私はセクシャルマイノリティなのか
世の中の恋愛沙汰はドラマや漫画、小説に感化された人がするもので実際フィクションのような心の変化は起きていない。
手を繋ぐとドキドキする。
体の交わりで愛情が深まる。
好きな人を見ると興奮する。
キスをすると安心する。
好きな人は独占したい。
好意を持つ相手に異性として扱ってもらえると嬉しい。
告白して付き合ってデートして手を繋いでキスをしてセックスをして結婚して子孫を残す道が理想だ。
これらはフィクションだ、現実は違うと高校生の私は思っていた。
友人と恋愛の話をしても心の底では恋愛小説の主人公になりたいだけなんじゃないのかと割と本気で思っていた(言葉にはしなかったけど)。
しかし本当は逆だったらしい。
現実世界の恋愛が元になってドラマや漫画、小説の創作物が誕生した。
これに気がついた大学生の頃私はとことん驚愕していた。
大学生ともなると流石に結婚の話が現実を帯びてきて、恋愛話も生々しいセックスの話も入り混ざり、周りの人は本当に他人に恋愛感情・性的感情があるんだと思い知らされた。
高校生の頃私にも好きな人はいた。
ただ私の好きでは友人と恋人の差がわからない。
その人とはつきあってキスして別れた。
確かに好きだったのに、うまくいかなかった。
キスされてもハグされても可愛いと言われても恋愛小説のようにはいかない、むしろ気持ちが冷めていく。
彼氏と彼女という関係は居心地が悪かった。
心地よく恋愛小説のように楽しめる彼ら彼女らが羨ましくて、私と周りには壁があると思い込むようになった。恋愛話を聞く時も違う世界の住民だと距離を置くようにした。
そこから時がたち、すっかり私はアロマアセクの住民になり、一旦自分のセクシャリティについては安寧を保っていた。
そこに「恋せぬふたり」という嵐がやってくる。
嫌な記憶を思いだし、アロマアセク当事者にとっては辛いドラマでしかないという意見がTwitterでちらほらみられるようになった。
実際そうだった。ぼろぼろに泣いたし。
そのいっぽうでロマセクの方もこのドラマの主人公達に共感できる部分があったことがSNSの感想からわかってきた。
性別ごとの役割や男らしさや女らしさについての部分に共感したというのが多かったと思う。
悩む視点は違えどセクシャリティに何かしらの不和を抱える人は多いかも。
そんな気持ちになったから思った。
「私はセクシャルマイノリティなのか」
外国の一部ではセクシャルマイノリティという言葉は使わないようにする動きがあるみたいだ。
私が感じた壁は実は私の周りの人の間にもあって、恋愛する人しない人を二分できるものではないかもしれない。だとすると私たちはマイノリティであるか否かということよりも個人個人が違うかもしれないという意識を持って接するのがいいのではと思った次第である。
松澤