メロスの恋人
太宰治の『走れメロス』でメロスの代わりに人質となり、命を奪われるかもという不安の中で彼を待ち続けた友はセリヌンティウスという人。
セリヌンティウスは、友情と自らの心の強さで、不安や猜疑に打ち勝った。
それほどではなく、可愛らしいものだが、私にもセリヌンティウスのような体験が一度ある。
17歳の頃、待ち合わせしていた喫茶店に友達が来なかった。10分とか30分じゃない。今みたいにケータイがない時代。メールもポケベルもなかった。
「あの子が来ないはずない」「何か理由があるはず」と本を読みながら、待ち続けた。
剣道部だった彼女と合唱部だった私は、土曜日の部活後に、彼女の好きなパフェがある喫茶店で待ち合わせしていた。
会うのは、ただ近況報告したり、お喋りを楽しむためで、重要度が高い用事ではなかったけど、待つのは全然苦にならなかったし、きっと来るけど、来なくても怒るようなことではないと思っていた。
彼女は、2時間後に来た。小走りできたのか、少し息を弾ませていた。
そして、部活中に面を受け、鼓膜が破れて、耳鼻科に行ってきたと話した。
驚いたのと、心配と、申し訳なさと、嬉しさが合わさった感情で「来て大丈夫だったの?」と言った。
彼女らしいなと思った。
恋愛と友情は別だけど、この時の自分のような、セリヌンティウスのような心境になりたい。
恋愛はピント合わせを難しくする。
普段は、近くでものを見たり、俯瞰で見たりをもっとスムーズに調整できるのに。
一度、土砂崩れのようになった心は、ちょっとした雨でまた崩れる。安易にコンクリートで補強しても、コンクリートごと崖に落ちる。
自分がこんなに弱くて、愚かだったのかと思う。
そして、頭をかきむしるうちに、待たせる側の苦悩だってあると、少しずつ考えるに至った。
太宰も「待つ身が辛いか、待たせる身が辛いかね」と言っていたらしい。この発言が借金の取り立ての時だというのが、また面白いところだが。
待つのが不安と訴えるのは、素直だが、自分ばかりの辛さを押し付ける幼稚さもある。信頼していて、相手の辛さを思いやれるなら、待つのが辛いとばかり言ってる自分は好きになれない。
あまり聞き分けがいいのも寂しいものなのかな。
我慢しているうちに、恋心や愛情が冷めたり、本音を言いにくい関係になることもあるだろう。
何が正解かはわからない。
今思うことは、私は信じるに値する人を愛しているはずだ、ということ。
万一、信じたとおりにならなくても、疑っている、苦しんでいるのが反復して続くなら、それは愛じゃない。
彼が私を大切に思っていないはずがない。
自分の弱さで醜くなるなよ。
あんたは、堂々としていればいい。
土日の堂々巡りは、ここになんとか辿り着く。
これ、全部長い長い独り言。