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ハンドルはひとりで握るのだ - 私は40代半ばにしてクルマの運転ができるようになった 前編-

2023年8月13日(日)🌘26.4 ☀️4:58-18:34
24:立秋 72:寒蝉鳴(ひぐらしなく)

 Google Mapの航空写真で、実家のある金沢市郊外を俯瞰する。いくつか星印がある。
 窓から真っ青な日本海が見えるであろう店。犀川の河口にたたずむ店。いっせいにざわっと揺れる稲穂に囲まれているだろう店。どれも、実家から自転車で行くには少し大変そうだ。
 ずっとずっと、これらの場所は私にとって近くて遠い場所だった。バス通りから離れた場所は、親や夫に連れて行ってもらうしかアプローチの方法がなかったのだから。
 東京からひとたび実家に帰った私は、学区外にひとりで出かけることが許されない、小学生の子供と同じような気持ちだった。

 けれど、今の私にはクルマがある。そこに、クルマで行けるのだ。
 自分のクルマは所有していないけれど、ひとりで帰省して、親のクルマを借りて、ふらりとそこへ行って1時間ほどを過ごし帰ってくることができるのだ。
 40代も半ばを過ぎて、何もかもが停滞した私の生活に風穴があいた。46歳にして、大きな扉が開いた。

もうすぐ47歳、私はクルマの運転ができるようになった。

 できるようになった、と言ってしまおう。まだ、高速も246も走ったことがないけれど。
 先日、カーシェアを利用し、環七と駒沢通りを経由して、世田谷区某所にある大きな「双子の給水塔」を見に行った。どの駅からもやや遠い住宅街にある。
 それまで単独で運転の練習をする時は、「クルマを運転するだけ」の純然たる練習をしていた(なぜなら、東京でクルマでわざわざ行きたい場所なんてほとんどないから)。私はこれにより初めて、自分が行きたかった場所に、自分の運転で行くという経験をした。これを書いているたった3日前のことだ。

 世田谷の住宅街の隙間からふと覗くという、どこかメルヘンな意匠の建築遺産を以前から見てみたかった。
 大正時代に建てられたその塔のまわりだけが異次元のような雑木林に囲まれていたが、不思議と気味の悪さはなく、使われなくなった現在もきっと周辺の人々にとって、印象深いであろう存在として鎮座していた。
 クルマは近くのコインパーキングに停めた。生まれて初めてのコインパーキング。使い方は事前に検索した。つい最近まで、街のあちこちで見かけるコインパーキングの利用方法など、私は考えたこともなかった。それまで、東京のコインパーキングは、ただの風景に過ぎなかった。

2020年、人生の打開策として

 運転免許は、20代後半で一時期実家に戻っていた頃に、取るだけ取った。
 まもなく東京に戻り、それから15年以上、免許証は身分証明書としてのみ使われた。
 助手席に誰も乗せずに自動車を運転したことは、ただの一度もないままだった。

 2020年の夏、コロナ禍でライターとしての仕事が休止となり、レギュラーのwebメディア編集のバイトも在宅となった私は、以前より少し時間ができた。その期間に、私は「何らかの打開策」を探していた。
 欲していたのは「コロナ禍の閉塞感からの打開策」ではなかった。打開したかったのは台所に縛り付けられた(自らを縛り付けた)結婚生活そのものへの閉塞感であり、その閉塞感によって発病したパニック障害への打開策だった。

 なにせ10年間も公共交通機関が不自由なのである。一縷の望みをクルマに賭けるのには遅すぎるくらいだった。
(補足すると、私の恐怖や不安は「自分でコントロールできない閉鎖空間」に対して起こるので、自分の意思で窓を開けたり路肩に停めたりできるクルマに対して恐怖心を覚えることはほぼない)

計24時間のペーパードライバー教習を受ける

 ペーパードライバー教習所のサイトには、「1回3時間、3〜4回も教習を受ければ多くの人は運転できるようになります」と書いてあった。

 教習車を運転してインストラクターが自宅まで迎えにきてくれる。歩行者の多い住宅街を抜け、「さ、ここで運転席交代しましょう」と言われるがまま、運転席に座り、シートベルトを締め、ミラーを調整する。助手席に教官を座らせ、時に補助ブレーキを押してもらい、「次は右、次は左」と言われて右左折する。「あのクルマについて行きましょう」と言われてついていく。
 この体験により、確かに、ハンドルやアクセル・ブレーキなどの運転操作にはある程度慣れた。しかし、それだけのことだった。それどころか、教えられれば教えられるほどに、千手観音や聖徳太子のごとく、一度に複数のチェックと判断・操作を必要とするクルマの運転というものが、果てしなく難しいものであるという印象が、回を追うごとに強くなっていった。インストラクターはそれらをスラスラいう。こんな時は歩行者の信号も見るといいですよ。向かいのクルマのウィンカーも右折でしたね? いま、カチカチっとハザードが光ったのがわかります?

 見ていない。覚えていない。何も覚えていない。

 教習は8回受けた。教官には「みなとみらいあたりまでなら、いい練習コースになるかもしれませんね。ただ、首都高はまだ運転しないでくださいね」と言われた。
「はい、ありがとうございました。お世話になりました」と教官と笑顔で別れたが、その時の私は「教習を受ける前」の私と、何ひとつ状態が変わっていなかった。
 ひとりでクルマに乗るなんてできる気がしない。私ひとりじゃいざという時に判断できない。いや、なにもかも、自分では判断できない。たったひとりで自分がハンドルを握ったら最後、人を殺すか自分が死ぬかしか考えられない。

 合計24時間にわたる教習が終わった時点で、私のその状態が教官に伝わっていない。「みなとみらいくらいなら運転できる」と思われているという時点で、一縷の望みをかけたペーパードライバー教習は、費用対効果がまったくなかったと言わざるをえない。

 なぜ、そうなったのか。

「みんなが普通にできることが、私にはできない」

 私は軽い左右盲である。極端な文系の人に多いそうだ。大学の学部の先輩である堺雅人さんもそうらしい。
 私は右と左がしばしばわからなくなるのを、子供の頃から、左手の甲のほくろを確認することで乗り切ってきた。むろん、地図はくるくる回す。
 ましてや鏡に映ったものの左右なんて、わかるはずがない。それどころか、鏡に映るものを現実感を持って見ることができない。鏡に映っているクルマは、動いているのか止まっているのかもよくわからない。
 本当はたぶん私、軽い発達障がいなのだ。それを見ないふりをして、運転しようとしているのだ。もとよりむちゃくちゃな執着心でもって、自分の欠けている部分を補おうと必死こいている。私は欲深いのだろう、罪深いのだろう、諦めたほうが自分も皆も世界も幸せになるのだろう。私は「それは執着というものです」と世界中の坊さんに責められながら、それでも躍起になっている愚か者なのだろう(イメージ)。

 いやしかし。ここが東京の交通量が多い場所だから無理なのではないか。東京で運転するつもりは、もともとあまりない。旅先や帰省の時に運転したいのだ。
 もっと田舎ならもう少しできるのではないか。
 できるできないではない、やるしかないのだ。運転できるようにならなければならないのだ。普通の人の「運転できるようになりたい」とも、「運転が下手」とも、私のはレベルが違うのだ。どんなハンデがあろうとも、これは自己の尊厳と存在にかかわる問題なのだ。
 なにより、ペーパードライバー教習に、もう10万円も払ってしまったのだ。

 2021年、私はしきりに夫とレンタカーを借りて出かける用事を作り、郊外で練習した。
 あきるの市でも、北海道でも、帰省先の金沢でも、夫や父を助手席に乗せてハンドルを握った。
 夫は毎回露骨に嫌そうな顔で助手席に座り、しょっちゅう「危ない!」と叫んだ。
 父に「道なり!道なり!」といわれて道なりに進んだら、それは左折だ、いいからお父さんの言うことをきけ、と怒られた。さっぱり意味がわからない。そのたびに萎縮した(運転におけるマッチョイズムについてはいつか書きたい。書きたくもないけど)。

 私は誰に何を言われても、「何がわからないのか」を説明することができなかった。とにかくすべてがわからない。
 道の構造がわからない。信号のしくみがわからない。
 前方を見て、路面を見て、ミラーを見て、ナビを見て、標識を見て、信号を見てハンドルとアクセルの操作をする。そんなことができる人の気が知れない。そこに人命がかかっているというのに、皆が日常的な顔で運転しているのが信じられない。

 2022年を迎えるころ、私は「クルマの運転」という言葉を聞くだけで心臓がバクバクいって冷たくなるようになった。「クルマ」と口に出すだけで夫が嫌な顔をするのがわかったから、クルマを借りて練習する間隔は月に一度が3か月に一度、半年に一度と、少しずつ長くなっていった。
 私の意志と体は、少しずつ動力を失っていった。

「あるものを数えて」と諭されながら死を思う

 同僚たちも、あの人も、この人も、冴えないふりをしてクルマの運転ができるんだ。Twitterでほんの少しリプライを交わしたあの人だって。
 あのドラマの主人公も、あのCMの女性も、運転という離れ業を当たり前のようにやってのけている。
 元同級生たちなんて、18歳の頃から一人で高速に乗っていた。信じられない。それをもう30年近くやっている。
 私は誰を見ても、すべてをクルマの運転に繋げる癖がついた。
 おそらく他人は私のことを、器用で優秀な人として生きてきたと思っているのだろう。そして、今は子育てもせずパートだけで余裕のある生活をしていると思っている。
 何も知らないんだ。私は本当は朝の地下鉄にものぞみにも夜行バスに乗れない。普通の人が普通にできることが、何ひとつできない。通勤して自立もできない。誰かがいなければ、家賃を払うこともできなければ、まともに移動もできない人間なのだ。

 そこに、一縷の望みをかけてのぞんだクルマの運転すら、選択肢から消えた。
 私の人生は、最低の最悪で完全なる失敗作である。終わったほうがどれだけラクか。 
 ひどく頭が痛むような時、「このまま脳出血で死んだらどうしよう」と怖くなるいっぽうで、「死んだらこれらの苦しみもなくなるんだ」と思うことが増えた。

知らない道を行くから、行けないのでは?

カーシェア自体がコインパーキングを使用しているので、
地方の広い駐車場ばかり停めている人より、狭い場所への駐車は得意なのかもしれない。
この車種は車体後方に初心者マーク(マグネット)が貼れず焦りました。

 鬱々と「できない自分を受け入れる」をなんとか人生のテーマにして、這いずるように生きる日々の中で、うすうす感じていることもあった。
 私はこれまでずっと、知らない道を運転している。具体的に行こうとしている場所もない。
 これまでも複数の人に、「必要に迫られたら運転できるようになるよ〜、今はそれがないから仕方ないんだよ」と笑いながら言われてきた。そのたびに、ことの重大さがわかっていないのだなと悲しくなった。あなたはできるかもしれんが、私はできない。そして、今必要がなくても、できるようにならきゃ、本当に本当に、この先ますます詰むんだよ、もう詰んでるけどな。

 しかし、「必要に迫られたら運転できるようになる」という言葉には、ヒントがあるとも感じていた。
 私は、私の母よりも運動神経が悪く、方向音痴な人を見たことがないのだが、その母もいちおうは田舎にいて最低限のクルマの運転をしてきた。もともとの運転のきっかけは、祖母が入院した病院に見舞いに行くためだったらしい。
 私の姉もまた、20年のペーパードライバー歴を経て、都会から地元に戻り、通勤の必要に迫られてクルマを運転するようになった。
 あれから10年近くたっても姉はまだ初心者マークをつけているような状態だが(血筋よ)、それでも、通勤で同じ道を毎日通ることは、さすがにできている。
 私がいくら運転下手な血をひいているとはいえ、回数だけはそれなりに費やしても、いつまでたっても運転できないのは、知らない道を、目的地もなく、言われるがまま運転しているからではないか。
 「必要に迫られたら運転ができる」というのは精神論ではなく、その道を知る必要があった場合に運転ができる、つまり、知ることができれば、人は運転できるのではないか。

知っている道を、ただひとつだけ行く

 2023年5月。私は半年ぶりの帰省を前にして、実家からクルマで7〜8分くらいの最寄りのイオンモールを目的地に定めた。何度も行ったことがあるし、途中までは私の母校の学区内で、大体の景色も道も覚えている。どちらが海でどちらが山か、地元だから当然わかる。
 このイオンモールへの道のみを、私はGoogleMapの航空写真とストリートビューで何度も何度も辿った。車線を見て、道に描かれた矢印を見て、交差点の名を覚えて、スクショをとりまくり、帰省の数週間前から徹底的に頭に叩き込んだ。疑問点は夫に事前に教えてもらった。

 「あのイオンまでだけ、あそこだけ行ければいい。ちゃんと調べてきた。ほかは運転しない」と夫に頼み込んだ。
 かくして帰省時、父のクルマに乗って運転したイオンモールへの道は、はじめて「自分の意思で、目指す方向へ進んだ」ドライブとなった。助手席の夫もそれほど怖がっていなかった。運転中、夫は横で何かあれこれ言っていたかもしれないが、覚えていない。なぜなら行くも行かぬも曲がるも曲がらぬも、私が考えて進んだのだから。

 この時に私は腑に落ちた。横からあれこれ言われず自分の意思で判断しながら運転すれば、できる。私はずっと、できないと思い込まされていただけだったのだと。




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