【青年海外協力隊ベトナム日記 2006〜08】 第5話 Thiの見ている世界
その学生はとても謙虚で控えめで、大人数で輪になって話すよりも一人で本を読んでいる方が好きという、ベトナム人にしては珍しいタイプの子だ。
きれい好きで他人がちらかしたゴミを一人で掃除し、皆が目を逸らすような面倒事も一人進んでやり、いつも影で見返りを求めずに他人のために動いている。
そんな古き良き道徳の教科書に出てくるような真面目でやさしい子だ。
学生の名は、Thi(ティ)26歳。
この大学のほとんどの学生は18~22歳だが、Thiは一人だけお姉さんだ。
高校卒業後、実家を離れて別の省のコーヒー畑で働いていたが、2年前にそれまでを振り返ってもう一度勉強したいと一念発起しこの大学の門を叩いたとのこと。
Thiの描く絵は、技術的にはまだまだ稚拙だが、他の多くの学生の教科書通りの似通った筆使いや色使いとは一味違った独特の魅力があった。
また、彼女の話す話も他の学生とは視点が違う興味深い内容のことが多かった。
ベトナムのこんな田舎町に住むのになぜか日本文化に詳しく、芭蕉と小林一茶の詩が好きという不思議な一面も見せる。
以前からThiはどのような世界を見ているのだろうと思っていた。
ある日、Thiから実家に遊びに来ないかと誘われた。
学生たちは男女問わず皆気軽に私を実家に誘ってくれた。
大学から約40キロ離れた村にあるThiの実家は、すぐ裏には海があり道を挟んだ向かいには山があるという、絵に描いたようなベトナムの農村風景の中にあった。
家ではお母さんとお姉さんが出迎えてくれた。
共に品があり落ち着いた雰囲気の人たちだった。
自家製のnước mắm(魚醤)や干物などを売っている実家の商店は、その田舎の周辺にしては大きな店構えだが、きちんと掃除が行き届き無駄なものが無くとてもすっきりしている。
この辺りにもThiのきれい好きの一面がうかがえる。
お母さんに客は多いのかと聞いた。
今日は先生(私)が一人目だ、との答え。
かといって別に売り上げをあせっている様子は無い。
市場にもまとまった数を卸しているらしく、それで一家が暮らしていけるらしい。
庭には果物が生い茂り、のどが渇いて小腹が空けばそれを食べればいい。
すぐ裏の海に行けば新鮮な海産物が安く山ほど売っている。
確かにこの暮らしにとって金はそれほど重要ではないのかもしれない。
ゆっくりと流れる贅沢な時間を過ごしたその帰り道の途中、小高い丘の上に差し掛かったときにThiが言った。
「私はここから見る風景が好き」
眼前には山や畑が広がり、辺り一面の緑の向こうには海が見える。
鳥の鳴き声や風の音が聞こえる。植物や花の香りがする。
Thiはしばらくその風景をぼんやりと眺めていた。
家族がいて、家族のような友達がいて、美しい自然に囲まれて、太陽と共に目を覚まし、夜がきたら眠りにつく。
時間にせかされることもなくゆっくりと昼寝をして、小腹が空いたらまわりに実っている果物を自由に食べればいい。
そしてゆるやかな時の流れの中で風の音を聞きながら美しい風景を眺めつつ一日を過ごす。
これ以上に幸せなことってあるのだろうか?
私が生まれるもっと前の日本もこんな感じだったのだろうかと、ふと思う。
だからといって昔の日本は良かったなどというつもりは無い。
今の価値観で昔の価値観は判断できない。
その時代にはその時代の価値観がありそれは当然現代とは違った形であったはずだ。
価値観は時代や場所と共に移り変わっていくものであり、どちらが正しいか間違っているかなんて誰にもわからないし、またその答えを出す必要もないだろう。
日本が選んで進んできた時代の大きな流れの中で私も成長してきた。
少なくとも私はこれからも日本社会の中で生きていくであろう以上、今の日本の価値観を肯定的に受け止めたいし、またそうすることで私の居場所を確保していかなければならない。
私はここベトナムに美術を教えに来たが、果たして美術を通して彼らに何を伝えることができるのだろう?
今のままで十分幸せそうに見える彼らに、無理に何かを伝えて何かを変えていく必要があるのだろうか?
私がここにいることは彼らにとってどんな意味があるのだろう?
この国はこの先どのような道を選択し、どのような未来を作っていくのだろう?
そしてThiはこの風景を眺めながらその先の世界に何を思い描いているのだろう?
私はそんなことを考えながらThiの視線の先にある風景を、彼女と同じようにぼんやりと眺めていた。
頬に当たる風がとても心地よかった。
Thi=ベトナム語で「詩」の意
続く ↓