく近寄らないのが懸命な判断である。
「待たんか貴様」
ガシッと肩を掴まれた。
「ま、まだ何か?」
「何かではない。まだ妾から逃げられると思っておるのか愚か者めが」
「……え?」
「貴様は先ほどこの千姫の尊い胸をもみしだいた挙句幻覚を見たなどとくだらん言い訳で罪から逃れようとした。本来なら極刑のところを、妾に従えば広大な心で特別に許してやると言っておるのじゃ」
自称千姫は傍若無人にそうまくしたてた。
まったくの事実なので、もはや反論の余地はなかった。
「従う、とは……?」
頭にキノコを生やした自称千姫は、「うむ」と満足そうに胸を張って言った。
「貴様は今から我が下僕じゃ。わかったら速やかに家に案内せよ」
僕は学校からそう遠くない住宅街の一角の前衛的なデザインのコンクリート二階建ての家で、一人暮らしをしている。街中にあって広さ50坪あまりのそれなりに金をかけた家だが、当然ながら所有者は僕ではなく、僕の父親だった。
僕の父親はそれなりに名の通った建築家だった。僕が幼い頃に母親が出て行って、以来、この広い家に父子2人で暮らしてきた。優しく頼もしい自慢の父親だった。そんな父親が、2年前――僕が高校に入学したばかりの頃、海外で行われたコンペに向かった先で、列車の事故で死んだ。付き合いのある親戚もなく、僕は天涯孤独の身となった。
父親のおかげで幼い頃から何かと注目されてきた僕だったが、親の才能を少しも受け継いでいないことは自分がいちばんわかっていた。それを証明するように、父親がいなくなるや否や、まわりにいた人間は手のひらを返したように途端に僕に興味をなくし、離れていった。反対に、父親が生きていたときは近寄りもしなかった悪辣な奴らに目をつけられた。金だけ無駄にあって力も後ろ盾もない僕は、奴らにとってはかっこうの獲物だったわけだ。
僕のまわりには、いつだってそういう自分の利益しか考えずに人を平気で傷つける人間しかいなかった。
「な……なんじゃこれは……っ!?」
頭にキノコを生やした自称千姫が言うには、長い眠りから目覚めたばかりでひどくお腹が空いているらしく、ついさっきデリバリーされたソレを口にするなり「おう……」という欧米人のような感嘆の声を漏らした。
「わが下僕よ、こ、こ、これはなんという名の料理じゃ!?」
自称千姫は目を血走らせながら言った。
「ピザです。あと僕の名前は祐一です」
「ピザか……聴き慣れぬ名前じゃな……はむはむ」
僕の名前に関しては華麗にスルーされた。
両手でピザを持って口いっぱいに頬張る姿は、なんだかハムスターみたいで可愛らしい。などと和んでいると、ギロリと睨まれてしまった。
「何をぼうっと突っ立っておる下僕よ。飲み物を持ってくるか追加のピザを持ってくるかどっちかにせい」
「……まだ食べるんですか」
最終的に、姫は注文したLLサイズのピザ5枚とこれまた特大サイズのフライドポテトを全て平らげてしまった。僕はいっさい何も口にしていない。その体の一体どこにそんなに吸収されるというのだろう。
すっかりカケラも残さず食べ終えたところで、
「ところで下僕よ、お腹は空いておらんのか?」
などとのたまう。
言われて気づく。大量のピザを前にしても、まったく食欲が湧かなかった。
「胞子のせいじゃろうな」
と姫はあっさり言い切った。
「胞子……?」
「興奮すると活性化するのじゃ。人間にはあまり気分のいいものではなかろう。なにせ菌じゃからな」
なんだその破茶滅茶な設定は。
「あの……あなた、人間ですよね?」
「これを見ても、そう言えるか?」
自称千姫は、にやりと笑って、空中に手をかざす。すると何もなかったはずのそこに、突如白い綿毛のようなふわふわしたものが現れた。
「胞子を可視化したのじゃ」
「そ、そんなことできるんですか」
「これくらい妾には朝飯前じゃ」
と自称千姫は得意げだ。
「そもそも普通の人間が500年も生きていられるわけがなかろう」
「…………」
いや、むしろその辺がいちばん怪しいんだけど。
戸惑う僕をよそに、
「なんだか疲れたのう」
姫はこてんとテーブルに頭を預け、5秒と経たずにすうすうと寝息を立て始めた。
「さっき長い眠りから覚めたって言ってなかったっけ……?」
なんというマイペースで危機感のないお姫さまだ。いやお姫さまというのは元来そういうものなのだろうか。そもそもほんとにこの子姫なのか。500年生きてて頭からキノコ生えてて胞子を飛び散らすってどんな姫さまだ。
……うん。もうやめよう。
考えたところで僕の理解できる範疇をはるかに超えているし、明日になれば案外夢オチということもあるかもしれない。
僕は頭からキノコを生やした奇妙な少女を抱き上げた。あれほど食べたのに驚くほど軽かった。
客室のベッドに寝かせて布団をかける。呼吸とともに胸の膨らみが上下する。
起きているときはちょっとアレだが、こうして見るとやっぱりものすごい美少女だし、スタイルも抜群だ。
と僕の中の下心がわずかに顔を覗かせたそのときだった。
「う……ん」
少女の細い腕がシーツの上で動き、その口が動く。
「ナオモリ……」
ちいさく、けれど確かに、そう呟いた。閉じたその目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「え?」
ナオモリ……? どこかで聞いたことのある名前だ。でも、なんだっけ。
僕は引っかかりを覚えたまま静かに部屋を出た。
「千姫……ナオモリ………………あっ!」
思い出した。千姫といえば、大阪夏の陣の千姫事件だ。それに大きく関わっているのが、坂崎直盛である。
500年前、落城寸前の大阪城から千姫を助け出したことで有名な家臣だ。歴史にそれほど詳しいわけではないが、戦国ゲームのキャラで、名字が同じだったこともあり、妙に親近感を覚えたのだった。
――もしかして、この子、本当にあの千姫なのか……?
まさかな。でも……
頭からキノコ(しかも猛毒)を生やしている姫など聞いたこともないが、すでにいろいろとおかしなことが起こりすぎていた。僕の貧弱な頭では到底追いつけないくらいに。
だとしたら。
彼女がほんとうに戦国時代から復活したお姫さまだとしても、もはや何の不思議もないような気がするのだ。
翌朝。ぼんやりとベッドから起き出してリビングのドアを開けると、
「下僕が主人より目覚めが遅いとは何事じゃ」
千姫は怒っていた。まさに「ぷりぷり」という表現がふさわしい怒り方だった。
「すみません」
「うむ。速やかに朝食の支度をしたまえ」
どうして人の家でこんなに態度がデカイのだろうと思いつつ、まあ姫だし仕方ないか、と無理矢理な納得の仕方をして、僕はあり合わせの食材で朝食を作り始めた。
「美味い! こ、これはなんというのじゃ」
またしても姫は感動にうち震えている。なんだかデジャヴだ。
「パンと卵とハムです」
「ほおお……はむはむはむはむはむ」
姫はトーストをかじりながら盛大に胞子を飛び散らせていた。よくよく目を凝らして見れば、ごく小さな粒子がふわふわ空中に浮いているのがわかる。胞子って目視できるものだっけ。いや、たぶん一般常識で考えてはだめなのだ。この状況がすでに常識から逸脱しすぎているのだから。
「何をジロジロ見ておるこの変態ッ!」
ビュンッ、と空になった皿が飛んできて、僕は咄嗟に避けた。ガシャン、と後方で皿の割れる音。
ああ……掃除が大変だ……。
「これくらい受け取れ」
「そんな無茶な……」
「直盛なら軽々とやってのけるがのう」
直盛って誰だよ、と思い、昨日のことを思い出す。
「その直盛さんって……もしかして、坂崎直盛のことですか?」
「なんじゃ、己の先祖も知らんのか」
姫は意外そうな顔を向けた。口のまわりに卵のかけらがついている。いや、そんなことよりも。
「先祖?」
「坂崎家は代々家臣の家柄。つまり生まれ持っての下僕体質ということじゃ」
となぜか自信満々に告げる姫君。
「そんなこと一言も聞いたことないけど……」
「両親とも本家から勘当されてとっくに縁を切っておるから当然じゃろうな」
「へえ……」
なぜ彼女が僕より僕の家のことを知っているのか不明だが、なるほどな、と僕は思わず納得してしまう。代々家臣の家柄。だから僕は生れながらにしてパシリ体質なのかもしれない。もっとも、父親はその性質をまったく受け継がなかったようだけれど。
ふと、気になった。
その坂崎直盛という男は、千姫とはどういう関係だったのだろう。
歴史上では、千姫を連れ去った悪者として最終的には殺されてしまうという結構かわいそうな人物だけれど、そんな人を今でも慕っているというのも妙な話だ。
謎は深まるばかりである。
「どうした我が下僕よ。なぜ全身ずぶ濡れなのじゃ。水浴びでもしておったのか。それとも川に飛び込みたい年頃か?」
気づかれないよう、なるべく物音を立てずに浴室に直行しようという僕の密かなプランは、玄関のドアを開けた瞬間にあっさり崩壊した。なぜなら千姫が床に寝転がってピザを貪っていたからだいたからだ。頭のキノコだけがやけに元気に天井を向いている。ほんとうにコレが戦国時代の姫なのかは、やはり疑わしいところである。
「……ほっといてください」
僕はぶっきらぼうにそう言って、全身から水を滴らせながら姫の横を通り、まっすぐに浴室に向かった。
水を被るなどいつものことだ。奴らは僕を見ると反射的に何かをかけずにはいられないのだ。泥水やペンキでなかっただけましだと思おう。ぶるぶる小鼠みたいに震えていながら、まるで説得力に欠けるけれど。
とはいえ、僕だって一応思春期の男子なわけで、こんな情けない姿は、女の子にはあまり見られたいものではなかった。
「ああっ、待てそこは……っ!」
ガラリと浴室のドアを開けるとそこには、なぜかバスタオルに包まれた金髪美少女がいた。
「「え?」」
金髪美少女は濡れた髪を拭く手を止め、目をぱちぱちと瞬かせて僕を見つめた。
人はパニックになると出るべき行動、つまり今すぐドアを閉めるということを、どきない場合が多々ある。まさに今だった。
「もしかして、祐一くんっ!?」
金髪美少女はなぜか目を輝かせて僕の名前を口にすると、あろうことか、その姿のまま駆け寄ってこようとする。その際、体の三分の一ほどを隠していたバスタオルが、パサリと床に落ちた。たわわな両乳があらわになる。
「あの……ふ、服を……き……っ」
視界がぐるぐると回って僕は卒倒した。あまりにも刺激が強すぎた。毒に関しては人間離れした耐性がある僕だが、女子の裸体にはほとんどゼロに等しい、というか完膚なきまでにゼロだった。
「祐一くん!? どうしたのっ!?」
「変態は放っておけ、珠姫よ」
意識の端で、千姫の呆れと軽蔑の混じった至極冷ややかな声が聞こえた。
珠姫。その名を聞いて思い浮かぶことといえば――これもまた例によって戦国姫ロワイアルで得た知識ではあるが、千姫のふたつ下の妹ということである。
千姫、珠姫、勝姫、三姉妹の次女だ。ゲームの中では、姉妹が刀と銃を駆使して血みどろの戦いを繰り広げるという、なかなかエグい展開が繰り広げられる。
しかしそれはあくまでゲームの話であって、今僕の目の前で座っている見目麗しき姉妹はもちろん武器など持っていないし、殺し合いどころかケンカすらしたことがないような仲よさげな雰囲気だ。
もっとも、普通の姉妹とはかけ離れすぎているけれど。
珠姫は金髪のおかっぱ頭に黄色の着物を着たおっとり系美少女だった。そして頭には姉同様、大きな傘の黄色いキノコが生えている。黄色のベレー帽のように見えなくもないが、それは間違いなくタマゴテングダケだった。
タマゴテングダケ。ドクツルタケに続く猛毒キノコ御三家のひとつで、コレラのような激しい嘔吐や腹痛を引き起こす。見た目ふわっとしているわりにじつは恐ろしい破壊力を持つ厄介なタイプだ。
「どうして姉妹そろって毒キノコなんだ……ですか?」
戦国時代の姫を前にして、じつは代々家臣一族だったらしい僕は、つい敬語に直してしまう。
「毒キノコで毒殺されたからじゃ」
千姫はあっさりと物騒なことを言い放った。
「毒……冗談ですよね?」
「冗談でこんなことは言わん」
唖然とした。それは、僕の知っている歴史とは、大きく違っていた。千姫は坂崎直盛によって城から連れ出されたが、殺されたわけじゃない。その後紆余曲折あってなかなか壮絶な人生を送っているけれど、70近くまで生きていたはずだ。
「史実とされているのは真っ赤な嘘じゃ」
としかし、千姫はきっぱりとそう言い切った。
「妾は18歳のときに何者かに殺されたのじゃ。菓子に毒を盛られてな」
「菓子……」
つぶやいて、はっとする。
「じゃ、じゃあ歴史に残っている千姫というのは、本当はいなかったことになるんですか?」
「厳密にはいたことになる。妾の身がわりがな。相当好き勝手しておったようじゃが」
千姫は憎々しげにつぶやいた。そういえば千姫には、夫の忠頼と別れてヤケになり、通りがかりのイケメンと遊びまくって飽きると井戸にポイしたなんて恐ろしい噂もあった。それが身がわりによるものだとしたら、ひどい話だ。
「えっと……それじゃ、珠姫さまも?」
「ううん、わたしはお姉ちゃんがいなくなって悲しくて、自分で毒キノコを食べたの」
珠姫は気恥ずかしそうにとんでもないことを告白する。絶対に口にはできないけれど、かなりのシスコンさんのようだ。というか妹は普通の喋り方なんだな。
「つまりじゃ」
千姫がだんっ、と拳でテーブルを叩いた。その瞬間、興奮すると出てくるという胞子がぶわっと綿毛のように飛び散った。
「自分の仇は自分で討つ。妾を殺した犯人をこの手で討つのじゃ!」
「わたしもお手伝いするね、お姉ちゃん!」
呆気に取られた僕は、しばし考えてから口を開いた。
「……でもその人、死んでますよね? 500年前に」
「何度生まれ変わろうと同じじゃ。その邪悪な血は500年経ってもその体を流れておる。その血を一滴残らず吸い上げてやろうぞふははははは」
「…………」
うん。やばい。この人、やっぱりやばい。
もしかして、とそのときふと浮かんだ考えは、その流れからすればごく自然なものだった。
つまり、千姫を毒殺した犯人は、坂崎直盛さんではないか、ということだ。
だってそうでなければ、僕のところに化けて出てくる理由がないし。彼女たちは幽霊ではなくキノコなのだから「化ける」という表現が適切なのかはわからないけれど。
そうだった場合、先祖である僕が彼女たちに殺されることになるのだろうか。それとも僕の知らない親戚の誰かを手にかけるつもりなのか。
でも、それはないか、とも思う。根拠はないけれど、ただの勘にすぎないけれど。
――直盛。
震える小さな声。瞼に浮かぶ涙。
自分を殺した男を、今でもそんな風に呼べるとは思えない。
僕の知っている(もちろんゲーム情報である)坂崎直盛という男は、哀れな家臣だった。千姫に一目惚れし、陥落寸前の大阪城から千姫を助けだせば結婚させてやるという条件を鵜呑みにし、命からがらに千姫を助け出すも顔にひどい火傷を負ってしまい、千姫に君悪がられてこっぴどく振られてしまい、さらに千姫はさっさと別のイケメンと再婚してしまう。結果として彼は、千姫をさらった悪漢として殺されてしまうのだ。ひどい話だーーもっともこれも、本人の言うところでは「真っ赤な嘘」らしいけれど。
だから、僕は彼がそんなことをするようには思えなかった。会ったこともない何百年も昔の人にそんなことを思うなんて、変な話ではあるけれど。
千姫が語ったことは、筋が通っているようで、やっぱりわけのわからない話だった。自分を殺した犯人の先祖を見つけて、復讐するなんて。すでに500年もの時が経ったいま、そんなことに意味があるのだろうか。
それよりも、なにか、別の目的があるような気がした。まだ語っていない隠された何かが、その話のどこかに隠れているような気がしたのだった。
そんなこんなでワケあってキノコ化してしまった戦国時代の姫姉妹と僕の同居生活、もとい主従関係がスタートしたのだった。どうして家を貸している僕のほうが下なのかは気にしてはならない。姫は生まれ持って姫だし下僕は生まれ持って下僕なのだ。ひとまずそういうことにしておこう。
「おおっ、これはなんじゃ、新技か!?」
「お姉ちゃん、このひと燃えながら踊ってるよ! すごいねっ!」
「人間にこんなことができるとは驚きじゃな……よし下僕で試してみるか」
「やめてください」
キノコ姫姉妹は最近発売されたばかりの『戦国姫ロワイアル2』をプレイ中だ(買わされた)。しかも、僕が学校に行っている間にすでに隠し技を繰り出しレアキャラまで登場させている。どんだけやり込んでるんだ。
それからキノコはキノコを好むらしいというどうでもいい新情報も判明した。ピザに乗っているマッシュルームや炊き込み御飯の椎茸などは大好物らしい。なんだか共食いのような気もするけれど。
「キノコというのはつまり菌であって、つまり菌から養分をとっておるのじゃ。それ以外のものはただの嗜好品というわけじゃ」
「じゃあ別にキノコ以外は食べなくてもいいんじゃ……」
「こんなに美味いものを前にして食べないでいられるわけがなかろう」
「あたしグラタンピザが好きだなー。あっテリヤキマヨチキンもすてがたいよねー」
「妾は無論、国産黒毛牛カルビじゃ。この柔らかい肉感、奥行きのある絶妙な風味。最高じゃ」
黒毛和牛にキノコ乗ってないじゃないか。
言われてみれば、キノコを摂取したあとはふたりのまわりに目に見える胞子の粒がふわふわとわき出す。養分を得て活性化しているのだろう。つくづく不思議な体質だーーまあ体質うんぬんより、存在事態がすでに不思議なのだけれど。
「もしかして、その胞子とやらにも毒って含まれてたりするんですか?」
尋ねると、「ふふん」と千姫は足を組み直して答える。
「そりゃあ、毒キノコじゃからな」
なぜ自慢げなんだ。
「そういえば前にわたしたちに近づいた人がいきなり倒れちゃったことがあったよねえ」
「ふむ、そんなこともあったのう」
「あの人どうなったんだろうねー?」
あの人最近何してるかな?的な軽いノリで話しているけれど、確実に命はないと思われる。今の状態の彼女たちに近づいても僕は食欲をなくす程度だが、普通の人間ならそうはいかないはずだ。おかげでこの数日間で3キロ痩せた。
……うん。やっぱり、外に出すのは危険だ。
もっとも、この家は娯楽に関しては僕でも把握しきれないほど何もかも揃っているので、今のところまったく退屈はしていないようだけれど。
そして、遊ぶだけ遊んで食べるだけ食べると、ぱたりと電池が切れたみたいに所構わず寝てしまう。子どもか――いや、子どもなのか。
僕と変わらない歳で、命を奪われた千姫。姉の死に悲しみに暮れて後を追った珠姫。
そんな不幸な末路を辿った彼女たちに、僕ができることといえば、こくこくと舟を漕いでいる彼女たちを、そっとベッドに運び込むことくらいだった。
「ぐは……っ!」
腹に強烈なボディブローを食らい、薄暗い体育倉庫こカビ臭いマットの上に転がった。
痛みにうずくまる僕の前で、柄の悪い3人組がニヤニヤと悪質な笑みを浮かべている。
何がおかしいんだ、と思う。僕は何もおかしなことをしていない、というより、何もしていないのに。
「金がねえだって? マジかお前?」
「サカサキくんの存在価値なんて金があること以外にないのになー」
「じゃ死ぬかここで」
今度は背中にケリ。抵抗力もなければする気もない。カツアゲ、暴力、嫌がらせ。彼らの憂さ晴らしの対象にされるのはいつものことだ。無力なくせに半端に歯向いでもしたら――
「おい、そこの下民よ」
頭の上で、聞き覚えのある声がした。
「我が下僕にその汚らしい足を向けるでない!」
「……なんだこいつら。どっから出てきた?」
「下僕って。キミ大丈夫?」
顔を上げるとそこには、千姫と珠姫が立っていた。笑われていることなど構いなしといったじつに堂々とした出で立ちである。いつからいたのか、なぜいるのか、朦朧とする頭では見当もつかない。
あれ、こんなにデカかったっけ、と思いながらよくよく見ると、ふたりは跳び箱の上に立っていた。
「マジかよ、それなんのコスプレ?」
「戦国ロワイアルよ!」
言い切った! それでいいのか。
「てかキミめっちゃ可愛いね。俺らと遊んでくれるならこいつ離すけど。」
不良のひとりが千姫の手に触れる。まずい。
「ねえねえ今からさあ」
「貴様ら死にたいようじゃな」
ただならぬオーラ。そして暗闇に舞い散る毒入りの危険な粒子――うん、本格的にまずい。
「いきましょう」
僕はふたりの手を引いて体育倉庫を飛び出した。
「……なんでいるんですか」
膝が震えている。
怖かったのだ。あの場所から逃げ出すこと、それだけで。
「助けに来たんじゃ」
それより、と千姫が言う。
「……頼んでません」
怒っているのではない。ただただ、情けなかった。怖くて抵抗もできない自分。女の子に助けられ、逃げ出すことしかできない自分。
「ま、逃げるのも悪くないと思うぞ」
千姫は満足そうに言った。
「祐一のひ弱な体ではあやつらを倒すのは到底不可能じゃろうからな」
「逃げるが勝ちだね!」
と珠姫も同意する。
「助けられたのは、同じじゃ。こんなところでつまらん騒ぎは起こしたくないからな」
千姫はふっと微笑み、そして、僕の前でしゃがみ込んだ。
僕は固まってしまう。この傍若無人なお姫様が膝をつくなど、あり得ないことだ。
さらにあろうことか、姫は僕のシャツを捲り上げる。そして、腹に手を当てる。あたたかい。
「あ、あの……千姫さま、なにを……?」
「見てわからんか。消毒じゃ」
わかりません。
しかし、それは確かに消毒だった。それもかなり即効性のあるタイプの。その証拠に、徐々に痛みが引いていくのがわかる。いくつもの赤黒い痣も、少しずつ痛々しさがなくなっていく。
「な、なんで……?」
「毒は使いようによっては薬にもなる。古来から人が受け継いできた知恵じゃ。このやり方では、普通の人間はまず異常をきたすじゃろうがの」
僕は目を見開く。姫が笑った。
「わ、わたしもやるっ!」
珠姫も便乗して僕の背中にまわり、手を当てはじめる。
「……」
いやいや、なんだこれ。
僕の前と後ろに美少女がひざまづき、腹に手を当てている。傷を治癒するという健全な目的があるにも関わらず、どうにも不健全な気持ちになってしまう。
「も、もう大丈夫ですから!」
耐えきれなくなり僕は叫んだ。
「なんじゃ遠慮しておるのか」
「でもまだうっすら痣が残ってるよ。痛そうだよお」
「だ、大丈夫です、これくらい。それより、ケーキでも買いに行きましょう、ね!」
「「ケーキ!?」」
なんとか窮地を逃れられたことに、僕はホッとする。
……あのままだと今度こそ気絶しそうだったから。
ケーキ屋までついてこようとするふたりに、
「ちゃんと買ってくから、先に帰ってて」
と説得して、なんとか家に帰ってもらった。
見た目は完全にコスプレイヤーな彼女たちと一緒に買い物に行く勇気は、さすがに僕にはなかった。かといって、あのふたりに買い物を任せるのは恐ろしすぎる。ケーキに興奮し毒入り胞子を撒き散らすのが目に見えすぎるからだ。
玄関を開けるなり、主人を間違えていた犬みたいなキラキラした目で、ふたりのお姫さまが出迎えてくれる。
「お帰りなさいなさいませ祐一(ケーキ)さま」
「お荷物(ケーキ)をお持ちいたします」
こんなときだけ敬語である。甘い物の前では姫としてのプライドも見失ってしまうらしい。
一見立場が逆転しているようにも見えるが、彼女たちの視線はもはやその白い箱一点に熱烈に注がれている。
あの場を逃れるための思いつきに過ぎなかったけれど――買ってきてよかったな、と思う。
特大サイズのケーキをテーブルの真ん中に起き、紅茶を淹れる。
「ああ……っ!」
オペラ歌手のように天を仰ぎ感嘆の声を漏らす千姫。
「このほどよい甘さと柔らかさ……これぞ本物の職人技……っ」
「今度はこっちのチーズケーキも食べてみたいねっ♪」
ケーキを食べながら、袋にさりげなく仕込まれていたチラシを眺めて早くも次のリクエストをする強欲な珠姫。
もちろん僕は余った切れ端をそぼそぼと口にする。例によって食欲はあまりない。今日はいつも以上に胞子の数が凄まじいらしい。
僕はもしかしたら人間よりもキノコに近くなっているのかもしれない。もはや自分が何者なのかよくわからない。なにしろ、目の前にいるのは人間の形をした毒キノコなのである。冷静に考えれば、いやむしろ考えるまでもなく、これ以上に不可解なことなどない。
「もう食べれない……はむはむはむ……」
「クリーム……チョコ……タルト……」
もう食べれないと言いながらまだ夢の中で食べ続けているらしい姫君たちを、僕はそっと抱き上げる。あれだけ食べたにも関わらず、軟弱な僕が、余裕でふたり抱えられるほどの軽さだ。
「おやすみなさい」
と言って、僕も自分の部屋に戻った。
秋の静かな夜だった。
轟々と燃え盛る炎がみるみる勢いを増してゆく。炎の奥に見えるのは、高くそびえる城。逃げ惑う人々、悲鳴、怒号、ばたばたと倒れてゆく、誰かが手を伸ばして……
「姫さまっ!」
誰かが叫ぶ。誰だ、おまえは、誰だ――
「直盛! こっちへ!」
伸ばした手を掴んだのは――千姫。
「姫さまに……助けられてしまいました」
「何を言っておる、助けられたのは妾のほうじゃ」
ああ――なんて、あたたかい。
美しくて強くて優しい、私のよく知っている手。
この世で最も愛おしく尊い手。
「……姫……さま……?」
その手が、僕の首筋に、触れている。ぎり、と、10本の指が食い込んでいる。
うっすらと目を開ける。千姫の顔が、真上にあった。
「遊びは終わりじゃ。直盛」
直盛って誰だっけ。ああ、そうか。千姫事件の首謀者。裏切り者として殺された哀れな家臣。
……あれ、これウソなんだっけ?
「本当は妾と同じ毒で死んでもらうはずじゃったが、それが駄目なら、こうするしかあるまい」
それじゃあ、やっぱり、
「直盛、さんが……」
「妾を城から連れ出した後、直盛は毒入りの饅頭を差し出した。腹を空かせていた妾は疑いもせずにそれを食べた」
千姫の冷ややかな目が赤く暗闇に光っている。ぞくりとする。強い憎悪が、指を伝って流れてくる。
わからない。僕には何も。現代を生きる僕には、真実を知る術はない。だから、
「いいよ」
僕は言った。暗闇に目が慣れはじめている。彼女の表情がよく見えた。そんな悲しそうな顔をして欲しくはなかった。
「僕を殺したいなら、そうすればいい」
死ぬのは怖くなかった。それで貴女の気が晴れるのなら、僕の命くらい、進んでさし出そう。
「直盛……」
彼女の真紅の瞳にはもう、僕のことが直盛にしか映っていないのだろう。
僕は直盛じゃない。だけど、その血は確かに流れているのだ。
「貴女はほんとうは、直盛さんを殺したくなんてないんですよ」
千姫の紅い瞳孔が大きく開く。
「なにを……」
「だって、貴女は、直盛さんのことが好きだったから」
もしかしたら、その想いは今でも。
「愛する人が、心から信じていた人に裏切られた。だけど、恨んでも、心から憎むことはできなかった」
そうでなければ、同じ血が流れている僕に笑いかけられるはずがない。僕を助けられるはずがない。隙をつく機会だって、いくらでもあったはずなのに。
「そんなこと……あるわけ……っ」
どん、と僕の胸に拳を打ちつける。と同時に、ぽたり、となにか冷たいものが頰に落ちた。
千姫が――あの傍若無人なお姫さまが、泣いている。
「それに、千姫さまを死なせたの、直盛さんじゃないと思うんだ」
先祖の血がそう言っている、などと胡散臭いことを言うつもりは毛頭ない。単に、僕が彼の健気なイメージを守りたいだけかもしれない。それでも信じたかったのだ。
命を呈して守るほど、彼には千姫が大切だったのだと。
「ふん、綺麗事じゃ。それならば誰が妾の命を奪ったのじゃ」
「直盛さんじゃないとしたら、毒饅頭を直盛さんに渡した人がいるのかもしれない。まったく警戒心を抱かせないほど、貴女たちにとって身近なひとだ」
心当たりはあった。けれど、それを口にするのは憚られた。
そのとき、ガタッ、と音がした。この部屋からではない。部屋の外からだった。
びく、と震える千姫を起こして自分も起き上がる。そして、ドアを開けた。
「珠姫……やっぱり、貴女だったのか」
「ごめんなさい……っ!」
珠姫が泣き崩れた。
「どうして、そんなことを」
「わたしは……わたしは、弱くて狡くて……最低な人間なんです」
珠姫は語り始めた。500年前に起こった真実を。
ある日、珠姫は退屈しのぎに城を抜け出し、森の中で、白く美しいキノコを見つけた。そのキノコが猛毒を含んでいることなど、普段城で生活をしている姫には知る由もなかった。
姉への贈り物にしようと思った。ただ普通に渡すのではなく、食べ物に入れてみたらどうか。珠姫は、侍女の見よう見真似で、こっそり饅頭を拵えた。
ほんとうは直接渡すつもりだった。しかしその日、大阪城が徳川によって攻められることになる。そして、直盛が千姫を連れ出すことを企てていると知り、お腹が空いたら食べて、とその饅頭を手渡してしまった。
自分の作った毒入り饅頭が、姉の命を奪った。
しかし、犯人にされたのは自分ではなく、直盛だった。
結果、直盛は重罪人として殺されてしまう。悲しみに暮れた珠姫は、自分も死のうと決意する。そして、毒キノコを手当たり次第狂ったように食べた。数日前の僕のように。毒キノコといえど、その全てが殺人的な威力を持っているわけではない。何度も繰り返し、やがて、猛毒とされるタマゴテングダケを見つけた――これで、やっと罪滅ぼしができる。
「本当は、姉さまに本当のことを伝えたくて、追いかけてきたの。でも、やっぱり、怖くて言えなくて……」
自分を可愛がってくれた姉に嫌われるのが、軽蔑の目で見られることが。
「馬鹿が。早く言えばよかったものを」
千姫は言う。けれどその声には憎しみも怒りも含んでおらず、妹の失態を庇うような風でさえあった。
千姫が僕の名前を呼んだ。初めて、下僕ではなく、祐一、と。
「もう死のうなどと思うなよ。強く生きるんじゃ」
「……はい」
僕は頷く。ついさっき、貴女に殺されそうになったんですが……という気の利かないジョークは呑み込んでおく。
だってそれは――、紛れもない別れの言葉だったから。
「寂しくなります」
僕は正直に今の気持ちを言った。
両親を失ったこの広い家にただひとりで、生きる意味も見失っていたとき、彼女たちがやってきた。暴飲暴食ゲーム三昧のとんでもない姫君だったが、賑やかだった。
それじゃあ、と、千姫がゆっくりと歩み寄る。
「さらばじゃ、祐一」
僕の肩を引き寄せ、そっと口づけをした。
ほんの一瞬の出来事。
「えっ、あっ、待って姉さま……祐一くん、さようなら!」
「………さようなら」
次の瞬間には、もう彼女たちの姿はなく、薄暗い部屋にはきらきらと真っ白な胞子の粒が浮いていた。
季節は巡って、夏。
梅雨が明けると、我が家はまたしても、賑やかになった。
「それは妾のアイテムじゃ!横取りするでない!」
「ねえお姉ちゃん、ラッキーハプニングってなんのこと?」
「そこの変態に聞いてみるがよい」
余計なことを吹き込まないでくれ。
頭からすくすくと元気なキノコを生やした着物姿の姫君たちは、ただ今、『戦国姫武将49』なるゲームを御プレイ中だ。
48人の姫武将の中にワケあってひとりだけ姫に扮した男子が紛れ込むという発売したばかりの恋愛シュミレーションゲームだ。買ってきたその日に奪われた。相変わらずの暴君ぶりである。
毎年夏から秋にかけて、まるでキノコの博物館かのように、ありとあらゆる種類のキノコが学校の裏山に大量発生する。いつか裏山の生態系を本格的に調べてみたいと思っている僕だが、その前に、試してみたいことがあった。
僕は鬱蒼とした森の中から純白のドクツルタケと鮮やかな黄色のタマゴテングダケを探し出し、一度に口に含んだ。
悶え苦しみながら地面に伏せる僕の目の前に、彼女たちは再び現れた。
「また会ったのう祐一」
両手を腰にあて白く艶やかな長い髪をさらりと揺らし、相も変わらず不遜な態度で千姫は言った。
「お久ぶりだね祐一くん」
とこちらはふわりとした金髪のおかっぱ頭に癒し系の笑みの珠姫。一見毒とは無縁に思えるが、その実態は姉に次ぐ猛毒キノコである。
毒は美しく、ときに人を惑わせる。
かつては戦国時代の姫君であり、現世に毒キノコとなって蘇った彼女たち。その内の執念はすでに消えているはずだけれど……
「さあ早く家まで案内するのじゃ、我が下僕よ」
「今日はピザパーティーだねっ!」
ひょっとしてピザとゲームが恋しくて戻ってきたんじゃ……と密かに疑いの目を向けつつ、
「お待ちしておりました、姫君」
生まれながらにして下僕体質の僕は恭しくそう言った。
これから冬がくるまでの間、また賑やかな日々が続きそうだ。