地元や家族への劣等感と幸福感の関係について -ブルーアワーにぶっ飛ばすー
自己否定は向上心の副作用なのかもしれない。もっと良くならなければという向上心が今を否定する。現状否定は、自分や自分を取り巻く環境・人を否定することである。現状否定は劣等感につながり、劣等感に支配されると、幸福感は感じられなくなってしまう。
主人公の砂田は否定しかしていない。「自分のことが好きな人は好きじゃない」と言い放ち、久しぶりに帰った実家で、家族に対しても悲観的思考をもってしまう。兄は実家に棲みついているし、母親は夜ごはんを作らなくなったし、父親は骨とう品集めに首ったけだし、家は古くて雑多で汚くて、ため息が出るような有様であった。砂田にとっては。
家族とのコミュニケーションは疲れる。コミュニケーションの距離感が近く、礼儀を欠いたものになってしまう。距離感が近いと相手の汚い部分が嫌でも目に入ってしまい、それに汚染されて精神的疲労を被ってしまう。
家族に対して礼儀を欠いているのは自分もであり、自分の「こうあるべき」を押し付けてしまい、それが叶わないことに苛立ちをかんじてしまう。
ただ、それが苦痛になるならば、やめるべきだ。
世界は一つしかない。それを悲しむか愛するか、その選択はその人に委ねられている。
嫌いな自分がいて、劣等感を感じて、恥ずかしい存在があったとして、好きなあの子や理想の自分が居たとして、それらが存在しうるのは私やあなたが生きるこの一つの世界でしかない。その事実は変わらない。変えられるのは、自分と、環境だけだ。
砂田に対して清浦(キヨ)は自由に、奔放に生きていた。奔放さは無責任、お気楽主義で、未熟な精神だと思われるのかもしれない。
でもそういうわけでもない。キヨは奔放そうに見えるが、考えて生きている。砂田の両親を笑顔にし、砂田を笑顔にし、スナックの皆を楽しませていた。砂田みたいな悲観者は自分のことしか見えていない。悲観は自分の感情であり、それに支配されているということは、心の中は自分の感情で満たされているということになる。悲観が内向き(自分の中を向いている)のエネルギーだとすると、キヨの奔放は外向きのエネルギーである。奔放がキラキラして見えるのは、奔放が放つエネルギーを目が捉えるからなのではないか。
悲観的な人間が自分の中でエネルギーを消費している間、奔放な人間は周りにエネルギーを振りまき、周りの人間を幸せにする。
世界は事実でしかない。
それが汚いか、清らかかは、感じた人の主観である。
ニュース番組なんかは勝手に事実と主観を混ぜ込みやがる。
コメンテーターの発言に主観が一切ないと言い切れるのか?
地元が汚いとか退屈だとか、不平不満もそのひとの主観である。生きた人間は環境を変えるためのエネルギーと物理的肉体を持っている。
ブルーアワーは砂田が好きな唯一の時間。彼女は何をぶっ飛ばした?