言葉はなまもの

別になんの記念日でもないのだけれど、自分が書いてきたたくさんの記事を読み返してニヤニヤする日ありますよね。

遠い昔に書いた文章の7割は読み返すと恥ずかしいもので、残りは「意外といいこといってんじゃん」な言葉たち。学生時代の黒歴史さながらの羞恥心を抱えながらも、積み重ねてきた文章たちが今の私を形づけているのが嬉しいです。

私が精神的に成長できるように向き合う時間をくれたのは「文章を書く」作業でした。数年前にはふんわりとした表現しかできなかった気持ちが文字に書き起こしていくことで、芯のある言葉へ変わる時。それは一つの記事に止まらず時間をかけて変わっていったもので、子供の成長のようです。今では未来の私が見返した時にどう思うのか、わくわくしながらnoteを書いています。人間が生み出す言葉は大きくなって、時に変態して、とても生物的なところが魅力だと最近腑に落ちました。

私を戦前幻想文学の沼に突き落とした稲垣足穂は多くの名言を残していますが、彼の言葉も非常になまものです。

ムザンな、痛ましい、あるいはどうにも仕様のない欠点を伴ったときが、最も人間らしい。

美少女論

もはや「人間」と言うコトバは役に立たなくなってきた。だれでも「人間」に決まっているからだ。それなのに「人間として」など、いったい何事をいおうとしているのか判らない。

すでに肉体が真理である

前者が足穂が初期に、後者が後期に残した言葉です。
言っていること全然違いますね笑
幻想文学雑誌「幻想文学」では足穂作品の再編集本が出版された時、レビューではこんなことが記載されています。(というか酷評されています。)

これは一貫とした「教理の書」などでは全くない、相矛盾することを恐れず言いたい放題、しぶとく講釈をし続ける「放言の書」であろう。

幻想文学24 特集:夢見る20年代

偉人の残す名言はどの時代も変わらず、私たちの人生を輝かし続けてくれる。そんなことを漠然と考えてしまいがちですが、そうでしょうか。偉人も人間であり、思い悩み、考えを改めたり、放った言葉を訂正したい瞬間はあるでしょう。

名言を発した瞬間や全ての人生を終えて変化がなくなった時、言葉はその時間にがっちりとはまり込む。偉人が体験した出来事や時代に私たちがリンクした時に、名言と感じる。遺された言葉の輝きはそんな時に増すのでしょう。

私たちが発する言葉はもしかしたら一瞬の私を捉えた言葉ではないか。
その尊さが私を言葉の世界に引き込むのかもしれません。


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