「西周」哲学散文16
名翻訳家 西 周
「西 周」と書いて”にし あまね”と読みます。
中国の古代王朝ではありません。
端的に何をした人かと問われれば、彼の生前の肩書はたくさんありましたが、一般的な紹介でいえば啓蒙思想家になるのでしょうか。
私は西周の最大の功績は、"philosophia"を理解し、日本に持ち帰り、広めたことでしょうか。
そこで彼は当時の日本にはなかった概念"philosophia"を「哲学」と翻訳しました。
哲学散文2でも触れましたが、
上記の概念を「哲学」と名付けたのですから、翻訳センスが抜群で、これはもう拍手としか言いようがありません。
さらに西周は哲学のみならず、現代でも使用されている様々な学術用語や概念的な言葉を下記の通り、生み出しています。
「心理」「物理」「論理」「主観」「客観」「社会」「経済」
私たちはこれらの言葉をまるで空気のように当たり前のものとして使用しています。
これらの言葉が無ければ、現代社会について語ることすら困難でしょう。
しかし、これらの言葉が、わずか150年ほど前に生み出された新しい概念だったということを、私たちはどれほど意識しているでしょうか。
これらの概念を日本語として確立し、近代日本の思想的基盤を築いた人物が、西周(にし あまね、1829-1897)でした。
彼は単なる名付け親ではありません。
西洋思想を深く理解し、日本の伝統的な思考体系を通じて、日本独自の思想体系を構築した哲学者の一人です。
近代日本における思想革命
ただの翻訳ではない
西周が直面した課題は、通常の意味での「翻訳」をはるかに超えるものでした。
彼は、当時の日本語には存在しなかった概念そのものを創造する必要に迫られたのです。
それは単なる言葉の置き換えではなく、新しい思考の枠組みの構築という、根源的な営みでした。
例えば「哲学」(philosophy)という言葉の翻訳一つを取っても、そこには深い思索の跡が見られます。
西周は単にギリシャ語のphilosophiaの音を写すのではなく、「哲」という字に「あきらか」という意味を、「学」という字に「まなぶ」という意味を込めることで、「知を愛する」という原語の本質的な意味を日本語で再現しようとしました。
これは翻訳という行為を通じた、新しい概念の創造といえます。
西洋思想との出会い
西周が新しい概念の表現手段として漢語を選んだことには、深い必然性があります。
当時の日本の知的世界において、漢学は単なる一分野ではなく、思考そのものの基盤でした。
西周自身が『非学者職分論』で指摘したように、
という状況でした。
しかし、西周は単に漢学の伝統に依拠したわけではありません。彼は漢字の持つ造語力を活用することで、新しい思考の可能性を切り開こうとしました。
和語による表現の可能性も検討されましたが、平安時代以来、和語の造語力はすでに限界に達していました。
抽象的な概念を表現するには、漢字の持つ意味の重層性と結合力が不可欠だったのです。
西周の翻訳作業の発展過程は『万国公法』(1868年)から『百学連環』(1870-1873年)で顕著に表れています。
『万国公法』では、新しい漢語に和語のルビを振るという方法で、既存の概念との連続性を保とうとしています。
しかし『百学連環』になると、より大胆な概念創造へと踏み出していきます。西洋の学術概念を日本語で表現するだけでなく、新しい知の体系の構築が試みられています。
「理」の概念を通じた思想革命
朱子学的世界観の超克
西周の思想的営為の核心は、朱子学における「理」の概念の革新的な再解釈にありました。
朱子学の「理」は世界の根本原理として、自然法則と道徳規範の両方を包含するものでした。
「一物に一理あり」という考え方のもと、自然現象も人間の道徳も、同一の「理」によって説明されています。
この考え方は、人間と自然を統一的に理解する上では優れた視座を提供していました。
しかし同時に、近代科学的な自然理解や、個人の自律的な道徳判断の発展を妨げる要因ともなっていました。西周はこの問題を鋭く認識していました。
「理」の二元的再構築
西周は、西洋思想との対話を通じて、「理」の概念を革新的に再構築ています。
彼は「理」を「レーズン(Reason)」と「ラウ・オフ・ネチュール(Law of Nature)」という二つの側面に分割したのです。
概念の分類ではなく、思考の枠組み自体の根本的な変革といえます。
「レーズン」としての理は、人間の認識と判断に関わる原理として理解されます。それは広義では「道理」として、狭義では「理性」として解釈されます。
一方、「ラウ・オフ・ネチュール」としての理は、人間の価値判断から独立した客観的な自然法則として捉えられました。
この区分は、後の「心理上ノ学」と「物理上ノ学」という学問体系の基礎となっていきます。
新しい知の体系の構築
『百学連環』において西周は、この「理」の二元的理解に基づいて、包括的な学問体系を提示しました。それは単なる西洋の学問分類の翻訳ではなく、日本の思想的文脈に即した知の再編成の試みでした。「心理上ノ学」には、神理学、哲学、政事学などが含まれ、「物理上ノ学」には、格物学、天文学、化学などが配置されました。
この体系化の意義は、単に学問を分類したことにあるのではありません。それは、近代的な知のあり方そのものを日本に導入する試みだったのです。各学問分野の独自性を認めつつ、それらを統一的な視座のもとで理解しようとする。この営みこそ、西周の思想的革新の本質でした。
徂徠学の影響
批判的継承の意義
西周の思想を形作る上で、荻生徂徠(おぎゅうそらい)から受けた影響は極めて大きいものでした。なかでも特に重要なのは、徂徠が「天人相関説」を批判したことです。「天人相関説」とは、自然現象(天)と人間社会の出来事(人)が密接に結びついているとする考え方です。例えば、地震や洪水といった自然災害を、為政者の政治の善し悪しと結びつけて考えるような思想です。
徂徠は『弁名下』という著作の中で、このような考え方を「私智を以て天を測る」もの、つまり、人間の主観的な判断で天の働きを勝手に解釈しようとする誤りだと批判しました。この徂徠の批判は、実は近代科学への重要な一歩となりました。なぜなら、自然現象と人間社会の出来事を別々のものとして考えることで、それぞれの領域に固有の法則を見出すことが可能になったからです。西周はこの徂徠の重要な洞察を十分に理解し、さらに発展させていきました。
ただし、西周は徂徠の思想をそのまま受け入れたわけではありません。むしろ、徂徠の思想の中にある問題点も鋭く指摘しています。例えば『百一新論』において西周は、徂徠の「道は先王の道なり」という考え方を批判しています。この「先王の道」とは、古代の聖王の治めた道こそが理想であるという考え方です。西周から見れば、これもまた一種の権威主義であり、理性的に物事を検討することを妨げかねないものでした。このように西周は、徂徠から批判精神を学びながら、その批判精神を徂徠自身の思想にも向けたのです。
近代的合理主義への道
西周が成し遂げた最も重要な業績は何だったのでしょうか。それは、徂徠の朱子学批判を出発点としながら、そこからさらに新しい考え方を生み出したことです。確かに、徂徠が朱子学の「天人相関説」(自然と人間を一体のものとして捉える考え方)を否定したことは、近代的な考え方への第一歩でした。しかし、それだけでは西洋の近代的な学問を十分に理解し、取り入れることはできませんでした。
西周は徂徠から批判的に物事を考える姿勢を学びながら、さらに一歩進んで、事実に基づいて物事を体系的に考える方法を追求しました。ただし、西周は単に西洋の考え方を真似たわけではありません。むしろ、日本の伝統的な考え方とじっくりと向き合い、対話を重ねながら、新しい考え方を生み出そうとしたのです。その過程で西周は、朱子学の「理」(物事の根本的な原理)という考え方を批判的に検討し、それを新しい学問の基礎となる概念として作り直すことに成功しました。
思想的革新の本質
西周が行った思想の革新は、どのような特徴といえるか。
その本質は、伝統的な考え方を全面的に否定するのでもなく、無批判に受け入れるのでもない、創造的な読み直しにありました。
例えば「理」という考え方について言えば、西周はそれを完全に捨て去るのではなく、近代的な考え方に合わせて新しく解釈し直すことで、新しい考え方の可能性を見出したのです。
西周の思想の影響
概念創造の思想的革新性
西周による新しい漢語の創造は、単なる翻訳作業を超えた思想的革新でした。「哲学」「心理」「物理」といった概念装置の確立は、日本の思考様式そのものを変革する知的実験であったと評価できます。言葉は思考の器です。新しい言葉の創造は、必然的に新しい思考の地平を切り開くことになります。
西周の概念創造の方法論を、彼が「物理」という言葉を創造した際の手法を考察してみましょう。これは単に"physics"の訳語を考案しただけではありません。
それまで「理」として一元的に理解されていた世界を、物質的法則性という観点から再構築する理論的作業でした。このような概念の再編成は、世界認識の新たな枠組みを構築する哲学そのものでした。
この知的遺産は、単なる歴史的参照点ではなく、新しい思考の可能性を切り開くための方法論的範型として読み直すことができます。
『百学連環』の知的統合の構想
西周が『百学連環』において提示した学問体系は、現代の学術研究が直面している本質的な課題を先取りしていました。
彼は各学問分野の自律性を認識しつつ、それらを有機的に結びつける知の統合を構想したのです。
この構想は、現代の学術研究が直面している過度の専門分化という問題に対して、原理的な解決の方向性を提起しています。
とりわけ注目に値するのは、西周による「心理上ノ学」と「物理上ノ学」の区分です。この区分は単なる学問分類にとどまりません。彼はこれらを区別しながらも、より高次の知的統合の可能性を追求しました。この知的探究の姿勢は、現代における文理融合の議論を先駆的に体現するものであり、学問の分断に対する本質的な克服の道筋を提示しています。
翻訳を通じた思考様式の革新
西周の翻訳事業は、翻訳という営為の本質的な次元を明らかにしました。それは単なる言語間の置換作業ではなく、異なる思考様式の間の対話を通じて新たな思考の可能性を切り開く哲学的実践でした。彼の翻訳は、言葉の向こう側にある思考様式そのものの翻訳であり、新しい知の地平を切り開く創造的行為だったのです。
この翻訳の哲学は、現代のグローバル社会が直面する文化的・思想的な翻訳の問題に対して、原理的な解決の方向性を指し示しています。異なる文化圏の思考様式をいかに理解し、対話させるか。西周の実践は、この課題に対する先駆的な解答を提示しているのです。
西周思想の歴史的意義と現代的価値
西周が成し遂げた思想的革新は、単なる西洋思想の移入や概念の翻訳にとどまるものではありません。
それは、日本の伝統的な思考体系と西洋諸学の知との間を取り持ち、日本思想を切り開く壮大な創造です。
これらは三つの次元で展開されました。
第一に、「理」の概念の革新的再解釈を通じた近代的学問体系の構築。
第二に、新しい漢語の創造による思考様式の変革。
第三に、徂徠学の批判的継承を通じた伝統思想の現代化です。
これらは互いに密接に関連し合いながら、近代日本の知的基盤を形成しています。
このように、西周の思想は歴史的文書としてではなく、現代の知的課題に応答する生きた思想として読み直されるべきものといえます。
あとがき
以上で哲学を日本に持ち込んだ男の話は終わりです。
うまく伝えられたかどうかはわかりませんが、西周の偉大な業績の一部を紹介できただけでも私は満足です。
最近はサボりがちでしたが、哲学散文も16となりました。
そろそろ原点に戻り、哲学とは何かや哲学的問題について扱おうとも考えていますが、次回やるなら「井上円了」かなぁとなんとなく思っています。
明治期は西のような啓蒙思想家や哲学者が多く日本で誕生した時代でもありました。
この流れで西が哲学をオランダから持ち帰り、さらにそこから日本に哲学を広めようとした「井上円了」が次回にふさわしいと考えています。
次回作まで、気長にお待ちください。