柴犬と父さん、そして僕
私が生まれたとき、父はバスの運転手で、母は車掌だった。「文字通りの車内(社内?)結婚」というのが、あまり冗談を言わない父の数少ない上出来の決まりネタ。
私が小学校3年生の頃に、父はバス会社を辞め、個人タクシーを始めた。やがて田圃(たんぼ)が広がる市外の農村に引越し、私はミカン畑に囲まれた小さな小学校に転校。夏は蛙の声がやかましく、ガラス戸にはヤモリが何匹もはりつくような一軒家の生活に泣きたい気分になった。とくに「マムシに注意」と書かれた看板のあるあぜ道を歩いての登下校は、命がけの冒険みたいに緊張した。今では、田圃も蛙も姿を消し、多分マムシもいなくなった。そして住む人もずいぶん少なくなり、ぼろぼろになった空き家と雑草が生い茂る空き地だけが増えてゆく。
家にはエアコンがなかった。当時ではむしろ当たり前のことで、どの家も扇風機だけでうだるような夏の日をしのぎ、子供達は涼を求めて図書館に行った。高校3年生の蒸し暑い初夏のある日、学校から帰ると、私の部屋の窓にクーラーが設置されていた。「夏休みの受験勉強はたいへんじゃろう」と父が近所の電気屋さんに頼んで取り付けてもらったらしい。
翌年の春には上京してしまった私に替わり、わが家で唯一の冷房室は妹が主となった。居間や両親の寝室にエアコンが入ったのはもっとずっと後のことである。
築50年近いその一軒家に、今は母が独りで住んでいる。盆や正月には家族や親戚が10人近くが集った和室も、畳がすり減り、欄干には埃が積もっている。父がタバコをくゆらして新聞を広げていた縁側の電球も切れたままだ。
母に、そして父に、本当に申し訳なく思う。
【2019年(令和元年)8月12日】
暑い日が続きますね。8月10日と11日で、長野の蓼科に一泊し、軽井沢経由で帰ってきました。ナツとユウが夏休みということで、チェリーを連れて久しぶりの家族旅行でした。ナツがリゾートホテルを予約してくれたんですよ。
今日は立秋です。夏至と秋分の中間日で、明日以降の暑さは「残暑」と呼ばれ、書状のご挨拶は「残暑見舞い」となります。古今和歌集に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども、風の音にぞおどろかれぬる」と詠まれた如く、暦(こよみ)の上ではもう秋です。とは言え、現実は真夏の猛暑日 がずっと続いています。体温並みの温度になることも最近では珍しくなくなりました。平安時代とは1か月くらいの季節のずれがあるみたいです。日本がだんだん亜熱帯化しつつあります。
【2019年(令和元年)8月16 日】
今日は、羽田から空路熊本に入りました。熊本市内での用事を済ませ、九州新幹線で鹿児島に移動して先ほどホテルにチェックイン。熊本から鹿児島中央駅までは56分、博多から鹿児島中央まででも1時間26分で行けます。新幹線は本当に便利ですね。九州を縦貫する高速道路も整備されていて、九州道をまっすぐに南下すると下関から鹿児島まで約360km、4時間半くらいで着きます。昔、父さんがドライブで連れてきたくれた頃の所要時間は何時間だったんでしょう?霧島温泉郷に泊まり、桜島で溶岩を拾ったのを覚えています。
終戦直前の動乱期を、予科練の一員として、鹿児島で過ごした父さん。毎日のようにあの桜島を眺めていたはずです。あたりまえのように周囲の人々が命を落とし、いつかは自分の順番になることを覚悟して過ごした少年兵たちは、その岳の煙をどのように見つめたのでしょう。父さんは、決してその頃の話はしませんでした。思い出したくない事がたくさんあったのか、それとも一日一日を必死に過ごすあまり、記憶に残っていなかったせいでしょうか。
「我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春を描いた「人生劇場」でも紹介されるこの歌は、福岡藩士の平野國臣が読んだと言われています。私にとっても想い出深い歌です。“ご都合長州男児”の安倍首相が総選挙前にちゃっかり引用したのは、まあご愛嬌として許しましょう(笑)。
【2019年(令和元年)8月18日】
わが家の柴犬は11歳です。人間で言えば60歳くらいだそうです。小柄で贅肉もついていないせいか若く見られますが、ひげも白くなり歯も一本抜けました。夏はエアコンの下、冬は暖房器具の前に寝そべって、番犬としてはまったく機能していません。
ナツが中学3年生、ユウが小学6年生に進級する早春のことです。香港から帰任して住み始めたこの街で、買い物をする妻を待つ間に、ユウと一緒に駅前のペットショップに立ち入りました。小さなケージの中の仔犬や子猫を、ガラス越しに見ることができるそのショップは、店員さんの感じも良く、ひやかし客でも入りやすい雰囲気で、私もちょくちょくお邪魔していました。
顔なじみの店員さんに会釈して、仔犬コーナーへ行くと、3階建ての一番下のケージ中にいる生後2か月の小さな柴犬の姉妹がいました。どちらもとても小さくて、本当に柴犬なの?と思うくらい華奢でした。一匹のケージには「新しい家族が決まりました」とのスティッカーが貼られていたのですが、もう一匹はまだ飼い主が決まっておらず、こちらの仔はガラス越しにもブルブル震えるのがわかるくらい頼りなさげな様子です。しゃがみながらガラスを軽くトントンと叩くと、その仔はハッと顔を挙げて、小刻みに震えながら私を見上げました。これまでも何人もの人間をガラス越しにを見つめたその小さな黒い瞳は、何故か寂しげでした。真っ直ぐに私を見つめ、耳を立て、前脚をガラスに預け、立ち上がろうします。
「ここから出してください」私はその仔犬の声がはっきりと聞こえました。
「この仔は生まれつき鼻が黒くなくて、そういう柴犬は敬遠されちゃうんですよ。なかなか新しい家族が見つからないと思います。」と女性の店員さんが悲しそうに話します。「売れ残っちゃうとどうなるんですか?」とユウが小さな声で店員さんに尋ねました。店員さんは困った顔でうつむきました。
私が高校3年生の冬、突然何の前触れもなく一匹の柴犬がわが家に現れました。甲高い仔犬の鳴き声で目を覚ました私は、玄関に繋がれたその犬を見てびっくりしました。おそらく生後半年はたった仔犬だったと思います。あまり人間との生活になれていなかったのか、私が手を差し伸べると本気でかみつくような気性でしたね。父さんがどこからか貰い受けてきた犬でした。
大学受験を間近に控えてイライラしていた私は、そのうるさい仔犬を歓迎する気持ちにはまったくなれずに、むしろ「なんでこんな時期にうるさい仔犬を連れてくるだよ!」と父さんに毒づきました。父さんは困ったように笑いながらその犬を抱き上げ、鼻の頭をぺろぺろとなめられながら「見捨てるわけにはいかんけえの」とつぶやきます。その様子をみて、情緒不安定だった私は癇癪を爆発させ、しばらくの間父さんとは口をきかず、犬のハウスが車庫に置かれるようになってもまったく無視していました。そんな私にその犬はひときわ大きな声で吠え、私はますますげんなりしたものです。
私が東京の大学に行きたいと言ったときに「それはええ。がんばれ」と言ってくれた父さん。でも内心はちょっと寂しかったのかもしれません。そして息子は「帰省」はする事はあっても、もうここへ「帰る」ことはない、とわかっていたのでしょう。息子が事実上家を去る事への覚悟を固め、心の準備をせなばならない時に出会った一匹の仔犬。父さんは見捨てることができなかったんですね。今は、父さんの気持ちがわかります。その仔犬は、父さんの想いを私に伝えたくて、懸命に私に吠えて訴えていたのかもしれません。精神的に不安定だったとはいえ、私はひどい事を言ってしまいました。二人とも、ごめんなさい。
その小さな仔犬は「キャンキャンとよく鳴く」ということでチエミから「ナッキー」と命名され、不在の長男の代役を見事に果たし、父さんのよき話し相手となったそうですね。
さて、私が駅前で出会った鼻がピンクの仔犬ですが、家族全員の賛同のもと、わが家の一員として迎えることになりました。生後三か月を待ち、ワクチンの接種を終えて、初めてショップから外へ出たその仔犬は、まぶしそうに満開の桜の樹を見上げ、抱き上げた私の鼻をなめます。もう震えてはいません。「さあ、始まるよ」と囁いた私はきっとあの時の父さんと同じ表情をしていたと思います。
桜の季節にやってきた、「鼻に花弁がはりついたみたいな」可愛い仔犬はチェリーと命名されました。 妻も子供たちも、そして多分本人も、この名前を気に入っています。