「色彩を知らない私は森田研究室に出会った」 第33話 全て
1月に入るとまず本格化するのが研究である。卒業論文の作成。そして卒研発表がある。
ここら辺をざっくりと説明すると卒業単位を認定してもらうためには卒業論文と卒研発表において他の研究室の教授から査読や質疑を受けてそれを見てもらい、認定してもらうという物である。
そのために論文の完成、そして卒研発表で使うプレゼン資料の完成を目指して行く。
それと同時に12期生へ実験の引継ぎも行われることになる。事前に予定を聞き、引継ぎの何というか授業というか講義というか。データや資料、今まで作ったプレゼン資料なども含めて勉強会みたいなものをやる。
この時期は先生のゼミが週1回から週2回に増えて更に昼礼と呼ばれるものが始まる。これは毎日昼の12時に研究室に先生を含めた研究室の全員が集まってそれぞれの班の予定表や進行状況を森田先生に報告するという物である。
分かりにくいので例によってまとめると
・卒業論文の作成、完成、
・卒研発表のプレゼン資料の作成
・週2回のゼミの為のプレゼン資料の作成
・学外での発表もあるためそのための練習
・昼礼の為のプレゼン資料の作成
・12期生へ実験の引継ぎ
・企画の引継ぎ
・週1回の新森田塾の継続、資料作り
・12期生が主体となって行うOB会のフォロー
・月1回のバーベキュー
・環境論文の作成
・卒業動画、アルバムの作成
・・・多分まだあった気がする。とにかくとんでもない量のやるべきことがこの時期から増え始め、もう「やりたくない」とか「意味わかんない」とかそういうことを言える状況ではない。
これにプラスして1,2月には11期生の森田塾も開催される。内容としてはOB会でOBの方が大学に来るのでそこでディスカッションを行うというもの。そしてそれに対しての質問事項なども全部プレゼン資料にまとめておく必要が有る。
そんな忙しい毎日になったのだけれど、ここでまたイガさんから「もってこられてしまう」
それが「何か新しい事をやる」ということ。
その提案に対し、何をやるかは11期生で話し合って決めて欲しいとのことだったのだけれど、先にも言った通り「とんでもなくやること」が多いためそんな余力はない。しかしそれはイガさんや院生に言わせれば「先輩の言うことは絶対!」なのでやるしかない。
だから何度か話し合いの場を設け、出た結論が
・何かしらの季節のイベントを森田研で行う。例えば節分、ひな祭りとか。
・従来通りのキックオフ合宿。これを卒業旅行と合わせて11期生、12期生の合同で行くというものであった。
前者はまだいい。何とかなる。問題は後者である。
キックオフ合宿は当然その名の通り12期生のスタートになるためのイベントになるのだけれど、それに卒業旅行という名目をくっ付けて合同でいくという物。
これ、正直に言うと11期生にとっては「行ったことあるし見たことある場所」に再度行くということでもあるし、旅費は実費の為、ここに対して不満がものすごい出たのを今でも覚えている。
「なんで俺らが行かないといけないのさ」
という矛先はイガさんでも院生でもなく私に来ることに。そんなことを言われたとしても仕方がない。言われてしまったことはしょうがない。やるしかないんだから。という説明では多分納得はしてくれないだろう。
「まあ、確かにね」
気持ちは十分にわかる。何だったら私だって行きたくない。環境論文だって片がついていないのだし、まだまだやることはこの後も増えていくのだから。
私はとりあえず企画になった12期生を自分の場所へ呼ぶと旅行についての引継ぎを行うことになった。当然、私がやった方が明らかに早い。だって過去にやったことが有るし、行先も全く同じなのだから。でも私がやってしまってはこれまた意味がない。だから発表するためのプレゼン資料の引継ぎや旅館への連絡、しおりの作成は12期生にやってもらう形になる。
と同時にOB会で行う企画のようなものもまた同じように12期生に企画してもらう。
「毎年ビンゴゲームをやってるんだけどさ・・・」
どこかで聞いたことが有るような言葉を12期生に教えていくことになるわけで。
そしてここまでのことで、当然のことながら12期生は森田研に入ってまだ間もないわけで。あの頃の私と同じで全く何も分からない状態である。だからこそフォローをしなければいけなくなる。
けれども、フォローは答えを言うことではない。
それは何となく感じていて、当然森田塾で行うことに対しての「答え」は無い。けれど、森田塾が行うことの意図は色々とこなしているとやっぱり見えてくるのと、一度経験しているのだから「どのようにやればいいのか」ということは分かる。
例えばOB会でやる企画の内容。これは私の時もそうだったのだけれどやることは教えて貰った。だからそんなに大変ではないし、キックオフ合宿についてもどこに行くのかとかは教えてもらえる。
重要なのはそれ以外のこと。
キックオフ合宿をなんでやるのか。とか本の引継ぎをなんでやるのか。ということは一切教えない。でも別にこれは教えるな。と言われていたわけではなく、教えたとしても意味がないことが分かってしまっているからでもある。
「これはね、こういう意図があるから、こういう風にやればスムーズにいくよ」と言えばその通りスムーズに行く。けれどそれは同時に12期生の存在を否定することになるし、そもそも引継ぎを行う必要性も無くなる。
だから院生からは「どうして引継ぎをしているのか、よく考えてね」とのことだった。
徐々にやるべきことが形になっていくと先生のゼミや昼礼では次々と発表されていくことになり、それぞれ同期の進め方なども見ることが出来る。
それが終わった後、私はイガさんと院生に呼び出されて色々と言われてしまう。進みが遅い、とかここはこうした方がいい。とかもっと考えて。とか。まあ外から見たら説教されるということになるわけだけれども。
「はい、すいません」
と謝ることくらいしか出来ないわけで。仕方なく夜になるとまたパソコンの前に座って卒業論文の作業に取り掛かる。
ということを毎日、繰り返していた。
大体予定として決まっていたのが
・1月後半に卒業論文の提出
・2月頭に卒業研究の発表
・節分の豆まき
・2月後半にキックオフ・卒業を兼ねた合同の旅行
・ひな祭りの開催
・3月卒業に合わせて最後の飲み会と環境論文を森田先生に渡すこと
である。
この予定と先の予定を重ね合わせたものがこの時期の「11期生 森田研究室」のやることになる。
これで全部なのか。そうではない。このくらいの時期、卒業研究の発表の後にイガさんが持ってきた予定が組み込まれることになるのだけれど、それが今もなお伝説として語り継がれるであろう出来事。そうそれが「苗箱出来ない事件」である
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