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【青年海外協力隊ベトナム日記 2006〜08】 第7話 美しい構図

先生と絵画の構図について話をしていた時のことだ。

先生曰く「画面内に全てのモチーフがバランス良く収まるのが美しい構図だ」とのこと。
そのように見てみると、先生は、誰がどの角度から描いても同じようにしか描けないようなモチーフの組み方をしている。

一回だけかと思い様子を見ていたが、その後も使うモチーフは違うが、後ろに壁があり、真ん中に一つの物があり、その左右に小さな物を置くというモチーフの組み方は毎回同じだ。

先生が組むモチーフの基本形


なぜ毎回同じ構図なのかと先生に聞いてみた。

その答えはやはり「ベトナムではこれが美しい構図だから」とのこと。
しかしこれでは構図を考えるまでもなく与えられたただ一つの決まりきった構図で描かざるをえない。
必然的に学生たちが描く絵もコピーのような個性の無い似通った作品になってしまっている。
構図として安定感はあるのだが逆に言うと動きが無くて面白みに欠ける構図だ。
色はこう、構図はこう、という「正しい絵画の描き方」がここでも弊害になっている。
「何をどのように描くか」ということを考えることもできず、応用力も育つことなく、ただ機械的に「与えられたものを正しくきれいに描く」しかないのだ。

この構図をよしとする理由はなんなのだろうか。

その一因としてベトナムでのカメラの普及率の低さがあるのではないかと考えてみた。
日本では近年のデジタルカメラや高性能カメラつき携帯電話の爆発的な普及により、今や日本人でカメラを持っていないという人はほとんどいないだろう。
(※2006年当時)
一昔前まで主流だったフィルムカメラは、フィルムの残数を気にしながら撮影する必要があったが、デジタルカメラでは枚数を気にする必要なく、何枚でも好きなものを好きな構図で好きなように撮ることができる。
毎日カメラを持ち歩き、気になるものがあったら何回でもシャッターを切るということはもう生活の一部になっている。

昔、日本では「ライカ一台家一軒」(ライカ(ドイツ製の高級カメラ)一台で、家が一軒買えるほどの価格)といわれるほど、カメラは高価で庶民には手の届かない時代もあった。
現在ここベトナムにおいては、そこまでいかないにしても、しかしカメラはまだ高価な物であることには変わりない。
特に私のいるような田舎の町ではカメラ屋も無く、カメラを持っている人は一部の金持ちか、行事ごとに活躍する職業カメラマンくらいだ。
そして写真を撮る機会は何かしらの行事などでみんなが集まった時の記念撮影くらいだ。

思えばベトナムの観光地などに行ったときにも必ずカメラマンが寄ってくる。
そしてみんなで集まって記念撮影をする。
一つのモニュメントを中心にして、一人もはみ出さないようにして写す記念写真。
安定感はあるが動きが無く面白味に欠ける写真。
まあ記念撮影の場合は、面白味を求めているわけではないからそれはそれでいいのだが。

ところで、この構図こそがまさに彼らの言う「美しい構図」ではないか。

日本でも大勢で記念撮影をする機会はもちろんあるが、それ以上に日常の中でさまざまなものをさまざまな構図で撮っている。
私たちは日々写真を撮ることによっていつの間にか知らず知らずのうちに、風景をどのように切り取るかという構図を考えるトレーニングをしているともいえるだろう。

しかしベトナムでは、まだまだ写真はとても趣味にできるものではなく「写真」といえば「記念写真」とほぼ同義であるといえる。
自分でファインダーを覗いてどのように風景を切り取るかを考えるということがなく、気をつけることは一人もはみ出すことなく全員がきれいに収まるように、ということのみ。
結果、それが「画面内に全てのモチーフがバランス良く収まるのが美しい構図」という考えにつながってくる理由のひとつでは、と考えるのは深読みしすぎだろうか。

確かに美術には100%これが正しい答えだというものが無い。だから私が美しくない(もしくは間違っている)と思っても、ベトナム人にとっては美しい(正しい)のかもしれないし、そのような美意識は同じ国の人であっても違うのだから、国が違えばもちろん全く違ってくるのは当然だろう。

美意識は価値観にもつながってくるので、私がこうしろといって日本の(私の)美意識を押し付けるわけにもいかないし、それは美しくないといってやめさせるわけにもいかない。

しかし問題なのはその判断をする基準を一つしか持っていないということだ。
「A」という方法を選ぶのに、A,B,C…といった多数の選択肢の中から彼ら自身で責任を持ってその「A」を選ぶのだったら別にそれでかまわないのだが、今の彼らは「A」という一つの方法しか知らないままそれを受け入れている。

ここにいくつかの揺さぶりをかけてみることにした。
まず、常に壁際に設置してあったモチーフ台を教室の中央にずらし、モチーフから壁を取り去り、そのモチーフ台を学生が円形に囲むような形にした。そして、一つの画面には収まりきらない数のモチーフを設置し、そのモチーフを全て描くのではなく、描きたいものをいくつか選んで自由な構図で描きなさいと指示を出した。

しかし、やはり今まで通りモチーフ全てを画面に入れようとしてしまう学生が後を絶たなかったので、絵画の基礎である主役・脇役といったことや、近景・遠景の違い、画面の中での動きといったことなどを説明し、伝わりにくいところはノートに簡単な絵を描いて説明し、時には私が実際に彼らの作品に手を入れたりしながら進めた。
またあるときはやはり一つの画面に収まらないような上下に長いモチーフを組み、同じように自分の描きたいものを決めてそれに合わせた構図を自分で考えて描くようにさせた。

このような私の試みは学生たちの中に戸惑いを生みつつも、学期が終了する頃には「自由に描けて楽しい」といった声も学生たちの中から聞こえてくるようになってきた。

描く楽しさを知ることこそが表現する喜びにつながる第一歩だ。
今までは、絵をただ「描かされていた」だけだったが、彼らは表現する喜びに気づき始めたのかもしれない。

今後の展開としては、今までモチーフとして選ばれることのなかったような意外性のある物などをモチーフとして使用したり、さらに変化に富んだモチーフ設定をし、彼らの興味を引くと同時に、構図だけでなく色や形も自分の感じたまま思ったままを自由に表現するための力も育つような問いかけをしていきたい。

続く ↓

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