ハンドルはひとりで握るのだ - 私は40代半ばにしてクルマの運転ができるようになった 後編-
2023年8月27 日(日)🌓10.7 ☀️5:09-18:16
24:処暑 72:天地始粛(てんちはじめてしゅくす)
運転と尊厳。
私にとっての自由と大人の象徴は、キリンジ「スウィートソウル」のPVだ。
恋人を(羽田)空港へ送った女性(市川実和子)が、クルマを運転して、ただ家に帰るまでだけを追った映像だ(公式の動画は上がっていないのでどこかで探してほしい)。
行きは助手席にいた彼女が、帰りは運転席に座る。ひとりで首都高を走り、ひとり夜ガソリンスタンドに寄り、ひとりコンビニに寄って、ひとりマンションにクルマを停め、ひとり部屋でコーヒーを入れて飲む。
私は先週、ひとりで羽田まで運転してきた。
首都高ではないが、これで私はステージ1をクリアした。3年かかったが、2か月ですむ話でもあった。
誰かと一緒にクルマに乗っても、運転できるようにはならない
ここから少し不満が続く。
私が10万円払った3年前のペーパードライバー教習。ほかの業者も同じようなことをやっているのだと思うが、あれでは運転できるようにならない。
もちろん、できるようになる人もいると思う。曲がったり、車線を変えたり、クルマの運転操作の練習にはとても役立つ。その経験は積んだほうがよい。
ただし、それはもう免許を取った時点で体得しているはずで、ペーパードライバー教習ではせいぜい、その時のことを思い出せばいいくらいだ。
基本的な操作ができるようになった後の運転の練習とは、ほぼ、状況判断の練習に尽きる。
が、慣れた誰かが助手席にいて、はい前のクルマについていきましょう、次は右です、そろそろ車線かえてみましょうか、では、ひとつも練習にならない。
それどころか、運転者は、回数を追うごとに、自分で判断する力を失っていく。ひとりで運転できそうな気がますますしなくなる。
身内に助手席に乗ってもらう場合もそうだ。
助手席の人は、慣れない人の運転に同乗するのが怖いから(これは致し方ないことだし、責めることはできない。乗ってくれる人に感謝はしたい)、運転者が判断するより前にあれこれ指示を出す。
そのたびに運転者は自分の判断力に不安を持つ。私はこんなに早く判断できるだろうかと。そして苦手意識が育っていく。
運転なんて聖徳太子なみに同時にあちこち気を配れないと、即死ぬじゃないか。生死を分けるかもしれない判断を瞬時にしろと? そんなのできっこないと。
誰かと一緒に練習するのは、危ない(交通安全面で)。
何より、判断を運転者ではない者が下すということは、とても危険を伴う行為だ。
急いで出した指示が、運転者に的確に伝わる言葉である可能性は低い。
私の場合は高齢の父親と乗った時に顕著だったのだが、慣れている人の言う「道なり」が、私にはほぼ左折にしか見えず、混乱して瞬時に謎の動きをせざるをえないことがあった。
助手席の人は焦って「違う違う違う!」と大声をあげる。
ハンドルを握る人はひとりなのに、意思決定をする人間が別にいると、クルマは暴走する。大声を挙げられた運転者は自分で判断する自信がなくなり、ますます萎縮し、相手に判断を委ねる。結果、そのドライブは運転の練習ではなく、運転者が自信と運転能力を失うだけの機会になる。
ひとつもよいことがない。
そして私はそれを3年間やって、「私は普通のことが普通にできない発達障がいなのだ」と自分に判断を下しかけていたのだ。
(何度か発達障がいという言葉を出しましたが、空間認識能力や状況判断、つまり運転に差し支える脳の特性をもつ人が実際にいるという意味で使っており、その人たちの存在の価値をなんら否定するものではありません)
わずかでも、ひとりで運転するために
教習の在り方ばかりを責めたが、本来は、運転を習う人間も、教習の前に走る予定の道を調べてから走るべきなのだ。
練習当日の交通状況によっては難しいが、慣れないドライバーはみなそうするであろうことが、なぜか教習からは抜け落ちている。
そして道を下見する意味で、一度誰かと一緒に走る。なんなら、何回か行く。
その後に、はい、つぎはひとりで行ってみましょう!と、ハンドルを握らせるのだ。
誰かと一緒→ひとり、誰かと一緒→ひとりを繰り返すということだ。
自分で判断の責任を取り、自分で自分のハンドルを握るまで、永遠に「できる」と思える時は来ないのだから。
逆に、ほんのわずかの距離でも、それができれば、できると思えるはずだ。私はそう確信した。
2023年6月。私はある平日に、かつて世話になったペーパードライバー教習の、1日特訓コースに申し込んだ。3年ぶりのことだ。
教官には「今日の終了時、ひとりでわずかでもいいから練習できるようになっていないといけないんです。ひとりで練習できそうなコースをぐるぐる回らせてください」と切に訴えた。私の気迫と悲壮感に、教官は終始辟易としている様子だった。
8時間の教習を終えた後の教官のコメントは「多車線はまだひとりでは運転しないほうがいいかもしれません。ただ、住宅街の狭い道や、片側一車線の道は特に問題なかったです」だった。
東京で多車線をひとりで運転できないなら、行ける場所なんてほとんどない。その時は絶望した。
が、歩行者の多い住宅街の道で、特に注意力への欠陥はなかった。
そう、人がいたら避ける、という能力は、私には備わっていた。徒歩や自転車で、当たり前のようにやっているのだから。
そんなことわかっていたのに。これまで私はそれすらできないと思わされていた。「いま横断歩道見ましたか?」と言われて、ちゃんと確認したかどうか問われると自信がない。が、言うまでもなく私は見ていたのである。無意識にできていたことさえ、あなたには能力が足りないと言われたと思っていた。
私は、真に受けすぎていたのだ。
はじめてひとりで運転する時は、こうした
人を殺さないなら、やってみよう。
その1週間後、私は、教習で何度もぐるぐる8の字に右左折を練習した、駒沢周辺の片側1車線の道をひとりで運転すべく、カーシェアに登録し、使用方法を読み込み、動画を見て、最寄のステーションを探した(さすがにカーシェアの基本的な使用は誰かと先に経験しておけばよかった)。
間をあけたら感覚を忘れる。初動は早かった。コースをGoogleMapやストリートビューで確認するのはもちろんのこと、自分でノートにマジックで大きくコースを描き、注意事項を書き込んでいった。運転中にも見えるように大きなサイズで。
都立大学駅まで電車で向かう。そして、駅の近くで私はクルマではなくシェアバイクを借りる。私はその日の練習コースを、事前に自転車で走ったのだ。その日の交通状況がだいたいわかった。
ぶつぶつ言いながら自転車を返却し、その足で近くカーシェアステーションへ向かう。
乗る前に確認すべきことはすべて、スマホにメモしてある。ミラー、座席、ワイパー、ライトの確認、JAFの連絡先まで。万一閉じ込められたときのハンマーを探したがなかった。助手席に先述のノートを広げた。
最後にしたことは、母が祖母の見舞いのために、はじめてひとりで運転した時に思いを馳せることだった。そして「いくぞ」と声を出して(これがけっこう効いた)、クルマを発進させた。乗ってから発進するまでに30分くらいかかった。
「クルマを運転することは特殊な技術ではなかった」とやっと気づく
終始手に脂汗をかいていたが、特に難しいことはなかった。
歩行者がいればアクセルをゆるめ、路肩に止まっているクルマがあれば、対向車が来ていないのを確認して、はみ出てよけた。
工事をしている場所があり、一度車線をかえる必要があったのだが、私はミラーに頼らず、自然に思いっきり後ろを振り向いて確認していた。後ろのクルマはスピードをゆるめて入れてくれた。
ミラーの見え方がどうこうなんて、改めて考えるとやっぱりよくわからない。でも、特に何を頭に叩き込まなくても、自分の目で確認すれば、どの状態が危ないか危なくないかの判断なんて、自然にできるのだった。見ていないのではない。自然にできているから、覚えていないのだ。
私たちは、ふだん外を歩いている時、自転車に乗っている時、これらの状況判断を自然に行っている。どう歩いたら後ろの人にぶつかられないか。物陰から道へ出て渡る時は何を確認したら危険を避けられるか。
外を歩くたびにクルマにぶつかっているのでもない限り、ふつうはできるのだ。
それが、人に教わり、先に指摘されることで、複雑化され、「できない」と落ち込んでしまう。クルマという鉄のハコの中に入り、車道という特殊な場所に飛び込むことで、特殊な判断力が必要であるかのように思いこむ。
が、実際に車道にあったのは、普通の「あ、ちょっとすみません、通ります」の人の営みだった。
初心者マークをつけて、そろそろ行けばいいのだ。
いざとなったら、わからなかったら止まって待てばいいのだ。
お互いがかなりのスピードを出さない限り死ぬことなんかないのだと、ものの10分間の単独練習によって、体にすとんと落ちてきた。
ひとりで運転をはじめて、世界のレイヤーが増えた
片側1〜2車線の駒沢通りから多車線にステップアップするには、さすがにひとりだけの力では無理だった(できたのかもしれないけれど)。
「駒沢ぐるぐる」の練習を2回した後は、夫とともに羽田方面へ走ってみた。「環八のように3車線ある道は、基本、真ん中を走っていればいいから、むしろラク」とのことだった。
その日の練習は散々なものだった。中原街道では路肩のクルマにぶつかりそうになったり、環八では間違えて首都高に入りそうになったりと、とてもこの先ひとりで羽田まで運転できるとは思えなかった。
が、その後、ひとりで思い切って、中原街道をわずかに走る→次は、中原街道と環八をわずかに走る、をやってみたら、やっぱり普通にできてしまった。
もしかしたらこの時も、となりに同乗者がいたら、ひやっとする場面はあったのかもしれない。が、この時点ではあまり同乗者に指摘されないほうがよいのだと思う。それより、運転しながら「ああ、こういう時は左に寄っていたほうが対向車に迷惑かけないんだな」など、自分で体得したことが、シナプスが音をたてて染み渡るのがわかる、その感覚のほうが大事だ。
ひとりで走るたびに、学びと達成感があり、世界の霧が晴れていくようだった。
クルマの運転は想像以上に、「なんとなく空気を読む」ことだらけだった。
いくつかのルールを除き、ほとんどが「大丈夫そうなら行け、大丈夫じゃなさそうなら行くな」で成り立っている。そんなんでいいの?! と毎回面白く思う。私はそれまで、運転にはもっと、事細かな正解があり、それをぜんぶ間違えないようにしなければ即死ぬのだと思い込んでいたが、違った。
そして車道には、ありとあらゆる情報が書かれている。日本の道路はすごい。
40年以上もの間、私は車道の♢が何かなんて考えたこともなかった。クルマの運転を始めて、ただの風景が情報を持ち始めた。それは3次元だった世界が3・5次元になるかのような経験だった。標識も、車道に書かれた矢印も、すべて意味があって、欠けては困るものだと知った。
40数年間、私にとってクルマは、徒歩移動を妨げる危険な障害物でしかなかった。(幼少時から乗せられる側としてはベテランの田舎育ちなのに、「意識しない」ということはかくも大きい)。
いま、私には、すべてのクルマが意思を持った、有機体に見え出るようになった。
人を殺すマシンのように見えた障害物が、個人の意志と秩序を持って、他者を慮りながら動いているのだとわかった。鉄の塊に囲われているが、中にいるのは、いまそこを歩いている人となんら変わりない人間だ。ヘッドライトの流れは、人が足を前に出すのと同じように、意志と思いと、人格を持った流れなのだ。
できないと思っていること、思わされていること。
「私は意志が弱いからできない」、と思っていることがある。
私に関しては、通信教育でしっかり学んだはずの洋裁をいまいち続けられないのは、ミシンを出したり片付けたり、机のものをすべてよけて、製図用紙を広げたりするパワーがなかなか湧かず、それは意志の弱さゆえだと思っていたりする。
が、本当の理由は、「道具を出したまま、用紙を広げたままにできる作業台がないから」かもしれない。人によっては、「自分の部屋がないから」という環境だけが要因かもしれない。料理をする気が起こらないのは、キッチンが低いからなのかもしれない。
本当に私やあなたはダメなのか。そう思わされていないか。
そこをねちねちと攻めて、原因を外に求め、環境を見直すのは、けっして「ないものを手放し、あるものを数える今どきの美学」に反しないのだと私は思う。私がクルマを運転できるようになった話は、執着で扉をこじあけたのではなく、認知の歪みから外へ出てブロックを外した出来事だったのかもしれない。
同級生たちが30年近く前からクルマで自由にあちこち移動していたことを考えると、あまりの差に気が遠くなるけれど、40代後半にしてクルマの運転ができるようになった私には、これからまだまだ未知が待ち構えている。可能性が減っていく人生後半に、楽しみをとっておいて、よかったのかもしれない。
とりあえず、ひとりで「Orphans」聴きながらサービスエリアだね。