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誰かの想いを待つ余白④

化石としての風/復興としての土

半地下の新作群を見終わり、一階とエントランスに展示されていた過去作品を改めて見てみました。
加茂くんはこれまで「風」と「土」をテーマとして作品を制作していて、その代表作と呼べるものたちが展示されていました。

「福島県富岡町本岡大塚付近にたたずむ」
「福島県富岡町本岡大塚付近にたたずむ」近景

「福島県富岡町本岡大塚付近にたたずむ」
2021 Oil on canvas
帰還困難区域を示す看板を人間の存在そのものとして捉え描いた作品。
過度に盛られた絵の具を過度により、震災後に流れた時間と、植物の生命力と、絵画における祈りの存在を表現しようと試みた。

『化石としての風/復興としての土/祈りとしての風土』作品リストより
手前「境界線を吹き抜ける風<夜ノ森>」
奥「惑星としての土/復興としての土 #2」

「境界線を吹き抜ける風<夜ノ森>」
2021 Oil on canvas
2021年頃に福島県富岡町夜ノ森地区の帰還困難区域を区切るゲートの前でスケッチをし、そのスケッチを元に制作。(ここのゲートは2023年に解除)

「惑星としての土/復興としての土 #2」
2023 Oil on canvas
除染後の田畑を描くにあたり、自分の排泄物をコンポストトイレで分解し堆肥を作り、その堆肥を絵画の顔料にして油絵具を作った。
土が出来るプロセスをなぞるように絵の具を作り、その絵の具で除染で剝ぎ取られた田畑を埋め返すように描いた。

『化石としての風/復興としての土/祈りとしての風土』作品リストより

「風土」に繋がるこの「風」と「土」について、ギャラリー配布のハンドアウトではこのような説明がなされていました。

「風」は加茂の作品にも度々登場する象徴的なモチーフです。
そんな風は人間が自ら定めた基準によって設置され、動きを制限されたフェンスや看板の手前にいる作家が風景を記録している間も、立ち入りが禁じられている区域から軽々と人工物の脇を通り抜け、作家をも包み込みます。

またタイトルにある「復興としての土」は、帰還困難区域での除染土の課題に焦点を当てています。除染が進み、立ち入りが徐々に許されはじめたエリアには田畑の放射線レベルを下げる一方で、土地の活力や田畑に欠かせない肥沃な表層土を剥ぎ取り、真の復興に向けた長期的な課題を提起しています。
加茂は土と詩の深い関りを考察し、土の沈黙と、耕作地に関連する記憶の不可逆的な喪失に焦点を当てたシリーズも制作しています。

『化石としての風/復興としての土/祈りとしての風土』作品リストより

祈りとしての風土

そして「風土」について、加茂くん自身はこのように語っています。

『祈りとしての風土』について

『ある文章を書いている際、我々はその書きながらの現在時に閉じこもっているわけにはゆかない。
未来時へ向けて方向性をもったダイナミックな運動の感覚がその文章を書いている人間の「時」の把握である。
過去にしっかり根ざし、未来時へ向いている方向性をもった「時」の感覚をあじわうために、すなわち確実に生きるためにこそ、われわれは文章を書くのであるかもしれないのだ。
方向性をもった「時」の内的な経験、それこそがこの世界に生きていることのあかしなのだから。
そして、この感覚を強く把握している時、死もまた相対化できるようにわれわれは感じるのだから。』
大江健三郎 「危機的な結び目の前後」より


福島第一原発事故で私たちは何を失ったのか。
復興とはいったい何を指す言葉なのか。
端的に言うならば、失ったのは風土であり、復興とは風土の復興以外にはありえない。
では、風土とはいったい何なのか?
風土とは風を含む土のことである。
風を含む土とは、人が鍬や鋤で耕し、その時その体に吹く風をその手で土に含ませることでようやく出来上がる生死の風景である。
そして、風土はそこに祈りをも含む。
「未来に向けて方向性をもったダイナミックな運動の感覚、過去にしっかり根ざし、未来時に向いている方向性を持った時の感覚、すなわち確実に生きるためにこそ、われわれは文章を書くのであるかもしれないのだ。」
これが、私の「祈り」の認識に近い。
祈りとは、人が過去現在未来を円環に貫き想像するための動詞だ。
近代化、グローバル化とともに風土は徐々に失われ、原発事故はそこに致命的で取り返しのつかない傷と怒りと負債と諦めを地表に積もらせた。
「祈り」を具体的な手段とし、「風土」を風を含んだ土と捉え、福島の風景と人とその光景を手がかりに、風と土に含まれる物語りに耳を傾け、福島の風土の現在を画布の上に浮かび上がらせる。

最後にジョルジュ・ルオーの絵画行為を論じた文章を引く。

『かくて、ルオーの全てが照らし出される。
「芸術の真の機能とは、究極において、祈りの集中的行為のうちに己を失ってしかるのちに変容された己を再び見出す」ということなあのである。』
ピエール・クルティヨン 「ルオー」より

風土を失ってしかるのちに、祈りの集中的行為のうちに変容された己として再び風土を見いだせるのか、まず私自身に問う。
ー加茂昂

『化石としての風/復興としての土/祈りとしての風土』作品リストより

表現の変化に見られる作家の変容の軌跡

福島へ足を運び、その風景を描き、その地に住む人々と交流する中で自分が絵を描く理由のようなものに、現時点での答えをを見つけていった加茂くん。
入り口からは影になっていて見えづらい場所に展示してあった、展示作品の中で一番古い2014年の作品を見て、私は彼の意識の変容を強く感じました。


右「逆聖地#2」
左「惑星としての土/復興としての土のためのエスキース#14」

「逆聖地#2」
2014 Oil on canvas
福島第一原発事故により、原発を中心に決められた立ち入り禁止の空間を、日本に古くからある聖地と真逆の性質のものとして「逆聖地」として捉え、報道写真を参考に描いた。

『化石としての風/復興としての土/祈りとしての風土』作品リストより

この「逆聖地#2」という作品を一目見たときに私が感じたのは、恐ろしさや不安といった感覚でした。
防護服にマスク姿の人々の背後に見える発電所。
その風景は不自然にパースが強調されている。
空は雲で覆われており、光と影の陰影もまた強調されている。
これらは、何か人の不安や緊張をあおるようなそんな視覚的効果があるように感じます。
これまでに私が見てきた加茂くんの作品とは全く違う印象の作品です。

当時はまだ立ち入りが禁止されていた為、報道写真をもとに描いたという話を聞き、私は「自分の視点」と「他者の視点」の大きな違いを感じました。
作家が自分の目で福島の風景を見て、体で感じることで、絵の中に表現されるものが変わっていったのは、絵を見ると明らかだからです。

そんな、加茂くんという一人の人間のこれまでの変容の軌跡が、今回の個展で一番印象に残るものでした。

そして、メディア等で表現されるこういった画像には何かしらの「意図」が強く含まれているということも同時に感じ、そこから何を受け取るか?ということに私たちはもっと慎重にならなければいけないとも思いました。

未来へつなぐ

「堆肥態」

「堆肥態」
2023 Oil on canvas H45.5×W38×D5cm
借りている畑で遊ぶ息子のシルエットの中に、福島にある中間貯蔵施設の風景を描いた。その二律背反的な現実を、堆肥態として捉え直すための試み。

『化石としての風/復興としての土/祈りとしての風土』作品リストより

最後に、この「堆肥態」という作品について書きたいと思います。

原発以外にも、私たちが生きるこの社会は多くの矛盾を孕んでいます。
そんな世界の中で、有機物が微生物の力を借りて分解・発酵し、有機肥料に変容する「堆肥化」という概念を用いることで、自分自身の固まった価値観を分解して定義し直し、生き延びる方法を模索したいという考え方の元、描かれている作品です。
そのような前提で、加茂くんは「子どもは堆肥態」と言っていました。

子ども達は、この矛盾だらけで複雑な社会の、陰陽様々な要素を自分の中に取り込んで成熟し、大人になっていく。
その様子は確かに「堆肥態」と呼べると思います。
中間貯蔵施設の描かれた子どものシルエットは、小さな猫じゃらしを手に持ちながら、鑑賞者に対して真っ直ぐ向き合って立っています。
大きな課題を提示しながらも、この絵には、どこか希望のようなものも感じられるような気がしました。
その希望とは何なのか?

私たちの意識が少しずつ変化していくと、そのフィールドも変わっていく。
自分ひとりができることはほんのわずかだけど、それが波紋のように広がって、大きな渦になったらどうなると思いますか?

子どもたちが成長した時に、安心して暮らし続けることができるような社会を渡せるように、今大人である私たちがどのような意識で生きるのか?

加茂くんの言葉にもあるように、まず「自分に問う」ことを、私もし続けていきたいと思います。

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