紙片が語る母の戦争
「ちょっと見て欲しいものがあるねん」
2年前、暑い8月の日曜日。実家に到着して、大きな『2週間の旅行用』スーツケースを居間に運んだ。朝から実家で片付け作業を始めていた兄夫婦は、ちょうどお昼ごはんを食べるところだった。
兄嫁に「真澄ちゃん、着いてすぐに悪いねんけどちょっと」と言われ、仏壇のある和室に行った。ややこしい書類でも出てきたのかと思った。兄嫁は白い封筒を私に渡した。
「和室の押し入れに小さい書類箪笥あったやろ? カズちゃん(兄)に聞いたら、お義母さんが大事な書類入れてた言うてな。二人でそこの中身全部出して、片付けてたんよ。そしたらこれが出てきてん」
その小さな箪笥は私も覚えている。「大事なもんが入ってるとこ」と母が言っていた。25年前母が亡くなってからは、父がその箪笥を使っていた。
白い封筒の中には、茶色くなった紙片が入っていた。「これ、なんでか半分焦げて無くなってるねん」兄嫁が封筒から出すと、焦げた匂いがした。古い紙片から焦げた匂いがするなんて、あり得ない。だが、確かに紙が焼けた匂いがした。その瞬間、紙片の下が、焼けてなくなった理由がわかった。
「これ、神戸の空襲で焼けたんやわ! あの空襲で家も何もかも全部焼けたってお母さん言うてたわ」
直感だが確信があった。絶対そうや。間違いない。
「そういえば。おかん、自分が生まれてしばらく住んでた神戸の家の話、ようしてたよなあ。子ども一人に乳母が一人付いてた言うてな。空襲で焼け出された話も、そのたんびに聞いたわ」いつの間にか兄もその焼けた紙片を覗き込んでいた。
「お義母さんの名前が書かれてるなあ……これ、証明書やわ。種痘の証明書やな。昔は成人するまで持ってたって聞いたことあるわ」紙片を手にして兄嫁が言った。
「これ、どうするか。お前に任せるわ」兄が紙片を私に手渡した。受け取った時、「え?」と小さな声が出た。実家まで引きずってきた大きなスーツケースを持ち上げたように、ずっしりと重たかったのだ。焦げた匂いのする、重たい紙片。こんなややこしいもん、どないしたらええんやろ? 頭と身体がフリーズした。
「あの本棚の本、どっかまとめて買い取ってくれんかな」兄はすっきりとした顔で、片付け作業を再開した。私は「えらいもん、渡してくれたな」と思いながら、「そんなん、お金にならん、言うて断られるわ」と口と手を動かし始めた。
●○●○
その3ヶ月前、5月17日。肺炎で入院していた父が急逝した。通夜と葬儀を終えた翌日、兄と私は残された実家のことを相談した。
「この家、どうする? お前ら家族、こっち帰ってくる予定あるんやったら住むか?」
2度の改築をしている築50年近い木造住宅。前月の大きな地震で外壁に3カ所ほど亀裂が入り、屋根瓦がずれて雨漏りの箇所も増えていた。
「うちら夫婦は大阪戻るつもりないし。お兄ちゃんらも今のマンション住み続けるやろ?」
「そうやなあ。処分するか……」
そうして、この10年ほど先延ばしにしてきた「実家の片付け」が始まったのだ。
●○●○
「それにしても。どないしょうかなあ」
あの紙片を、どう処分していいのかわからなかった。簡単なのは、他のゴミと一緒に燃えるゴミの日に出す事だが。焦げた匂いと、手にとったときの重たさを感じた私は、ゴミとして出せなかった。紙片を前にして、一人実家で晩ごはんを食べながら、ふと思いついた。
「そうか。おばあちゃんに聞いたらええんや」
おばあちゃん。母の母。神戸の空襲で焼き出された後、自分たちの家があった場所に戻り、何か残っているものはないか、焼け跡を探したに違いない。その時、この種痘の証明書を見つけて、大事に持ち帰ったのだろう。それならば、おばあちゃんに聞こう。
母が亡くなる2年前に亡くなったおばあちゃん。実家の片付けで見つけたおばあちゃんの写真を、仏壇の前に置いた。
「おばあちゃん。この紙片見つけてんけどな、私もお兄ちゃんらもどうしたらええか、わからへんねん。そやから、私に教えてくれへんかな?」
写真に手を合わせて心の中で話しかけて、その夜は布団に入った。
翌朝。いつものように仏壇の花の水をかえ、ごはんと水を新しいものに変えた。線香をあげ、手を合わせて、紙片に目をやった。
この住所。『神戸の家』ってお母さんらが言うてた家の住所やんな? Google マップに住所を入れると、その場所が表示された。
行けるやん。
片付けの予定、市に頼んでいるごみ収集車に来てもらう日、スマホのカレンダーを見ながら、神戸まで行ける日を探した。日程が空いている日が1日だけあった。
8月15日。
よりによって、この日か。でも、おばあちゃんが教えてくれたんやから、きっとこの日に神戸の家があった場所に行くのがええんやな。そう思い直して、3日後、紙片を持って朝から神戸へ向かった。
蒸し暑い8月15日。王子公園駅を降りて、動物園の脇を通り、坂を登った。有名な旧ハンター邸を見ながら、更に坂を登っていった。
ここや。
Google マップが教えてくれた、母の『神戸の家』があった場所は、公園だった
タイミングよく、人はいない。持ってきた重い焦げた匂いのする紙片を、地面にそっと置いた。
目を閉じて手を合わせると、母に何度も聞いた話を思い出した。
神戸の家の近くに、アメリカ人家族が住む家が何軒かあってな。そこの家の子らが、うちに時々来てたんや。「本、見してくれや」言うてな。
空襲でうちの家や周りの家が全部焼けて、焼け野原になってんけどな。そのアメリカ人家族が住む家だけは、きれいに焼かれず残ってたんや。米軍は、自分とこの国の人間は狙わんかったんや。
空襲により、自分の家が、大切にしていたものが、暮らしが、全てが焼かれた。焼け出され、神戸を離れ、高槻(大阪府)に住む母の叔母を頼り、新しい暮らしが始まった。それは、神戸での『豊かな暮らし』とは全く違う厳しい生活だった。徴兵された祖父は、8月15日を戦地で迎えシベリアに抑留。母とその兄弟、祖母が待つ家族のもとに帰って来たのは、それから8年後だった。シベリアで死んだと思っていた祖父がある日突然戻ってきて、祖母は腰を抜かしたと聞いていた。
「おばあちゃん、お母さん。神戸の家に帰ってきたで」心の中で、二人に言った。紙片を持ち上げると、軽くなっていた。焦げた匂いも、なくなった。70年以上紙片が抱えていた、祖母の、母の、悲しみ、苦しみ、恨み、怒り、悔しさが、空に還った気がした。
「どうするか、お前に任せるわ」と兄に言われたものが、もう一つ残っていた。小さな書類箪笥の奥にあった母の家計簿兼日記。兄が生まれてから母が亡くなるまで、全部で30冊近くあった。
「亡くなった人の日記は見るもんやない」母が亡くなった後、日記の処分をどうするか父に相談すると、父はそう言っていた。なので、処分したと思っていたが。父も捨てきれなかったのだろう。
「見るもんやない」と言われていたが、へそくりでも挟んでるかもしれんと、私はノートをパラパラめくった。ふと手が止まったページは、母が亡くなる2年前の8月15日だった。
8月15日。今年も敗戦記念日を迎える。と書かれていた。そう、終戦ではなく『敗戦記念日』。祖父のお盆法要のため、祖母の家に集まったこと。そして、最後にこう書かれていた。
戦争は2度とやってはならない。そのために、今の私のできることは、戦中、戦後のことを語ること。語りついでいくこと。
子どもの頃、20代前半。何度か聞いた母の戦中戦後の話を、母になった自分で、もう一度聴きたかった。母があの日記を書いた年齢に、いつの間にか私は追いついていた。
敗戦記念日に書いたこのnote。私は毎年8月15日に投稿しようと思う。「私にできるのは、語り継ぐこと」それを果たせなかった母の代わりに。