「勉強に集中できない」は悪いことなのか
子どもとの活動づくりを振り返ると、必ず出てくる「集中してできた・できなかった」議論。
特に学習会という、名目の性質上、
「集中して勉強できてよかった」
「集中して取り組むことができた」
と子どものよいところとして受け止める傾向が強いよう。
一方で、
「どうすれば、勉強に集中できるのか」
「集中するためにどんな声がけ・ふるまいをしたらいいのか」
「どんな勉強(問題)なら集中してできるのか」
とサポーターの悩む声が多いのもある。
ここで疑問が湧いてくる。
子どもの育ちの中で、「集中」とはなにか。
「集中」できないことによっての子ども当事者にとっての不利益とはなにか。
炭治郎でさえ、トレーニングを積み重ね得た「全集中」という技術。
それを四六時中できる「全集中常駐」なんて、もはや「集中」してはやってない。まさに息を吸うようにという感じ。
ある時、「どうしたら勉強したくなるか一回ググってみよう」と思い検索してみた。
その中で参考になったのはダイワハウスさんの記事。
明るくて、整っていて、収納や本棚スペースが部屋の中で作れて、壁をホワイトボードにできる環境・・・「いや、この環境を作り出せる家庭ってめちゃくちゃレアじゃね・・・」
というのが個人的な正直な感想。
地域の中にこんなスペースってあるのかなと考えたけれども、なかなか公共空間にはない。
特にコロナで外に居続けることが難しくなったこの時期には、厳しい。
つまり、勉強したくなる場というハードでの環境設定って、子どもたちからすれば実は標準装備ではなく、課金追加装備な気がしてくる。
みんなができるというより、条件と運とお金の何かが揃わないといけないものぽい。
では逆に、勉強したくなるソフトの環境設定はどうなのか。
「勉強 やる気」でググるとベネッセさんの記事が出てきた。
環境を除くと、「目標設定」と「休息」、「自分にあった勉強法」がでてくる。
これはつまり、勉強に対して
①意味(価値)、報酬
②エネルギー
③やり方
が整わないと、「集中」はできないと捉えることにする。
①意味(価値)に関しては、他の気持ちよりも「勉強しよう」という気持ちをどう優先させるかが焦点になってくると思う。
「遊びたい」「休みたい」という気持ちはどこからくるのか。
逆に「勉強したくない」という気持ちはどんな経験や体験からやってくるのか。
そこを無視すると、「勉強」は「なんか嫌なもの」「しなくていいもの」のイメージが強化される。
②エネルギーに関しては、普段子どもと関わっていても思うけれども、そもそも十分に精神的にも、身体的にも休める状態を作り出せるって、実は高度テクニックなことだと感じている。
「最近なんかいいことあった?」
「最近楽しいことあった?」
と聞いても、「〜もできひんかった」「〜しかしてない」とネガティブな返答が多いイメージ。
寝たら全快はある意味幻想で、日常のちょっとしたことの積み重ねでストレスは溜まっているのもあったり、コロナで制限も多い中で、「大人も我慢してるから」の名の下に我慢して思い出せない気持ちや衝動もある気がする。
③やり方も、割と受験期にきく「1日何時間勉強したら〜」に代表されるように、時給制でも三交代制でもないにも関わらず、ひたすら椅子に座って机でにむかって書くことを勉強の鑑と推奨される限り、個人個人にあった勉強法を見つけるのは難しい気もする。
長々と「勉強に集中すること」について考えてみた。
個人的には割と無理ゲー感を感じている。
環境面でもソフト面でも、割と整ってない中で気合い(関係性と声がけ)だけでは乗り越えれないのはたぶん当たり前。
ジャンプするためには足を曲げないといけないように、頑張る(無理をする)ためには蓄えが必要。
息をするように勉強するように求むのであれば修行が必要だし、できないことを求めてもできるようにはならない。
だとすれば「集中できない」ことに悩むよりは、どうすれば「心満たされるまで遊び切れるか」、どうすれば「なにかがしたくてうずうずするくらいまで休めるか」みたいな、遊びと休息を充実するために子どもと一緒に悩みたい気持ちになるのでした。
京都に来てもうすぐ5年目。もっと楽しい活動づくりをしたい・・・。 がんばります!