アリスの秘密の世界10
アリスは戸惑いながら帽子屋の重ねられた手を見つめました。
この世界に来てから帽子屋には沢山助けてもらったし、アリスはこのおかしな帽子屋に確かに惹かれていました。
それでも、世界が違う二人が一緒にいるのは難しいと思ったのです。
「私、あなたに助けられて嬉しかった」
アリスは握られた手を見ながらポツリと言葉を紡ぎました。
「でもね、どうしても私達は一緒にいられないと思うの。私があなたの世界に行くのもあなたが私の世界に来るのも無理じゃ
ないかしら」
帽子屋の目を見ることができないアリスは、下を向いて話しました。
「・・・アリス」
帽子屋の切なそうな声が聞こえます。
「このまま、君を奪ってしまいたい」
帽子屋が低い声で言うので、アリスはビクッとして思わず帽子屋の顔に視線を移しました。
帽子屋の顔は苦悩に満ちていました。
アリスはその顔を見るとたまらなくなって、衝動的に帽子屋に抱きつくと、泣きそうになるのをこらえました。
「あなたのこと、絶対に忘れないから」
少しでも気が緩むと泣いてしまいそうで、アリスは絞り出すように言いました。
白兎は珍しく、帽子屋とアリスの長い抱擁を待っていてくれました。
長い時間が過ぎて、やっと二人が離れると、兎は静かに告げました。
「ここで帽子屋とはお別れだ。アリスの帰り道の案内役は私しかできない」
兎の言葉にアリスは頷いて帽子屋の方を見ました。
「あなたに会えて良かった。さようなら、元気でね」
アリスがそう言うと、帽子屋は顔を隠すように帽子のふちを下げて短く
「・・・ああ」
とだけ返事をしました。
アリスは寂しく思いましたが、帽子屋さんも別れが辛いんだわ、と納得すると兎を見て言いました。
「もう大丈夫よ、行きましょう」
「では私についてきて」
兎は先に進んで行きます。
アリスは追いかけようとしてためらいました。
そして振り返って帽子屋のもとまで走ると軽く唇にキスをしました。
「さよなら」
アリスがそう告げてきびすを返して走って戻ろうとすると、後ろで帽子屋が小さく呟きました。
「私のアリス」
アリスは心臓がドクンドクン言うのを感じながら兎の後を追って走り出しました。
今振り返ってしまったらもう戻れないような予感がしたのです。
兎は、どんどん小さくなっていきます。
アリスは自分があんまり走りすぎて心臓が鳴っているのか、帽子屋との別れが辛くて鳴っているのか分かりませんでした。
心臓がドクドクと大きく鼓動する音を聞きながら走っていると、このまま死んでしまうかもしれない、と恐怖心が沸いて来ました。
それでも兎を見失わないように走り続けました。
芝生に廊下、階段に、広々としたどこかの部屋、どこを走っているのかアリスにもさっぱり分かりませんでした。
そうして、懸命に走っていると、兎が急にピタッと止まってアリスの方を振り返りました。
そこは、お城の建物に挟まれた小さな庭で、綺麗に整えられた植木と鮮やかな黄緑の芝生が生えていました。
兎が立ち止まったすぐ後ろには古い井戸が見えました。
「ここがアリスの世界と通じる入り口だ」
兎はアリスの方を向いたまま井戸を指差しました。
「ここって・・・井戸が?」
アリスは少しだけ驚いて聞きました。
とは言え、半分ほどはここから帰るんだろうな、と思っていました。
なにしろヘンテコな世界なんですから。
「そう。この井戸に入ればアリスの世界に繋がってる。悪いが、ここからアリスを送っていくと戻るのがすごく手間取るので、ここでお別れだ」
「あら?行った穴から帰ればいいんじゃないの?」
アリスが疑問に思って言うと、
「帰りの入り口は何ヵ所かあってね。アリスと一緒に出た所から帰れるとは限らない」
と、兎は重々しい口調で言いました。
「でも安心していい。ここから行けば、必ず最初に会ったあの川辺にたどり着くはずだ」
兎は、淡いピンクの瞳でアリスを見ながら言いました。
「今度女王様がアリスを呼ぼうとしたら、なんとか気を逸らしてみる」
兎の言葉はいまいち信用できませんでしたが、アリスはそう言ってくれたことが嬉しかったので頷きました。
「ありがとう。兎さんにもいろいろ迷惑かけたわね」
アリスが言うと兎は勢いよく頷きました。
「全くだ!君のワガママに付き合い続けるのは大変だった」
「そこまで言わなくても良いじゃない」
アリスが不服そうな顔をするのを見て、兎は取り繕うように言いました。
「半分は冗談だ」
兎の言葉に、あと半分は?とアリスは思いましたが、口に出さないままでいました。
最後だし良い別れ方をしたかったのです。
「とにかくありがとう、兎さん。チェシャ猫さんや、皆さんにもよろしく伝えてね。・・・・・・帽子屋さんにも」
アリスがチェシャ猫の名前を出すと、兎の顔が歪みましたが、
「わかった」
と約束してくれました。
アリスはそれを聞いてホッとしました。
そんなアリスに、兎は急に真面目な顔をして、
「この世界のことは間違っても他の人には言わないように」
と言ってきました。
「やっぱりこの世界のことを他の人に知られたらまずいの?」
アリスがドキドキして聞くと、
「そういう訳じゃない。どうせ言っても信じる人はいないけれど、君が変人扱いされてしまうだろう?」
との答えが帰ってきました。
「・・・・・・確かにその通りね」
アリスは、現実的な意見に複雑な気持ちでした。
自分だけの秘密の世界なんていいな、と思っていたのです。
でも、兎の言うとおりうっかり口外してしまったら、確実に病院に連れていかれてしまうでしょう。
「分かったわ。私だけの胸にしまっておく」
アリスがそう言うと、兎は頷いて、井戸の前からどきました。
「さあ、じゃあアリス、家に帰る時間だ」
アリスは兎とすれ違って井戸の前まで進むと井戸の縁に手をかけました。
中を覗き込むと、真っ暗な空間が続いているのが見えました。
生暖かい風が吹きつけて来ます。懐かしい黄昏時に流れてくる夕飯のような香りもします。
アリスはゴクリと唾を飲み込むと兎を振り返りました。
「さようなら」
そう言って手を振るアリスに、兎も手を上げて
「さようなら、アリス。気をつけて」
と言いました。
アリスは挨拶を交わすと覚悟を決めて、井戸の中に飛び込ました。
井戸の中は真っ暗でした。
アリスは来るときと同じように、どこまでもどこまでも落ちて行きました。
しばらく落ちると、来た時と同じように様々な物が乗った棚が出現しました。
花瓶や、壺、ジャムの瓶に便箋や万年筆、可愛い小物入れも。
アリスはそれらをボーッと眺めていました。
不思議な世界を散々冒険して歩いて、大変な目にあったアリスは疲れきっていました。
落ちている最中だというのに、瞼が勝手に重くなってくるのです。
開けようとして何度も目をパチパチさせてみましたが、目は閉じたくてしかたがないようでした。
「少しだけ、少しだけ寝てもいいわよね」
アリスはそう呟くと目を閉じました。
するとあっと言う間に眠りに引き込まれてしまったのでした。
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サラサラサラ
遠くに水音が聞こえて目を覚ますと、そこはアリスががいつも来るお気に入りの川辺でした。
アリスはついさっきまで昼寝をしていたかのように横たわっていました。
「あれ?私井戸から落ちていた途中だったはずなのに」
起き上がってみても周りは見慣れた川辺で、特に異常はありませんでした。
白兎を見かけた茂みの方を覗いても、そこに兎穴はありませんでした。
「夢・・・・・・だったのかしら?」
あまりに奇妙な体験だったので、夢だったような気がしてきます。
夢だとしたら凄くリアルで、白兎もチェシャ猫も女王様も、あの不思議な国で本当に出会ったかのようでした。
そして帽子屋とも。
アリスは帽子屋のことを思い出すと胸がズキッと痛みました。
「でも、もうあの人はここにはいない・・・・・・」
アリスはのろのろと起き上がると、夕暮れ色に染まった川辺を家に向かって歩き出しました。
川の水は一面濃いオレンジに染まっていて、どこか非現実的な雰囲気を醸し出していました。
いつもはアリスが一方的に話しかけている鳥達も、今日は一匹もいませんでした。
一人で歩いていると、頭に不思議な世界のことがぐるぐると思い出されて、ちっとも離れてくれません。
「ただの夢なのに」
言葉に出してみると、その言葉は空虚な響きを放ってすぐに消えていってしまいました。
「さ、帰りましょう。お母様の夕飯の支度を手伝わなきゃね」
アリスはわざと元気良く独り言を言うと、急ぎ足で自分の家へと帰っていきました。
エピローグ
あの不思議な世界の夢を見てから数日ーーー
アリスはすっかりもとの退屈な日常に戻っていました。
学校では当たり障りない会話をするクラスメートはいましたが、悩みを打ち明けられる深い仲の友人はおらず、一人で帰っては、川辺で鳥と会話をする毎日でした。
帽子屋のことを思い出すと無性に寂しくなってしまうので、頭に浮かんでもすぐにどこかへ追いやるようにしていました。
「ごきげんよう、みなさん」
先生の声にハッとしたアリスは、みんなと一緒に立ち上がって
「ごきげんよう」
と帰りの挨拶をしました。
クラスメート達は仲間と談笑しながら帰り支度をしています。
アリスも、教科書をしまうと、すれ違ったクラスメート達に別れの挨拶をして、学校を出ました。
アリスが学校の門に向かって歩いていると、女生徒たちが門の前でかたまってワイワイ騒いでいるのに出くわしました。
「あの方素敵ね。服装からすると奇術師かしら」
「ええ、そうよ、きっと。この辺でショーをやるんじゃない?聞いてみましょうか?」
他にも数名の女性が、門の外で騒いでいます。
アリスは無理もないわ、と思いました。
アリスの通う学校は女学院で、先生もみんな女性です。
だから、たまに男性が学校の近くに来ると、みんな騒ぎだすのです。
アリスも顔くらい見ようかな、と門をくぐると、みんなが騒いでいる方向を見てみました。
すると・・・・・・。
アリスは息をのみました。
帽子屋が学校の門の向かい側で塀にもたれているではありませんか。
アリスは目をこすりました。
何度もこすってみました。
でも間違いありません。
緑色の鮮やかな上下のスーツに赤いタイ。
漆黒の髪と瞳。
まぎれもなく不思議な世界の帽子屋です。
「あ、あの世界は私の夢だったはず・・・・・・」
アリスが混乱して立ち尽くしていると帽子屋がアリスに気づきました。
「見つけた、アリス!」
そう言って駆けてきた帽子屋の手を素早く取ると、アリスはグイグイと川辺の方へ引っ張っていきました。
川辺に着くと、アリスは帽子屋の手を離しました。
近くで話せる場所は、ここしか思いつかなかったからです。
訳が分からずに無我夢中で手を引いてきたアリスは、まだ気持ちの整理がついていませんでした。
「な、な、なんで帽子屋さんがいるの?!」
アリスが興奮して問い詰めると、帽子屋は少し寂しそうに言いました。
「アリスは私と会いたくなかったの?」
「いいえっ決してそうじゃないけど・・・・・・」
もちろん沢山思い出していたし会いたかった。
そうアリスは思いましたが、驚愕の気持ちの方が大きかったのです。
「こちらの世界に仕事で行き来してる白兎の後を付けて、なんとか入り口を突き止めてこっちに来たんだ」
「帽子屋さんの世界のことは夢じゃなかったのね!」
アリスはようやくこれが現実だと実感できて来ました。
「まさか!夢になんてするものか」
そう言うと帽子屋はアリスを思い切り抱きしめました。
アリスは瞳を閉じました。
帽子屋の抱擁は苦しかったけれど、もしこれが夢ならまだ続いて欲しいと思ったのです。
「もう離さないから」
帽子屋は力強く言いました。
「帽子屋さん・・・・・・嬉しいけど、これからどうするの?元の世界に帰るの?こっちにいるなら住む場所は?」
アリスの頭にはついつい現実的なことが浮かんで来てしまいました。
「何も考えてないね」
帽子屋は興味なさそうに答えます。
「考えなくちゃいけないわ!だってね、これから・・・・・・」
アリスが力説して説明しようとすると、帽子屋はいきなりキスでアリスの唇をふさぎました。
「んんっ」
アリスは口をふさがれてしまって言葉を話せません。
そんなアリスに構わず、帽子屋は何度も何度もキスを重ねます。
愛しい人からのキスを受けているうちにアリスはもう、どうでもいいような気がしてきました。
帽子屋さんとここでいられればもうどうでもいいわ・・・・・・アリスはそう考えると帽子屋の背中に回した手に力を込めました。
そうして二人は、いつまでもキラキラ光る水面とアリスの友人の鳥たちに見守られながら、しばらくお互いの顔をただ黙って見つめ合ったり、キスを交わしたりしながら恋人としての時間を過ごしたのでした。
そのしばらく後で、白兎が激怒しながら帽子屋を連れ戻しに来ることも、アリスにすまなさそうな顔で、また女王様のクローケーの相手をしてほしいと伝えにくることも、今はまだ幸せな二人には知る由もないのでした。
終わり