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「色彩を知らない私は森田研究室に出会った」 第28話 良きリーダーは良きフォロワー

 10月に入った。この月には文化祭、そして感謝祭が待っている。文化祭に関しては研究でやっていること、森田塾でやっていることの展示。大学の文化祭の1つの側面である「大学をどうしようか考えている高校生」に向けてというのもあるため割と真面目な出し物が多い。
 
 他の学科も研究内容だったり、体験工作みたいなのでラジオを作ったり。そんなのが多くあった。森田研もそんな真面目な出し物の1つではあったためこれは結構簡単に出し物は決まっていった。
 
 まあ一つだけ違うのはおにぎりの販売をしたこと。お米は今までやってきた農の部分で作ったものを使っている。
 
 感謝祭は今までお世話になった地域の人たち。農や飲食店の人たちにそれを伝えるために贈り物をするもので贈ったのは研究室のカレンダーである。これは完全に手作りで絵の部分にお世話になった人たちとの集合写真などを掲載した。それと千羽鶴。
 
 なんで千羽鶴なのか分からないが急にイガさんと院生がやって来て「作って」とのことで。渡す人たちの分作ることになった。最終的に渡した千羽鶴は12本。合計で1万2千羽の鶴を折ることになった。
 
 そう、12本も渡す先があって全く今まで出てきてなくない?と思うかもしれない。私もそれは思った。これは地域の人たちとの関りとかで私がほぼ飲食店にしか行っておらず、農に関しては他の人に任せていたためである。
 
 だからここら辺の話は全く分からないため、知るためには当時農をやっていた同期に突撃インタビューでもしない限り分からないのである。
 
 この間にも私は研究室にずっといてイガさんや院生に「あーでもない」とか「センスがねぇよ!」とかそんなのばっかり言われつつも教科書の作成を続けていた。
 
 そうして待っているとやがて3年生が私たちの時と同じように「志願書」を提出してくる頃になった。
 
 気になるのは定員オーバーになるのかそれとも割れるのか。ということ。イガさんが言うには「君たちの見え方次第」だそう。つまり11期生の見え方が悪ければあまり希望する人たちが居ないということらしい。
 
「そんなこと言われてもじゃあ私は10期生を見て入ったか?」
 
 と言われると私の中には疑問が浮かぶ。けれどこれを言い返すとまた100倍くらいになって帰ってくるので私は口を閉じることにした。私に対してだけではないにしても院生やイガさんの当たりが凄く強くなっていて、あまりしゃべらない方がいいのかもしれないという考えにもなっていたことは嘘ではない。
 
 そんなこんなで何とか教科書は形になった。形になったら本当に自分たちの手で教科書を作ることになる。
 
 まず、印刷した紙を束ねてでかいクリップで留めて、小さいのこぎりで背表紙のところに溝をいくつか作っていく。そしてその溝に木工用ボンドを流し込んで固め、固まったらその上からグルーガンを打ち込んでそれの上から固い材質の表紙を張り付けていく。
 
「製本工場か?ここは」
 
 研究室の中部屋はそんな教科書作りの工房みたいな感じになっていた。作業も分担し、印刷したのをまとめる人、のこぎりで溝を切る人、ボンドを塗る人、グルーガン係。みたいな感じ。
 
 入ってくる予定人数は確か15人くらいいたはずだったから15×2で30冊の作業。30なら多くは無いと思うかもしれないが一冊当たりのページ数も結構あったため何日かかかってしまった。
 
 全ての物が出来上がった後、私に大仕事が待っていた。
 
 それが森田先生への説明である。
 
 先生は森田塾から新森田塾へ移行するというのはもちろん知っているがそれがどのように行われるのかは知らない。だからそれを説明する必要が有る。説明するのは4年生。私であった。
 
先生にまとめて渡すためホームセンターへ行って資料をたくさん入れられる大き目なクリアケースを買ってきてそこに作った教科書や資料を入れ込み、一目でわかるように色分けを行った。
 
 そして発表するプレゼン資料の作成に関して「ちゃんと院生に見て貰って」と言われその後院生と一緒に作ることになった。この時、イガさんから電話が凄くかかってきていて「あれはこうして」とか「それはこうしよう」とか言われるようになった。
 
 いつもの先生のゼミなのにも拘わらず、なんというか独独の緊張感を感じることになった。研究報告や先生からのフォローが終わると総務が「他に何かある人?」と聞いてきたので私が手を挙げた。
 
「じゃあ、まっつん」
 
 そう呼ばれプレゼン資料が映し出され、11月から行う「新森田塾」の内容とやり方、進め方を先生に説明する。その中で先生に資料の入ったクリアケースを渡し中身を少しだけ見て貰った。
 
 けれど先生は終始笑顔のままで「いいね!」としか言わなかった。
 
 これは研究にしても塾での活動にしてもやることは基本的に私達学生が決めたこと。先生はそれをただ見守っているというスタイルをずっと貫いていた。
 
 否定されることのない会議や提案は素晴らしいのかもしれないが、私にとってはこんなにも心にざわめきを持たせて来るやり方は他にないだろうとも感じていた。この心のざわめきを俗っぽく表現すると「責任」である。
 
 そもそも責任は無いはずなのに感じてしまう。それは否定されることでは生まれない。むしろ否定されないからこそである。
 
 それとこれも重要な点で「否定もしないが肯定もしない」ということでもある。これは先生を含めイガさん、院生もこのスタイル。このスタイルが私たちにとって結構厄介である程度否定されれば「あ、なんかまちがっているのかな」とか感じるのだけれどそれが無いわけで。
 
 答案用紙を提出して〇×を一切付けないままに返却される。という感覚が一番近いのかもしれない。
 だから答案用紙にどのように書くか、どのように表現するのかには森田研の作法があるわけで、それがわかってない奴が作ったものなんか見れないよってことでもある。
 
 認めているが肯定はしない。見ていないようで見ている。考えていないようで考えている。遊んでるように見えて教えている。
 
 そんな感じだった。
 
 ともかく、先生への説明が終わったあとはなんかやり遂げた感が出ていたのは確かなもので、研究室に帰ると院生から「お疲れさん」と言われた。
 
 こうしてイガメンドクサイ授業の行われる教科書が完成したのである。
 
 私は1人、自分の場所で出来上がった教科書・テキスト・指導書をパラパラとめくりながら中身を見つめ、こう思ったのである。
 
「新3年生はこれをやってどう思うのかな」
 
 この時、私が感じていたのは「3年生は面倒でやらないかもしれない」ということ。これは森田塾を受けてきた私が思ったことで、なんというか〝何かを感じ取れないままであればそのまま〟という言葉に表現しにくい感情が出てきたのである。
 
 そして次の予定が入り込んでくる。私も受けた森田研の面接だった。これが出来るということは定員よりも多くの志願があったということで、つまり11期生がそう見えていたということにもなる。
 
 それとこれが結構大事なことなのだけれど、私たちと12期生で少しだけ状況が変化している。森田先生が後1年で卒業ということである。つまりこれは院生を見据えて森田研に入るということが実質出来ないということになる。私の同期も来年は森田研に居ることになるが次の年は別の研究室へ行くことが決まっているとのことだった。
 
 面接の準備は確か総務がやってくれて、やっぱり例年通り全員で面接を行うことに。で、これに関して聞く内容とかそういうのは全部他の人に任せてしまった。だから私はあんまり質問するわけでもなく、なんか適当な物を持って遊んでいた気がする。
 
 
 新森田塾に関して確かイガさんから言われたことは
 
「最初の1.2回はまっつん出て、あとは自由にしていいよ」
 
 だった。
 
 これは同期の中で院生に上がる人がその後もやらなければならないためでもあったのかもしれないが、それ以上に「何かを私にさせる気だなこのイガは」と心の中で思っていたことは秘密でもある。
 
 そう、この後「環境論文」に足を進めていくことになるのと同時に、研究の方もまとめの時期に入りつつ「卒業論文」へ手を付けていくことになる。

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