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「責任能力」の壁とモヤモヤする司法の判断

■本文

こんにちはマスオDX(デラックス)です。


先日ニュースを見ていて納得できないというか、

モヤモヤするところがありました。


「責任能力」という言葉、

言葉としては普通の言葉ですね。


一般的にその事象に対して責任を追うべき能力を有しているかどうか、

ただそれだけの言葉です。


お仕事していてもそれぞれの立場によって追える責任能力はあると思います。


そんなに特殊な言葉ではないのです。


ただこの言葉がモヤモヤを生む瞬間があります。


それは刑事事件を起こした被告の裁判のニュースを見た時です。


「弁護側は責任能力の有無を争う」みたいな言葉よく聞きますよね。


心神耗弱や心神喪失または酩酊状態などでも、

その能力の有無が認定されるようです。


確かに泥酔してると普段しないようなこともしてしまいますので・・・

自分がモヤモヤするのは、

人を傷つけ果てには命を奪うような事件を起こした被告の責任能力です。


心神耗弱や心神喪失のため責任能力が無いと判断されると、

減刑されたりそもそも無罪になってしまったりします・・・。


それで良いのか???


責任能力無しと判断され仮に無罪になったとすると、

犯罪を起こしたその人がそのまま野に放たれます。


自分としてはこんなに怖いこと/納得できないことは無いなと感じます。


動物と一緒だと思うんです、

動物はもちろん人間同等の知性はありません。


要は責任能力が無いので管理者が必要です。


責任能力の無い成人男性は、

知性のある大型獣と同等とみなすべきなのではないかと思います。


管理された環境下でのみ生命を維持できる。


もしくはそんな判断も必要ない野生環境に放逐される。


それが当たり前な気がします。


こんなことを言うと人権がとかどうとか言う議論になりかねないですが、

圧倒的な暴力で人の基本的人権を奪った犯罪者の人権は果たして守られるべきなのでしょうか?


なんかすごく暗い嫌な話になってしまいましたが、

いつもこういった類のニュースを自分はモヤモヤしながら見ています。

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■AIによる記事

こんにちは、マスオDX(デラックス)です!
ニュースで「責任能力」に関する話題に触れるたびに、どうしても納得できない、もやもやとした感覚にとらわれます。皆さんも一度は感じたことがあるのではないでしょうか。

「責任能力」という言葉が持つ意味

責任能力というのは、一般的にはその人が自分の行動に対して責任を負えるかどうかを指す言葉です。仕事の場でも、立場や能力に応じた責任能力が求められます。特殊な言葉ではないはずなのですが、問題なのはこの「責任能力」が刑事事件で使われるときです。

心神喪失や酩酊で責任を負わない?

刑事事件でよく耳にするのが、「弁護側は責任能力の有無を争う」というフレーズ。被告が心神喪失や心神耗弱、あるいは酩酊状態であった場合、責任能力の有無が問われ、その判断により減刑や無罪判決が出るケースもあります。しかし、特に重大な事件において「責任能力がないから無罪」という判断が下されることには、非常に強い違和感を覚えます。

責任能力がなければ無罪、社会に戻る恐怖

もし責任能力がないという理由で重大な罪を犯した人物が無罪放免され、再び社会に戻るとしたら…。そのリスクに対し、社会は安全でいられるのかという不安がどうしてもぬぐえません。知性のある動物と同じように、責任能力のない人をきちんと管理できる環境が必要なのではないかとさえ思います。

加害者の人権は守られるべきか?

こうした意見には必ず「人権」の問題が絡んできます。ですが、被害者の人権を踏みにじり、取り返しのつかない事態を招いた人権が無制限に守られるべきなのか、という疑問が湧きます。暴力によって他人の人生を奪った人間の人権保護に対する社会的モラルには、もっと根本的な再考が必要かもしれません。

いつも心に残るモヤモヤ

こういった「責任能力」にまつわるニュースを耳にするたび、私はどうしても納得しきれない気持ちが残ってしまいます。

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