その手紙が届いたのは、結婚式の一ヶ月前のことだった。 『宮川百合様』 封筒には私の名前と住所が記されており、差出人の情報は何もなかった。中には白い便箋が一枚と、一万円札が入っていた。 『ご結婚おめでとうございます 心よりお祝いを申し上げます』 句読点のない短い文を、私は目を凝らして見つめた。右側に傾いた癖のある字ですぐにわかった。 あの男だ。あの男が私に手紙をだしたのだ。 でも、どうしてこの家の住所を知っているのか。私の結婚を知っているのか。 背後に意識を向ける。
ブローブラシの筆先が眉をたどってゆく。うっすらと目を開けると、目の前に座る二人連れ、母娘の娘ほうと目があった。事前に目を通していた参加者のプロフィールを思い浮かべる。西村美奈子と西村麻美。娘のほうが麻美だった。 麻美は大きな目をさらに見開いて私の顔を凝視していた。私の顔というより顔が色づいていく過程を、それを施す者の手の動きを、一瞬たりとも逃さないよう頭に詰め込もうとしているようだった。たまに店長が話すのをやめて参加者に声をかけても視線をそらさない。美容関係の勉強をしてい
父の首に、女の白い腕が巻きついていた。 わずかに開いた引き戸の隙間に目を凝らしながら、首筋を生温い汗が伝う。昼間の熱気は引いていたけれど、空気は相変わらずじっとりとして重い。 女の顔はよく見えなかった。あかりのついていない玄関は薄暗く、父の首に巻きついている女の白い腕だけが不気味なほどくっきりと浮かび上がって見えた。 にわかには信じがたい光景だった。見たくもないのに、両足を地面に括りつけられたように離れない。耳の奥を引っ掻くような母の甲高い声が、警告のように耳元
卒業式が終わるとあたしはふぬけになっていた。 まだ寒い夜が続き、布団の中でゲームをしながらどうでもいいような毎日をやり過ごす。 最近ハマっているのは、うさぎを狩るゲームだ。狩って狩って狩りまくって、鍋にするかペットにするか選ぶという謎のゲーム。食べるのはかわいそうなので、あたしは断然ペット派だ。もううさぎちゃんたちが村に二十匹もいる。 ピコーンピコーンと電子音が鳴るなかで、スミスの顔がぽわんと浮かんだ。 スミスはうさぎが異常に好きで、家で買えない代わりに学校で飼って
クローゼットの奥に、女の人が横たわっていた。それは実際にはほんものの人ではなく、人形だったのだけれど、暗がりで、物音ひとつない場所で、私には一瞬、そう見えた。 人形には耳が四つあった。ふたつは人間の耳、もうふたつは頭の上の黒いうさぎの耳。黒目はビー玉のようにつるりと光り、ピンク色の頰や唇が柔らかな質感を醸しだす。水の流れるように滑らかな黒い髪に、ストラップのない黒いシルクのワンピース。いまにもこぼれ落ちそうなふたつのおわんのような胸と、むきだしの白い二本の足。足と足のあ
9月14日(木) 未尋くんが東京に行ってきたらしい。 地元には五年に一回くらいしか帰らないのに、東京には友達に会いにちょくちょく行ってるみたい。 いいなあ、私も行きたい。無理だけど。東京なんて十年以上行ってない。 あきくんと付き合ってたときはよく東京に行った。兵庫出身の埼玉住みで一度も東京に住んだことないのにすごい東京人っぽいオーラ出してた人。皇居の周り散歩して霞が関でお弁当食べるっていうエリートサラリーマンの休日みたいなデートしたこともあった。 あ
この学校の生徒で、榊原美雪先輩のことを知らないひとはいないだろう。 容姿端麗で成績優秀で陸上部のエース。短く揃えた髪と切れ長の瞳が印象的で、すらりと長い足で彼女が歩けば、そこにいる誰もが振り向かざるを得ない圧倒的な存在感。まさに、全校生徒の憧れなのである。 私もまた、榊原先輩に憧れる女子生徒のひとりだった。 自分で言うのもなんだけれど、私、先輩とは違い、生れながらにして凡人である。「山村花子」というなんの捻りもない名前に、ゴマ粒を並べたみたいな地味な顔立ち、細く
四月のある夜、遅くまで仕事をした帰りに桜に出会った。桜はたっぷりとした花を揺らしタコのように根を這わせて街を歩いていた。 「そこのお方どちらまで?」 とタクシーの運転手のようなことを言う。僕は住んでいるところを答えた。 「それはよかった。散歩の連れができました」 街頭の光を浴びながら歩く桜は美しかった。楽しそうに鼻唄を歌っている。僕も適当に声をあわせて歌った。この桜もどこかの帰りだろうか。お互い忙しいよなこの時期は、のんびり花見をする余裕もないくらい。 「あり
檻の前を通りかかったとき、妙な匂いが鼻を突いた。気になって立ち止まり、鍵を開けて中を覗き込んではっとした。床に置かれたピンク色の毛布が赤く染まっていた。よく見ると血だった。血まみれの毛布にくるまって、ハナが目をつむって震えていた。震えながら、腕の中にいる何かを大事そうに抱きしめていた。 そこには赤ん坊がいた。 おそるおそる触れると赤ん坊はびっくりするほど冷たくて、ほとんど息が止まりかけていた。ハナは赤ん坊をしっかり抱きしめて温めようとしていた。そうするしか、赤ん坊を
「いいよなあ、お前んとこのヨメさんは美人で」 駅前の騒がしい赤提灯の居酒屋で、同期の佐々木が焼酎を煽りながらくだを巻いている。 「さっきからそればっかじゃないか」 「だってよお、千恵美さんみたいな美人なら、絶対別れようとか考えないもんなー」 「え、まさかお前……」 「いやいや、まあ子ども二人いるし、普通に無理だけどな」 佐々木は去年名古屋支店から大阪に異動になり、同い年の嫁さんと幼い子どもと一緒に大阪に住んでいる。会うのは送迎会以来で、一年ぶりだった。前に話し
擬態とは、他のものにありさま、ようすや姿を似せること。 動物が、攻撃や自衛などのために、からだの色や形などを、周囲の物や植物・動物に似せること。 多くは虫や魚など、いわゆる弱小生物たちの護身術のような認識であるが、もしかしたら人間も、護身術を使って生きているのかもしれないと、この頃おれは思う。 雨上がりの午後だった。道端に青々と茂る葉の上に、小さなオレンジ色の斑点模様が落ちていた。近づいてみるとそれは芋虫だった。芋虫は見られているのに気づいているのかいないのか、
結婚生活も二年目に入り、何かパートでも始めようかと求人サイトを眺めていたら、ふと目に留まる仕事があった。 毎日の料理ーー正確には料理になる前の食材を配達するというものだ。献立を決めるのが大変、あるいは買い物に行く時間がない人のために、会社側が献立を決めてそれに合った食材をレシピ付きで顧客の家に配達する。最近ではメニューもオシャレでバリエーションも多く、若い人も利用する人が多いらしい。勤務条件もよかったので、私はすぐに電話をかけた。 初日。社員から簡単な説明を受け、配達
騒がしい定食屋の壁にもたれて私は立っていた。六つある席はほぼ埋まっており、カウンター席も全て埋まっている。狭苦しい店だ。 私は目の前で食事をする若者に目を向けた。入口付近の席に座り、一人で黙々とハンバーグを食べている。それにしても、食べるのが恐ろしく遅い。 私の元にはこの若者に関するデータがある。名前、年齢、経歴、身体的特徴、性格、そして死因。 ーーそろそろ時間か。 私は壁から体を離し、若者の背後に立った。これが若者にとって最後の晩餐だ。しかし残念ながら、最
佐藤ユリカは八月に死んだ。 その一ヶ月くらい前に、担任の女の先生が 「佐藤さんが早く元気になるように、みんなの思いを届けましょう」 と手を叩いて、とてもいいことを思いついたみたいに言った。 それぞれ好きな便箋と封筒を持ち寄って手紙を書いた。私は何も書かなかった。何を書けばいいのかわからなかった。 佐藤ユリカがもうすぐ死ぬということを、先生もクラスメイトも私も知っているのに手紙を書く意味がわからない。元気をだして、なんて、呪いの言葉みたいだ。 横線だけの
オモチャを手にした子供の写真とともに栗林麻美のブログが更新されたのは、三日前のことだった。 「asami.」という名のアカウントで内容はほとんど子供のこと、保育園の行事や休日のお出かけなどで埋め尽くされており、いかにも自分がそばで微笑ましく見ているような語り口である。しかしその写真はじつはすべて夫である洋介が撮ったもので、麻美はその場にいなかったのだと洋介本人の口から聞いて、私は積み上げてきた感情が足元から崩れていくのを感じた。 洋介は私の五つ上の兄で、麻美は兄の奥さ
明日が待ち遠しい。 明日、ついに、僕の子が産まれる。 もしかすると、明後日かもしれないし、一週間間後になるかもしれない。それでもいい。元気な子が産まれれば、それでいい。 男の子だから、由紀に似ているかもしれない。顔も、性格も、由紀に似ていれば、さぞかし可愛いことだろう。 大きくなったら、一緒にキャッチボールをしたい。横には大きな犬がいるといい。場所はどこでもいい。夕日に照らされた公園がベストだが、人がいると危ないから、そういう時は、その辺の静かな道や空き地を