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自分のために生きて何が悪い

最近、自分の記事は、
長いのかもしれないと思い始めました。

でも、短く書けないんですよね。。

というわけで、初の試みとして、
前編、後編で、記事を分けてみました。


それでは前編です。

人のために?



「自分のために生きて何が悪い」

いささかタイトルが仰々しいですが、

今回は、
「自分のために生きる」ことについて、
思うことをお話していきます。


わたしは、
「人のために」という言葉が、
あまり好きではありません。

「人のために生きる」
そういう言葉が、むしろ嫌いかもしれない。

わたしは、自分のために生きていますし、
「そうでなくてはいけない」と強く思っています。

そんなことを言うと、
「なんて嫌なやつだろう」と思われて、
ブラウザバックされてしまうかもしれませんね。

でも、別に斜に構えているわけじゃないんです。

「人のために」
わたしは、なんとなくこの言葉から、
欺瞞を、偽善を、感じてしまいます。

気づけば人のために生きている


「人のために生きる」
この言葉が好きではないと言いましたが、

それは、
「人のために」という姿勢や想いを、
否定しているのではありません。

むしろ肯定します。

ただ、
「人のために生きる」というのは、
目的ではなく、必然的な結果だと思うんです。

人間というのは、
そもそもが、人のために生きたいものです。

人に貢献すること、
人の役に立ち、誰かを喜ばせることで、

わたしたちは、喜びを感じます。

綺麗ごとでも何でもなく、

わたしたちは、
誰かのために何かをしたくて仕方がないんです。

それはなぜかと言えば、

誰かのために何かをすること、
もっと大きく言えば、「人のために生きる」ことが、

自分の喜びに繋がっているから。

つまり、
「人のために」というのは、
そのまま「自分のために」なんです。


ベストセラー
「嫌われる勇気」の中に、こんな一説があります。

一生かかっても使いきれないほどの資産を抱えた富豪がいます。
そして彼らの多くは、いまもなお忙しく働き続けています。
なぜ働くのでしょうか?
底抜けに強欲なのでしょうか?

違います。
それは他者貢献のためであり、
ひいては「ここにいてもいいんだ」という所属感を確認するためなのです。

岸見一郎  古賀史健  「嫌われる勇気」

この引用から何が言いたいのか。

わたしたちが、誰かのために何かをするのは、
実はそれが、自分のためだからです。

わたしも、人のために何かをするのが好きです。

でも、
「人のために」なんてことを、意識することはありません。

「人のために何かをしよう」
そんなことを考えなくとも、

ただ、誰か好きな人のために、何かをしたいと思う。
意識なんてしなくても、身体が勝手に動く。

たとえばわたしは、
人からプレゼントをされるより、
人にプレゼントをすることの方が好きです。

でもそれは当然、
初めからじゃありません。

子どもの頃は、
ほしいものは尽きなかったし、
親からプレゼントを買ってもらうことが大好きでした。

誕生日もクリスマスも、
待ち遠しく仕方がなく、
カウントダウンするほどでした。

学生の頃だって、
付き合っていた恋人からプレゼントをもらうことに、
大きな喜びを感じていました。

とにかく、
「何かをしてもらうこと」が大好きだったんです。



でもいつからか分からないけど、

「もらう」より「あげる」ほうが、
より大きな喜びを感じるようになりました。

でもそれは、
わたしだけじゃないはずです。


「人のために何かしよう」
「人のために生きないといけない」

それが言葉として出てきたとき、
わたしは疑念を抱いてしまいます。

それはなぜかと言えば、
そんなことは当たり前だと思うから。

誰かから言われて、
強要されたり、
教え諭されたりするようなことじゃありません。

だから、
「人のために」みたいな説教をしている
宗教家のような人を見ると、

「人間なめんなよ」と思ってしまうんです。


ただ純粋に、
相手に何かしてあげたいと思う。

自分の内発的な動機、衝動によって、
つい良いことをしてしまう。

大切な人が困っていたら、つい相談に乗りたくなる。
自分にできることなら、手助けをしたいと思う。

それが純粋じゃないかと思うんです。


今回はこの辺りで失礼します。
長くなってしまうので、続きはまた次回にさせていただきます。

是非、また次回もお読みいただければ幸いです。

ご拝読、ありがとうございました。

また次回、お会いしましょう。
あなたに幸あれ。




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