付け合わせのにんじん
鉄板に乗って提供されるハンバーグには、いつも付け合わせがついている。
時にはフライドポテト、時にはコーン。
そしてにんじん。
ただ焼いただけのにんじんは、ハンバーグのソースととてもよく合う。
濃い味付けが多いハンバーグとは違い、淡白な味なのでバランスが取れている。
しかも、野菜を食べているという事実が罪悪感を和らげる。
栄養価の割合を考えたら到底、ハンバーグとライスによってもたらされるカロリーを緩和できるような類のものではないが、それでもないのとあるのでは全く話が違う。
焼かれただけのにんじんを食べる機会は基本的にハンバーグプレートの上にしかない。
そこでしか気がつけないにんじん本来の甘さが好きだ。
よく「ゆる言語学ラジオ」というyoutubeも配信してるpodcastを聴く。
特にピダハンの回が好きだ。
ピダハンはアマゾンに住む先住民族で、彼らの持つピダハン語という言語には数の概念がないらしい。
そのため、数の起源に迫る時に非常に参考になる事例だという。
学者が彼らに色々な検証を行うのだが、その結果に興味深いものがある。
ピダハンの人々に数の概念があるか調べるためを問題を出題したところ、1〜3までの概念は理解していたが、それ以上の数の概念の扱いについては一気に正確性が落ちたらしい。
これは、人が生得的に獲得している数は1〜3までであり、それ以上の数は後天的に教育によって獲得していることを示唆している。
興味深い。
社交的な人の中には、大人数での集まりを苦としない人がいる。
僕はとても苦手だ。
僕は基本的に自分を含めて4人までの集まりにしか行かないようにしている。
それ以上は会話が処理できなくなって疲れてしまうからだ。
どれだけ仲が良く、気を許している人たちでもその数の限界は変わらなかった。
これはおそらく、直感的にそれぞれの個人を正しく認識した上での会話が自分の他には3人までが限界だということを示している。
ここでピダハンの話とリンクする。
人が直感的に理解できる数の上限は3だ
社交的な人たちは明らかに3を超える人たちと同時に会話をしたりする。
彼らは話して本当に会話ができているのだろうか?という疑問が出てくる。
そういった社交には向き不向きがあって、俺が内向的かそうでないかを決めていると思っていた。
けど、どうやら違いそうだ。
彼らは、自分と相手の関係を個人対個人ではなく、個人対他で切り分けているのではないだろうか。
他に含まれた人々は個別に切り分けられず、ひとまとまりの「他」として取り扱われる。
同様に、話している彼自身も他の人から見れば他の一員だ。
彼らはそうしてコミュニケーションを取るから、あんまり会話が通用しなかったりする。
僕が大人数の場が苦手な理由だ。
会話が成り立たないのだ。
ただ、これに関しては上手くやっている人もいそうだ。
自分の使える3のリソースの中で、1を他との会話に当てて、残り2はちゃんと話したい人に個別に当てがう。
そうすることで2人の大切な人を大切にしつつ、他との関係性も取り持てる。
みたいな。
多分こう言う人はモテる。
だから僕もそうなりたいけど、口で言うほど簡単ではなさそう。
まず、飲み会に誘われないといけない。
断りすぎて今や誘われなくなった僕だ。
お誘いは期待できない。
であれば誘うしかないが、長らく閉鎖的なコミュニティで息をしていた僕に取ってはかなりの重労働だ。
それに、仮説が正しいかわからないし、正しかったとて自分がそれを上手く実行できるかは全く別の話だ。
ゆる言語学ラジオはいい感じのにんじんだ。
現代社会を生きる僕の生活には、SNSが深く侵食している。
自分の弱い部分や醜い部分、ネガティブな部分を積極的に投稿する人は少ないから、結果として非常に取り繕われた、綺麗で意識の高い世界が作られている。
実際にはもっと肩の力が抜けた生活をしているのだと思うけど、どうしてもみんな常に努力をして、人生を謳歌し、目標を達成し、なにより幸せでいる。
普通に生活していたら、そんなトッピングを全部乗せたような生活にはならない。
生活ってものには、苦悩や葛藤も含まれているはずだ。
理解はしているはずなのだが、何故だかそんな葛藤は誰もしていないかのように見えてくる。
みんながきっとフルカスタムなパフェみたいな生活をしていると思ってしまう。
そして、そうではない自分の現状と照らし合わせて、とめどない焦燥感を得ている。
止まってはいけないのではないかという焦りが。
そうしていつしか、テレビを見なくなり、漫画を読まなくなり、友達と遊びに行かなくなった。
勉強を自分に強いられるようになった。
主体性のない焦りはモチベーションにつながらない。
積み上げられた読んでいない本たちは徐々に高くなり、YouTubeは討論番組や真面目な動画ばかりをサジェストしてくるようになった。少年ジャンプの購読は止めてしまっている。
そんな中、ゆる言語学ラジオは適度に知的好奇心をくすぐり、適度に学びがあり、そして適度に俗っぽい。
"ゆる"言語学ラジオを自称するだけある。
勉強になっているという充足感がありつつ、
娯楽として何も考えずに楽しめる部分があり、
単純な学問としての面白さも教えてくれる。
完全に付け合わせのにんじんだ。
日々の勉強の中に、そっと付け合わせるととても良い。
罪の意識を感じずに、脳をリフレッシュさせられる。
肩肘張らなくて良く、主体的じゃなくてもいい学びがとても心地よい。
学問の面白さも再認識させてくれる。
改めて純粋なにんじんの美味しさを知ることで、更に上手くにんじんを生かした料理が作れるようになりそうだ。
にんじんは割と安いからよく買うけど、最近はきんぴらごぼうばかりだった。
退屈なYouTubeのサジェストが少しでも彩られるように、にんじんのレシピを調べてみた。
今の僕へのサジェストには、
マッチョな青年がズボラ飯を教えてくれる「だれうま」さんや、段ボールで作ったマグロの被り物を被ったまま料理を紹介してくれる「ツナボーイ」さんなどが出てくるようになった。
うーーーーーん。
、、、思ってたのと違う。