「書けない」を経て書いた喪失体験をパーソナル編集者に読んでもらったら、資産になった
先日こんな心のうちを書いて送った。相手は、夫でも、友人でもなく、
パーソナル編集者みずのさんだった。
今年の3月から、みずのさんにパーソナル編集者として、noteで書くことの伴走をお願いしている。
noteに書く自分の文章を磨きたい。
もっと遠くまで届けたい。
目的はこれだった。なので、個人的な悩みを相談することはほとんどなく、とにかく『書く』ことまわりの相談をめっちゃしてきた。
月に一度、zoomで1時間話すときも、noteや書くことについての相談、ネタとなる家族のカラッとした話で終わっていた。最後に「今月何をnoteに書きますか?」って宿題を決める。
書いたら下書きリンクを送り、みずのさんにフィードバックもらい、推敲して公開。これを半年間やってきた。
私には「書けないとき」がなかった。
だが、9月。
初めて書けなかった。
みずのさんと決めていた『宿題』に手がつけられない。
もっとも、全く書けなくなったわけではない。毎朝15分の筋トレと同じくらいの心持ちで書いて週に一度公開している日記は書けていたが、日記以外が書けなくなった。
9月末。宿題noteを提出して、みずのさんにフィードバックをもらい、公開しているはずだった。
だが、身体もメンタルもかなりやられていた。残暑と更年期だけが理由ではなかった。
どうしても無理だ。書けない。
みずのさんに現状お伝えしておこうと思い、Slackの『雑談』チャンネルに書いた。
ちょっと説明すると、みずのさんとの連絡などには『Slack』というアプリを使用している。『雑談』は何書いてもいいよと言われたチャンネル。ほんとになんでも書いている。「めっちゃムカつきました」とかも書いてきた。
今回は「めっちゃムカつきました」とは比べられないくらい、重い暗い雑談だった。
みずのさんから返信がきた。
そうか。ならば、自分が感じていることを書いてみよう。体裁も構成も読みやすさも全部無視して、とにかく書いてみよう。
そう思って『雑談』チャンネルに2,000字超えの長文を書いた。
書いていたら出てきたのは、5歳の頃、18歳の時、25歳の時の大きな喪失体験だった。
書きながら、当時の景色、今はもういない家族の顔やあの時言われた言葉が蘇る。
感情が蘇らないのは、長い長い時間が経ったことと、生まれ育った場所から遠く離れたからなのかもなぁ。
2,000字越えの雑談を書いて読んでもらった1週間後、10月3日。ちょうどみずのさんとの月一zoom面談だった。話は、この『雑談』からだった。
私の喪失体験について、みずのさんが質問してくれた。答えながら、5歳の、あの夜の風景が頭に映された。
50年以上前、父の自転車の荷台にのっていた自分がみた月まで思い出していた。
書いていて思い出した記憶。みずのさんと話していると、5歳、18歳、25歳の自分とあの頃みた風景がさらにはっきりと頭の中で再生された。
再生された映像を見ながら、そのまま話す。30分以上、そんなことをしていた。
ますみさんは、失う、のヘビーなものを体験してきたひとなんだって思ってました。
みずのさんに言われて、言葉にはしなくても、表には出さなくても、自分の一部が見える人にはみえていたんだと思った。
これ、どうやったらコンテンツになるかなって編集者目線でも聴いてしまうんですよね。
みずのさんに言われて、私はこの日初めて笑った。
私も書きながら、同じこと思っていたからだ。
5歳の頃から50年、25歳の時から30年経って、ようやくそれができる時期になった。それだけの時間が必要な体験だったと、初めて思えた。
来月の宿題は決めず、この日のzoomは終わった。
9月はnoteを書けなかったけれど、大きなタネを書けた気がした。
そうか。資産なのか。
資産と思って見てみたら、あの喪失の記憶が宝物のように思えた。
ゆっくり熟成させて、かたちにしよう。
ひとりではできないが、パーソナル編集者という伴走者、みずのさんがいてくれたら、かたちにできるはずだ。
来月の宿題はなかったけれど、ゆっくり時間をかけて仕上げていく宿題が出た。
みずのさん、また半年、どうぞよろしくお願いします。