【美術展2024#85】田中一村展 奄美の光 魂の絵画@東京都美術館
会期:2024年9月19日(木)~12月1日(日)
かれこれ7年前の記事になる。
田中一村が高校美術の教科書の表紙に採用されたことが話題になった。
しかし「13年版に続き」、ということで遡ること2013年にはすでに田中一村は教科書の表紙になっていたのだった。
その出版社のHPを見てみると、現在の高校美術の教科書は奈良美智、ピーター・ドイグ、ジャン・ヌーヴェルなどの現代の作家たちが表紙になっており、内容も古今東西の作品を幅広く用いていて私の時代の教科書とは隔世の感だ。
こんなに工夫がされている教科書で学ぶ今の生徒たちが羨ましい。
(とはいえ当時美術の教科書とか使った記憶はほとんどないが今はどうなのだろう)
さて、田中一村展だが、平日朝一にもかかわらずめちゃくちゃ混んでいた。
同時期にトーハクでは「はにわ展」、西洋美術館では「モネ展」など集客力のありそうな展覧会が行われていて上野公園全体が混んでいる。
美術館が混むという現象は文化的観点から見れば大変喜ばしいことだとは思うが、一鑑賞者としてはやはり空いている方がゆっくりと見れて嬉しい。
※本展は会場内写真撮影禁止のため以下の写真は全て公式図録より
さて、田中一村展最初の作品は数え8歳(満年齢6〜7歳)から始まる。
小1くらいの歳でこんなのよく描けるね。
幼少の頃の作品は他にも何点か展示されていたが、どれも一人前の画家の作品のような雰囲気が宿る。
っていうかこんな昔のよく残っていたな。
17歳にして「全国美術家名鑑」に名前が載る。
翌年、東京美術学校(今の東京藝大)に現役合格し画家としての将来は明るいように見えたが、2ヶ月で退学してしまう。
当時の同級生には後の日本画壇を代表する東山魁夷がいた。
東京美術学校退学後は長い紆余曲折が始まる。
ただ、全くの鳴かず飛ばずというわけでもなく、受注仕事なんかも諸々こなしながらしばらくはなんとか細々と生活はできていたようだ。
個々の作品を見ればどれも質が高く、今でこそ美術館に所蔵されているが、当時も今もこの頃の一村と同等以上の作品を描く名も無き画家はいくらでもいるだろう。
一村も器用に様々な表現をこなすが画家としての成功は訪れない。
今でも藝大がらみの日本画界隈はアカデミック色が濃く、その輪の中で重鎮たちとうまいこと関係を築きつつ生き延びていかなければならないが、一村の時代の画壇業界なんてそもそも選択肢など無かっただろうし、一度そのレールから外れた者は画家としての死を意味するのと同義だったのではなかろうか。
この時期、相次いで家族を亡くした一村は、29歳時に千葉へ転居し、しばらく内職をしたり野菜を育てたりしながら細々と暮らす。
39歳。
一念発起し青龍展という公募展に出品、初入選した。
だが、結果この作品が最初で最後の画壇入選作品となる。
今ならば他に発表する場やチャンスはいくらでもありそうなのにとも思うが、だがやはり今でもそんな画家は星の数ほどいる。
《白い花》入選の翌年に同じ団体展に2点出品し、自身にとって次点だった作品が入選し、自信のあった方は落選だったため納得できずに入選作も辞退してしまう。
官展や院展はもとより、活躍の可能性があった団体展での道も自ら閉ざしてしまう不器用な生き方は青臭くもあり清々しくもある。
この入選を機に別の仕事はいくつか舞い込んできたようだが、本業の絵は燻り続ける。
たとえいい絵を描いてもそれが時流に合わなかったり、文脈に乗らなかったり、ストーリーが見出せなかったり、そして運がなかったりしたら日の目を見ることはない。
それは今も昔も変わらない。
この頃の書簡がまた泣ける。
「今年こそ入選を目指す」とか「もう公募展に出品するのは最後にする」とか、画家としての葛藤がリアルに綴られる。
50歳。
単身奄美大島へ移住する。
当時沖縄はアメリカ占領下だったため奄美は実質最果ての地であった。
当然今ほど交通の便も情報も無いし、ほぼ世捨て人みたいな状態での移住だったのだろう。
59歳。
工場で働いたりしながら金を貯めて切り詰めた生活を送り、いよいよ仕事を辞め画業に専念することになる。
だが、金銭的に生活や画業を持続することができなかったのか、工場で働いたり辞めたりを繰り返す。
69歳没。
奄美の自然が生き生きと描かれた大型作品が並んだ展覧会最後のブースは圧巻だった。
元々の一村の技術力と奄美のモチーフとしての魅力が重なり、ここに来てようやく一村でしか成し得なかった独自の表現が開花した。
だが、今ならばそれこそInstagramでバズって一夜にして話題になることがあるかもしれないが、もちろん当時そんな術があるわけも無く、それらの作品は世に知られることなく一村は最後まで画家としては大成しなかった。
没後に有志による公民館での3日間の展示が初の個展だったそうだ。
ふと自分の学生時代を思う。
当時、いい作品を作っていた者はたくさんいた。
大したことない作品を作っていた者もそれ以上にたくさんいた。
玉石混合ではあったが、皆多かれ少なかれ夢を抱いて制作をしていたと思う。
だが、その中で今でも制作を続けている者はやはりほんの一握りだ。
今となっては業界でそれなりに名が通るようになった者もいる。
一方、鳴かず飛ばずだが一村のように苦労しながらもしぶとく制作を続けている者もいる。
そんな中、私は学生時代の終わりと共に筆を置いた。
全く可能性がなかったわけではない。
校内でわずか数名に与えられる奨学金をもらえたり、割といいところまでいった校外のコンペなんかもあったりした。
だが、美術にどっぷり浸かるのが怖かった。
一生作品を制作し続けて、美術と心中する覚悟ができなかったのだ。
何が正解だったのかはわからないが、あの頃から四半世紀近く経った今、私はプレイヤーとしてではないが、細々と美術と関わりながらそれなりに幸せな人生を過ごしているとは思う。
それが良かったのか悪かったのかはわからない。
だが、とにかく私は一村のようには生きられなかった。
果たして一村は幸せだったのだろうか。
好きなことに全てを賭して取り組み、後年教科書の表紙を飾り、「いつか東京で決着をつけたい」との思いを果たして東京都美術館で大規模な個展が開催された。
今見ても晩年の一村の作品はまごうことなき名作だと思う。
一見美談のようにも聞こえるが、現実的には現代の名声を知る親族はおらず、生前金銭的には最後まで苦労し、画家として生涯報われることはなかった。
今展覧会は田中一村という一人の画家の人生譚だったが、作品が世に知られる事なくこの世を去っていった数多の「一村」たちへの鎮魂歌のようにも思えた。
そういえば私の学生時代はここ東京都美術館で卒業制作展を行っていた。
あの頃のみんなは元気にしているだろうか。
会場を後にしながら、私の頭の中にはこの歌が鳴り響いていた。
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