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梅雨が始まるよ。


突然だけど、「止まない雨はない」ってポジショントークすぎない?

雨が上がった人か雨上がりを夢見ている人しかこのセリフ言わないし、このセリフを深みを持って言っている人を見たことがない。
せいぜい水溜まりくらいの深さ。
雨が上がったポジションからこれを言う人はとりわけ浅い。
登った太陽に水溜りが渇かされてしまったんだと思う。


雨なんてそうそう止まない。
きっとたくさんの「止まない雨」を浴び続けている人達がいる。

そんな簡単に止まれても、晴れた時のありがたみが小さい。
雨が上がったポジションから浅い話をする人たちはだいぶ小雨でこの話をする人が多い印象。
熱帯雨林にぶち込みたいといつも思う。


僕もどうにも満たされない自分の人生を眺めて、
「あぁ、雨降ってんなぁ」
といつも思っている。


ちなみに、僕は雨が好き。


満たされてみたいけど、満たされた瞬間に人生が陳腐化しそうなので、適度に濡れていたい。


誰かに傘を差し出して、自分の肩がびしょ濡れになる感じの人生などに憧れる。


よく、「自分の人生の主人公は自分しかない」という言葉を耳にする。

それを聞く度、
「くそ喰らえ」
と思う。

僕は全員が主人公だなんて、そんな生ぬるい物語はきっと嫌いだ。

近年の学校教育では自己肯定や個性の尊重などにより、
「世界の主人公はあなただ」
みたいな教育を行っている気がする。
実感も伴っている。

一方で、
「あなたは少なくとも自分の人生においては主人公でなければいけません」
と言われているような気がしていた。

「将来の夢」を定期的に問われることで、「夢は持たなければいけないものであり、夢を持っていないことは避けるべきことだ」みたいな擦り込みを受けたと感じた。
当然、そこで問われるのは「主人公の職業」だ。

プロ野球選手、医者、ミュージシャン。

なんで小学生のうちから将来の夢なんて考えないといけないんだ。

しかも、なんだか「夢見がちな夢」を見ることしか許されない風潮もあるでしょ。
多分、「コンビニ店員」って書いたら笑われるけど、「石油王」って書いたら子供らしいと褒められる。


リアリストが笑われて夢想家が褒められる構図は、大人たちの社会とは交差している。


夕方のニュースで
「小学生に聞いた将来の夢ランキングで『公務員』が第3位にランクランしています」
みたいなのが、ネガティブなニュアンスで表現される。

社会を円滑に回すことは素晴らしいことだし、優秀な人材が多くいることの必要性は当然高い。
しかし、それを第一に志すことをあまり良くない形で表現される。

ある種の自己矛盾みたいなものの匂いがぷんぷんする。


僕は誰かの人生の脇役でありたい。

主人公なんて絶対に嫌だ。

原動力は自己否定と怒りと劣等感であるし、お遊戯会では第一候補に「木の役」を挙げるタイプだった。


自分が真面目で実直に二酸化炭素を酸素に変換する営みをしている足元で、王子様とお姫様が城を抜け出して雨を凌いでいたら、それは素晴らしいことではないか。
ロマンスが始まればなお良い。



注目を浴びるなんてもっての外だ。
原動力が「自己否定」の人間は、衆目の的に晒された瞬間にメタ認知が暴走してしまう。

人には向き不向きがある。
僕はきっと夢を持つことが向いていない。
お願いだから、僕に出会った人は僕に将来の夢を尋ねないで欲しい。
ちゃんと答えられた試しがない。
「夢を持たずに死ぬこと」は将来の夢への回答として有効ですか?




この通り、僕は日陰者だ。
根本的な考え方が暗くて、湿っている。
シダ植物が喜ぶ環境を持っている。
多分、燦々とした太陽が必要な植物とはあまり仲良くできない。
ヒマワリとか。あいつは陽キャすぎる。


「世界は〜」「社会は〜」などと大きすぎる主語を多用していた自分への自己否定から、今は自分の手が届く範囲の世界を大切にしていきたいと考えている。


そしてたぶん、僕の手の届く範囲は暗くて湿っている。

そんな空間がお好みのシダ植物の皆さんと一緒にジメジメしていけたら嬉しいなと思います。


梅雨に入りましたね。

梅雨が明けなければ良いのになぁと、切に思います。


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