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脳の構造を知って、家族と和解しよう

2023年中に何とかしたい問題の一つに、「家族との和解」がある。
私には二つ家族がある。一つは両親と姉妹という血縁者から成る家族。もう一つは夫と私から成る家族。そのうち自分にとって厄介なのは前者だ。
具体的には、仲違いしたままの母親と妹との関係を修復し、3人で屈託なく語り合えるような関係性を取り戻したい。

幸福な家庭で生まれ育ったとは言い難い私は、物心ついた時から家族と正直に向き合うのを避けてきた。だが、親が老境に差し掛かり、自分も人生の後半戦に入った今、これまで目を背けてきた自分にとっての「家族」という問題に向き合い、あらゆるわだかまりを解いて、温かな気持ちで受容したいという気持ちが生まれてきた。

「仲良し家族」にならなくてもいいから、せめて、恨みや憎しみといったネガティブな感情をぶつけ合わずに、普通に付き合えるような仲になることが目標である。

家族は長い歴史を共有するからこそ、おのずと太い絆で結ばれる運命にある。ここでは「絆」を旧来的な意味、つまり「しがらみ、枷」の意味で使っている。逃れたいと思えば思うほど、「しがらみ」は返ってきつくなり、心を縛り付ける。だったら、それを意識しないくらい自然なものとして受け入れるしかない。

トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭はそれぞれ異なっている」と書いているが、たしかに家族における不幸の有り様はバリエーション豊かで、時とともに複雑に発展してゆく。ただし、人間が絡んでいる以上、幸福な家庭だってそんな単純な形を保っていられるとは思えない。結局のところ、トルストイのいう「幸福な家庭」はフィクションの中にしか存在しないのではないか

何はともあれ、家庭の問題がこじれやすいのは、一つに、大きなイベントを共有しているせいではないかと思う。とくに生死や金銭が絡むイベントにおいて、人は自分の欲望や怒りといった醜い部分を表に出しやすくなる。そうした感情が渦巻く環境では、人の心は深く暗い方向へどんどん引っ張られていってしまう。

日本人は他人にはやたら気を遣うくせに、「身内には何を言っても、どんな迷惑をかけても許される」みたいな誤解をしている人が多い気がする。私の家族にもその傾向があり、不必要にお互いを傷つける言葉が行き交い、そのくせ重い荷物を背負わせることに躊躇がなかった。

いや、待てよ。
楽しい記憶だってたくさんあったはずだ。家庭内には憎しみだけでなく、愛情もたしかに存在していた。しかし悲しいかな、人間の脳というのはどうしても嫌な記憶にフォーカスしてしまう。「幸せのフラッシュバック」はなぜ起こってくれないのだろう? 不幸な出来事ばかり記憶に残るのは生物としての生存を第一に考えた結果だとしても、なんだか恨めしい。

そう考えているうちに、自分がなぜ「家族との不和」が解決できないか、大きな理由が見えてきた。

要は、ネガティブな過去ばかり考えてしまう脳の仕組みに原因があるのだ。たとえば、何か一つ嫌な記憶が思い起こされると、とたんに脳の暴走が始まり、芋づる式に怒りや悲しみに満ちた出来事がよみがえることがある。でもその記憶は自分の頭の中で脚色され、悪い面ばかりが増幅されている気がする。言ってみれば、妄想に近い。

そんな無益なことは金輪際すっぱりやめてしまおう。
そして、嫌な記憶の代わりに、家族と過ごした良い思い出、喜びや楽しさに満ちた記憶を思い出す努力をしよう。

ふと、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のラストで主人公が述べたセリフを思い出す。その一部を書き出してみた。

「…人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。…少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。…」

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(下巻)』原卓也訳   

ちなみに、この主人公は子どもの頃に親から放置され、決して幸福な家庭では育っていない。
(なお、このセリフは前後を含めてとても長く続くが、非常に感動的なので、機会があれば小説全体を通して読んでみてほしい)。

たった一つの幸福な記憶でも、心を十分に温めうる。
だから、今からでも家族との幸福な記憶を一つでも多く作れるようにしたい。
それがいつか途方もなく辛い目にあったり、孤独に陥ったりしたときに、救いになるのかもしれないのだから。


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