古田柊ニ

【花の師匠の一番弟子】 故郷でひとり暮らす母に綴った手紙を少し手を加えて投稿します。私的なエッセイなので、退屈かもしれませんが、よろしければ読んでみてください。何の変哲もない中年オヤジですが国内外のいろんな街に住み、第二の故郷がたくさんあるのが自慢です。

古田柊ニ

【花の師匠の一番弟子】 故郷でひとり暮らす母に綴った手紙を少し手を加えて投稿します。私的なエッセイなので、退屈かもしれませんが、よろしければ読んでみてください。何の変哲もない中年オヤジですが国内外のいろんな街に住み、第二の故郷がたくさんあるのが自慢です。

最近の記事

母の日 2024

 妹と私で母の日に帰省。三人揃うのは久しぶりで、母は喜んでくれた。  母は、もちろん毎日ではないが、デイサービスに通い、週末は宿泊利用もしている。齢なりに、脳内の海馬も衰えはじめ、医師とケアマネさんと相談して、デイケアも併用することにした。妹とともに帰省したのは、それに向けて医師と相談するためだった。    介護については、明確な分類(LEVEL)が存在する。つまり、日常生活を送るにあたって、どの程度の介護(介助)を必要とするかを表す指標があるということだ。それは「要介護

    • 神無月 父と柴犬とぜんざい

       10月は神無月。農作物の収穫のシーズンを前に、各地の神様は出雲大社に行き、大国主命(オオクニヌシのミコト)のもとで行われる「神議り(かみはかり)」に参加する。こうして各地から神様が消えることで「神無月」と呼ばれた。一方、神様が集う出雲では「神在月」と称される。「神議り」は、農作物の収穫量や、縁結びなど、里の人々にとっての重大事が決められる大事な会議であり、神様は出席しないわけにはいかなったのであろう。  古事記によれば、葦原中国(あしはらのなかつくに)という豊かな国を築い

      • 花火

        【みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりつくっていたら、きっと戦争なんか起きなかったんだな】山下清  花火は、火薬と金属粉を混ぜて包み、それに火をつけて破裂させて、その音や火花の色、形状などを夜空に演出するもの。金属の炎色反応を利用しているため、混ぜ合わせる金属の種類によって様々な色合いの火花を出すことができる。火薬の平和利用の数少ない成功例かもしれない。  もともとは、中国で魔除けのために爆竹を鳴らしてのが始まりと言われているが、近年の海外では、主にお祝いと

        • 作文

           久方ぶりの投稿となる。新型コロナ騒ぎはまだ収束していないが、それでも季節が廻り、春を迎えた中で人々の表情は少し明るくなった気もする。もちろん油断は禁物だが、ワクチンの接種も始まり、漸くこの見えぬ敵との戦いに勝つ可能性を手に入れた人類が、徐々に自信をつけてきたということだろう。  私の会社も、大半の企業がそうであるように、年度末を迎えている。まずは決算、足元の資金繰りに常にもましてプレッシャーがかかる月である。サラリーマン時代にはほとんど関心のなかった予算達成状況、決算とい

          順番

           「順番違(たが)えたらいけん」これは母の口癖である。わかりやすく標準語に変換すると「順番を狂わせてはダメ」となる。  昭和11年生まれの母には、姉と妹、そして10歳違いの弟がいた。母の父親、つまり私の祖父は戦後すぐに病死したため、祖母と母たちの生活はけっして楽なものではなかった。炭鉱の街、筑豊に生まれた祖母は、明治女らしい気丈さと生真面目さを兼ね備えたクリスチャンで、外働きと裁縫の内職に勤しみ、母達4人の子供を育てた。持っていた着物や装飾品の大半は食糧にかわり、家族全員が

          Japan As No.1 ⇒ バブルの入り口

           日本の高度経済成長の要因を海外の研究者が分析し、「日本型経営」への関心が高まっていた時代。そこはまさに後世「バブル」と呼ばれる高景気の入り口で、世の中は、饗宴前の慌ただしい高揚感に満ちていた。かように盛り上がる世間の一隅で、私は、四畳半一間の下宿で暮らす貧乏学生で、毎月末をいかに乗り越えるかという喫緊の課題と向き合い、それでいてなぜか呑気で賑やかな日々を、似たような境遇の仲間たちと過ごしていた。大学ではESS(英語会)に所属し、ケネディ大統領やリンカーン大統領の演説を諳んじ

          Japan As No.1 ⇒ バブルの入り口

          苗字そして名前

           日本には30万種類の苗字があるという。総人口が1億2千万の国に30万種類はいかにも多い。多い順には①佐藤 ②鈴木 ③高橋等々で、TOP10の苗字が総人口の10%を占めるという。お隣の韓国では人口の40%が金・朴・李で漢字の本家中国でも、王・李・張で総人口の20%以上を占めるというから、やはり日本の姓は際立って多種である。  そもそも中国・韓国では大半の姓が漢字一文字だが、日本の場合は複数が多く、同じ漢字表記でも地域によって読みたかたが変わったりする例が多いので、苗字数が漢

          苗字そして名前

          母の日

           母から着信。母の日に贈った羊羹が届いたとのこと。もともと大の甘党で、甘納豆や羊羹、外郎などの和菓子が好物だったが、父の闘病が始まった40年程前に、そのほとんどを断った。糖尿病からの様々な合併症が進み、父が亡くなった以降も口にすることはなかったが、去年虎屋の羊羹を届けたところ、「友達と手芸しながらみんなでいただいた。美味しかったよ」と言ってくれたので今年は少し量を増やして贈った。ガマンの繰り返しだった母の人生。せめてこれからは好きなものを食べ、仲の良いお友達をおしゃべりをして

          花咲か爺さんへの道

           下関の実家には、鯉が泳ぐ池や、松や梅の樹々と庭石で造形された庭園があった。父が自分で設計し、石や灯篭を置き、木を植え、鯉を少しずつ増やし、根気よく築いていった庭。濡れ縁から眺めると、ちょっとした古刹の和風庭園なような趣があった。山茶花の枝に百舌(もず)が早贄(はやにえ)し、鯉を目当てに白鷺が飛来、時には近隣の森からイタチも顔を出すこともあった。今はもう池には鯉はいなく、水面を覆うように枝を拡げていた松や、寒空に映えた椿も伐採された。「私ひとりじゃ、鯉や高い枝は世話しきらんよ

          花咲か爺さんへの道

          虹の橋のたもとに

          「はじめに神は人間を創り給うた。そして人間がかくも弱いのを見て、神は人間に犬を与え給うた」この動物学者の至言によると、犬は人間とともに暮らすための生き物だということになる。  作者不詳ではあるが世界中に広まっている「The Ten Commandments of Dog Ownership (犬の十戒)」という英文の詩によると、人間と暮らすことになった犬は以下の様なメッセージを人間に伝えたいらしい。(小生拙訳) (1)私の一生はだいたい10年から15年。あなたよりずっと短

          虹の橋のたもとに

          こたつのあるお正月

           炬燵(こたつ)のある家が少なくなった。多分それを知らない若者のほうが多いかもしれない。私が大学生の頃は、4畳半に炬燵というのが貧乏学生の住む部屋の定番だった。勉強机にも暖房にもなる炬燵はまさに万能家具の一つで、寒い冬はそこに足を突っ込んで布団をかけて眠り、生乾きの洗濯物を入れておけばふんわりと乾かすこともできた。  映画「神田川」のロケ地の近くの下宿には風呂が無く、風呂おけにシャンプーと石鹸をいれて銭湯に通った。神田川は大雨の時は水位が上がり、何度となく道路が冠水して、西

          こたつのあるお正月

          個人タクシー 

           父は、旧プリンス自動車の車が好きだった。戦前の戦闘機メーカーの流れをくむこの会社は、グロリアやスカイラインなどの名車を世に出していたが、なんといっても桜井真一郎デザインのスカイラインは、国産車としては初のモータースポーツ界の伝説となった名機であり、後部ドア上の独特のプレス形状、サーフサードラインはモデルチェンジを繰り返しながらも何代も継承された。  父が運転する個人タクシーの車両もずっとスカイラインで、毎日丁寧に清掃され、ワックスで磨かれたそのボディは常に輝いていた。さす

          個人タクシー 

          下関へ 妹と次男とともに

           私は山羊座のA型である。したがって本来、生真面目で、細かい事にも気を配れるはずなのだがどうも「生真面目」には程遠く、寧ろ面倒くさがりで、たまにどうでも良い些事だけが「妙に気になる」というちょっと怪しいA型のようだ。父も母も妹も同様にA型で、こちらはいかにも典型的なA型人間だから、おそらく私だけが何らかの遺伝子変異、あるいは後天的な経過を経てからか、いつの間にかA型の美質を失ってしまったらしい。  59年も生きてきた挙句に、このようなことを告白するのは、少々やるせない気もす

          下関へ 妹と次男とともに

          柴犬と父さん、そして僕

          私が生まれたとき、父はバスの運転手で、母は車掌だった。「文字通りの車内(社内?)結婚」というのが、あまり冗談を言わない父の数少ない上出来の決まりネタ。  私が小学校3年生の頃に、父はバス会社を辞め、個人タクシーを始めた。やがて田圃(たんぼ)が広がる市外の農村に引越し、私はミカン畑に囲まれた小さな小学校に転校。夏は蛙の声がやかましく、ガラス戸にはヤモリが何匹もはりつくような一軒家の生活に泣きたい気分になった。とくに「マムシに注意」と書かれた看板のあるあぜ道を歩いての登下校は、

          柴犬と父さん、そして僕

          夏といえば、浴衣といえば

          暑い夏の日は嫌いではない。刺すような夏の日差しを見上げ、セミの声を聞きながら過ごす夏の昼下がりが、子供の頃は大好きだった。学校が夏休みに入ると、午前中は図書館で本を読みあさり、家にもどって冷たい素麺を食べ、扇風機の前でたっぷり昼寝する毎日を過ごした。まさに至福の季節だった。  当時は、ほとんど毎日ランニングシャツに半ズボンといういでたちで、外に出る時は麦わら帽子をかぶらされた。夜は風呂上りに祖母が仕立てた浴衣や甚平を着て、冷えた西瓜にかぶりついた。冷房が無い我が家では、和室の

          夏といえば、浴衣といえば

          モスクワの日々

           1917年11月7日の十月革命(ロシア革命)から内戦を経て、1922年12月30日に成立したソビエト連邦。69年後の1991年12月25日に崩壊し、連邦は解体。それぞれの連邦内国家が独立し、ロシア連邦を中心とするCISという緩やかな国家同盟に移行した。アメリカに対峙し続けた大国の崩壊により、それまでの冷戦構造は収束し、米国一強時代が幕をあけた。ソ連の崩壊には様々な要因があるが、共産主義体制の持つ矛盾の中での国民の生活のストレスが限界に達していた、というのが実態に近いと思われ

          モスクワの日々