占子の兎(しめこのうさぎ)第三章ノ壱 月祈(つくのみ)
あらすじ
都会での多忙な生活に疲れ、故郷である命樹(みことぎ)市に戻ってきた竹栢縁八(なぎ よしや)。郊外の祖月輪町(そがわまち)に中古の家を買い、フリーランスで仕事をこなす傍ら、長年の夢だった趣味の鉄道模型を楽しむ日々を送り始めます。ところがほどなくして、心地よい暮らしの中に不穏な影を感じるように。 窓ガラスの修繕を依頼した業者の青年は、縁八と同郷の美籠山(みこやま)の出身。代々呪術師の家系の青年は、不穏な影の正体は生霊かと考え、縁八に「鐡蔓(てっかずら)」という呪術をかけます。これがきっかけで子供の頃の記憶があざやかに蘇った縁八は、姉の仁美から教えてもらった相伝の神業『月祈(つくのみ)』を思い出します。それがたとえどんな願いであっても、「叶うに適(あた)う願いならば」必ず叶う、というもの。
奇しくもその夜は満月。酒に酔った縁八は、興味本位で月祈をかけ、不穏な影の正体を暴こうとします。
第三章 月祈(つくのみ)其の壱
家に戻ると、縁八(よしや)さんは、奥の和室に積んだまましていた段ボール箱を、幾つか開封しました。古いスケッチブックや、クロッキーノートが収められている箱です。
美術部で描いたデッサンや、コンクール作品の下絵のほか、人気マンガのキャラクター、悪ふざけで描いた、先生や友だちの似顔絵なども、しっかり残っています。
また、別のノートには、家族や、親戚の人たちの楽しげな様子のほか、本家のお庭から見える命樹の風景、祖月輪線の車両などが、詳細に描かれています。
眺めていると、懐かしい美籠山での出来事が次々に思い出されて、いつまでも想い出の中に浸っていたくなります。
そうして、何冊かのスケッチブッやクロッキーノートをめくるうち、縁八さんは、ついに親しみのある筆跡を見つけました。
円みを帯びていて、やや縦長で右上がり。「月祈」について書き記した、仁美さんの文字です。
月祈(つくのみ)
一、 お符をつくる。白い紙を懐紙ぐらいの大きさに切り、二つ折りにする。
二、 輪になっているほうを右手にして数羅(かずら)を描く。数羅の真下に十文字を描く。
三、 二つ折りを開く。谷折線より、右手側に願い事を、左手側に自分の氏名と生年月日を書く。もう一度、二つ折りにしてお符の出来上がり。
四、 お符は、数羅が描いてあるほうの面を伏せて、お捧物(ささげ)と一緒に、三方か高坏にのせる。
五、 お符と、お捧物を、月影のよく当たる場所、または枕元に置く。
六、 寝る前に、夢いざないの数読みを、三回する。
「よっちゃんは、男の子だから、お捧物は、甘いお菓子とか、可愛いアクセサリーなんかを選んで。要するに、女の子にあげたら、喜んでくれそうなもの。難しく考えなくて大丈夫。なんなら庭や、そこらへんに咲いてる花でもいいの。よっちゃんは、手先が器用だから、何か手作りのものでも良いかもね。安くても、貰ったものでも構わないけど、借り物はだめ。一晩置いたら、自分で食べちゃっても、誰かにあげてもいいわ」
「捨てちゃっても? 」
「うん。ただ、その場合は、お礼を言ってから、紙に包むかしてね」
ページの右下には、赤いワンピースの『うさこちゃん』が描かれています。雲のような吹き出しには、
「ガンバレ! よっちゃん」
と、太字のサインペンで、セリフが書き込まれています。新しい環境になじめず、怖気づいている弟を、仁美さんは少しでも励ましたかったのでしょう。『うさこちゃん』は、仁美さんが大好きなキャラクターです。
けれども、そんな仁美さんの心配をよそに、縁八さんはこれまで月祈(つくのみ)を懸けたことは、一度もありませんでした。と、言うよりも、今日、鬼囲(おにかご)さんに会うまで、月祈のことなどすっかり忘れていたのです。
あの、春の三五之夕(さごのせき)から縁八さんは、瞬く間に新しい生活に馴染んでいきました。
うるさいと思っていた部活の先輩たちも、じつはみな親切で、それまで縁八さんが知らなかった道具の扱い方や選び方など、こと細かに教えてくれました。
コンクールにも何度か入賞し、三年生のときには、副部長を務めました。ついでに言えば、二年生のバレンタインデーに後輩部員の一人から恋の告白を受けたこともあります。
決して忘れることのない人生初のデートは、祖月輪(そがわ)線の開通祭でした。けれども、友達に冷やかされるのが嫌で、瞬く間に終わってしまった恋でした。
中学校を卒業すると、縁八さんは、隣県にある芸術系の高専に進学します。
乗り換え三回、往復四時間の通学は、大変ではありましたが、嫌だと思ったことは、一度もありませんでした。
もともと乗り物好きの縁八さんです。毎日が小旅行のようで、車窓からの景色に季節の移ろいを感じ、通り過ぎる町の様子を眺めるだけでも充分に楽しめました。四年生の夏休みに運転免許を取り、それからの通学は、ぐんと楽になりました。買ってもらった中古の軽自動車とはいえ、運転する姿を後輩たちから羨望の目で見られるのは、なかなかに気分の良いものでした。
学友も先生方も、みな個性豊か。あらゆることが新鮮で刺激的でした。自身の成長を確信し将来への明るい展望が開けた五年間の学生生活は、今、振り返っても充実した時間だったと、縁八さんは思います。
高専を卒業すると縁八さんは、命樹から、さほど遠くない地方都市のデザイン事務所に就職しました。
本業の傍ら趣味で描いていた祖月輪線のイラストが、ある雑誌の投稿欄に載ったのがきっかけで、子供向け鉄道誌の挿絵を依頼されて描きました。のちに、その雑誌の編集長の紹介で大手の広告代理店に転職します。
大都市に引っ越して、収入は各段に上がったものの、仕事に忙殺される日々が続きました。週末のわずかな時間、自宅の部屋の片隅で鉄道模型のコレクションを愛でるのが唯一の休息のようになっていきました。だからと言って、暮らしぶりに疑問を持つわけでもなく、むしろ、この不景気のさなか自分は恵まれているほうだ、とさえ思っていました。
結局のところ縁八さんには、これまで「月祈(つくのみ)」に頼るほど困ったことも起こらず、焦がれるほどに願うようなことも、なかったわけです。
降り出した雨音に気付いて、縁八さんが襖を開けると、真新しい白木の香りが奥の和室にも流れ込んできました。もう一息で完成するレイアウト基盤は、すでに十畳の居間を突き抜け、八畳間の中心にまで達しています。
ここ数日間、仕事が終わると縁八さんは、ホームセンターで仕入れた木材を、ひたすら切っては組み立てる地道な作業を続けていました。
その甲斐あって来週には、沿線風景の造形作業に、いよいよもって入れそうです。
雨が勢いを増してきました。換気窓から降り込まぬよう、縁八さんは急いでサッシを閉めました。
火灯し頃。夕食とともにミナシの盃を済ませた縁八さんは、酒器と古びたスケッチブックを持って二階に上がりました。
仕事場の机に、スケッチブックを広げ、引き続きミナシ酒を愉しんでいると、湿気のせいでしょうか。いつもより低く鈍い走行音が、風に巻かれて響いてきます。
縁八さんは、掃き出し窓に近づき、祖月輪線の来るのを待ちました。
風に煽られ猛り立つ雑木林の影。小籔のうねりを縫うように、小さな車両が健気に駆けて来るのが見えます。暗い田んぼの波立つ水面に、ちらちらと映り込む黄金色の窓灯りは、寄る辺なく海原を漂う小舟の群れのように見えます。
『天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ』
万葉集に収められているという、この歌を、縁八さんが初めて聞いたのは、いつだったでしょうか。教えてくれたのは、本家の大祖父さんだったような気もするし、朔日(はじめ)じいちゃんだったかもしれません。
風は激しく雨を伴い、幾つもの水の礫を窓硝子に投げ突けます。
縁八さんは窓から離れ、スタンドライトのスイッチを強めに切り替えました。
「仮に、悪戯だったとしても、だ」
酔いが廻り、これまでの出来事に対する腹立たしさが、また、ふつふつと胸の内に沸き上がってきます。
「やられっ放しは、つまらないよなァ」
椅子に身体を預けて、くるくる二、三回転して部屋を見渡すと、軽く目眩がします。
「靈符(ふだ)の材料なら、ここには売るほどあるわけだし」
縁八さんは、和紙のサンプル帳を棚から取り出しました。作業台にそれを広げ、
「鵺(ぬえ)だか、物怪(もののけ)だか、知らないが・・・」
引き出しから、カッターナイフを取り出し、チチッ、と、刃を繰り出しました。
「妖(あやかし)には妖の業で対処する、って訳だ」
縁八さんはサンプル帳から一枚を、さっ、と切り離すと、方眼マットの上で素早く正方形に整えました。角と角とを揃えて二つ折りにすると、トレーから極細の筆ペンを取り出し、鼻歌交じりで数羅(かずら)を描きます。
『私を悩ますものの正体が明らかになり、そのものが二度と近づかぬよう、祈願します』
繊維に滲み込む墨の加減も考慮した滑らかな筆運びで、雪白の紙は見る見るうちに美しいお靈符(ふだ)に仕上がりました。
縁八さんは、ここで気付きます。三方も高杯も持っていないことに。
仕方がないので代わりとして十倉(とくら)銀行に口座を開いたときに貰った切手盆を使うことにしました。
漆塗り風の切手盆にお靈符を載せ、昼間に竹沢商店で買ったチョコレートの小箱を添えると、西向きの出窓台に置きました。晴れていれば長く月影が差し込む場所です。
夜も更けてベッドに入ると縁八さんは、締めの業を行いました。一から十までの数詠みを三回。いざないの咒言です。
ひ、ふ、み、よ、いつ、む、な、や、ここの、とお
ひ、ふ、み、よ、いつ、む、な、や、ここの、とお
ひ、ふ、み、よ、いつ、む、な、や、ここの、とお…
「よっちゃん、降りる準備して」
運転席から、お母さんの声がします。
「もうすぐだよ」
助手席の仁美さんが、振り向いて言いました。
「…うん」
暖かな日差しが心地よく、縁八さんは、つい居眠りをしてしまったようです。ぼんやりした声で返事をすると、後部座席から身を起こし、脱ぎ放していた運動靴を履きました。
走る車の窓から、丈高く生い茂る蒲や葦が見えます。
その向こうには、水彩絵の具で線を引いたような、青い水辺が見えます。
鳰鳥橋(におどりばし)の辺りの風景によく似ていますが、少し違うようです。
しばらくして、お母さんが道脇に車を止めました。
仁美さんが助手席から降りて、後ろのドアを開けました。
「よっちゃん、行くよ」
縁八さんは、脇に置いていたデイパックのなかからチョコレートの小箱を取りだし、それを半ズボンのポケットに押し込むと、車から降りました。
仁美さんに手を引かれ、縁八さんは駆け出しました。
仁美さんは、ブルーデニムのサロペットに蒲公英(たんぽぽ)色のセーターを着ています。
細長い棒の先を、茶色のビロードで包んだような蒲の穂が、幾つも風に揺れています。
蒲の藪なかを、一本の木道が続いています。木道の上を、二人は走ります。
運動靴の足元で、ぽくぽく、ぽくぽく、木の板どうし、ぶつかる音がします。
尖った細い葉っぱの擦れ合う音が、さーっ、と耳元を霞めて行きます。
気が付けば、仁美さんの姿はなく、縁八さん一人で、木道を駆けていました。
しばらく行くと、舟着き場が見えてきました。
「よっちゃぁん、よっちゃぁん、」
桟橋の上では、割烹着姿のおばあさんが、大きく手を振りながら縁八さんを呼んでいます。
「ばあちゃん!」
縁八さんが応えると、おばあさんは、いっそう大きな身振りで手招きをしました。
そんなに遠くないはずなのに、どうしてなのか、走っても、走っても、船着き場に近づきません。
ようやくたどり着いた、縁八さんに、おばあさんは言いました。
「よく来たね。さ、これに乗んなさい」
桟橋には、人が乗れるほど大きな笹舟が、烏瓜の蔓で、繋ぎ留められています。
舟の縁に足を掛けると、舟は大きく、ぐらり、と揺れました。
縁八さんは、思わず、おばあさんの腕に、しがみ付きました。
「怖がんなくていいよ。押さえててあげるから」
縁八さんが笹舟に乗り込むと、おばあさんは、桟橋から、烏瓜の蔓を解きました。
舟は、ゆっくり岸を離れました。
しばらく進むと、舟底から、泡のように湧き上がる声が聞こえました。
「棹を取れ」
縁八さんが、舟の下を覗き込むと、大きな蛙の影が現れました。
泥のような色をした疣だらけの背中が、ぼこっ、と、音を立て水面に浮かび上がりました。
縁八さんの倍はありそうな、大蟇蛙です。蟇蛙は、水から頭だけを出して言いました。
「おれが押してやるのは、ここまでだ」
脚元を見ると、一本の長い竹棹が横たわっています。縁八さんは棹を手に取り、闇雲に水の中に突き立てました。
「下手糞め。もっと、しっかり底を突かにゃ、舟は進まんぞ」
並走する蟇蛙に叱咤されながら、縁八さんの楫取りは、どうにか恰好が付いてきました。
「数えよ」
蟇蛙が言うので、縁八さんは、棹を差すのに合わせて数を読みはじめました。
「ひい、ふう、みい、よ、いつ、む、な、や…」
一つ数える毎に、縁八さんの体は少しずつ大きくなります。
それに合わせてお日様が、少しずつ下に落ちて行き、代わりに空の端から、お月様が上って来るのが見えました。そのうち蟇蛙の姿も見えなくなり、縁八さんは、すっかり大人の姿になっていました。辺りは、とうに日が暮れて、舳先にぶら下がっている、烏瓜の灯篭だけが裸電球のように光っています。
縁八さんの頭の真上。遥か高みの夜空には白白と満月が輝き、真っ暗な水の上にも月の輪が掛かっています。鱗小波(こけさなみ)の音のほか聞こえるものは何もなく、辺りはしんと静まり返っています。
すると、どこからか
鼓箏笛鉦琴鐐玲笙鈴唱、鼓箏笛鉦琴鐐玲笙鈴唱
雅やかな音曲が流れてきました。
縁八さんは逸る思いで舟を進めましたが、すぐに水草に棹を取られました。
そのとき。向こう岸の茂みのなか。ぼおっ、と明るく見えるところがありました。
明かりは、するり、そろり、と動き出し、次第に大きくなって光り輝き、
やがて、眩いばかり一面に金の細工を施した大船が、水の上に現れました。
その船の上。赤々と燃える灯台の下。
十人余りの楽隊と、その奏に舞う麗人の姿がありました。
「巫兎(みこと)様…」
白直垂に緋袴。御手には蜉蝣の羽扇。立烏帽子を飾る大輪咲きの月来香(げつらいこう)でさえ敵わぬ、その圧倒的な美貌は、縁八さんを瞬く間に魅了しました。
大船は、するり、そろり、縁八さんの笹舟に近づきます。幽艶な舞姿に見入る縁八さんの視線を、巫兎様の御眼が速やかに捕らえました。
舞が終り、巫兎様がお隠れになると、金色の大船と縁八さんの笹舟との間に、梯子が掛けられました。
船に招かれるとすぐに、水干小袴の童子が現れ、縁八さんの前に衝重(ついがさね)を差し出しました。縁八さんは、パーカーのポケットからチョコレートの小箱を取り出し、衝重の上に載せました。童子が下がると、また別の童子が現れて縁八さんを奥の屋形へと案内しました。
御簾が巻き上がり、巫兎様が御出ましになりました。
息を呑むほどに美しく艶やかなその御姿に、縁八さんは再び釘付けになりました。
絹鳴りの音と伴に、巫兎様は縁八さんのすぐ傍までいらっしゃいました。
たっぷりと熟れた果実のような朱い唇を縁八さんの耳元に触れるほど近寄せ、巫兎様は蕩(と)けるような声で囁きました。
「主(おの)が願ふを、きと諾(うべな)ひにけり」
その途端。岸に群れ立つ蒲の穂が、次から次へ、ぽっ、ぽっ、ぽっ、と、弾けて、沢山の子兎が生まれました。子兎たちは跳ね回りながら船に集まり、屋形の周りを、ぐるりと取り囲みました。
巫兎様は、蓮の花弁のような御手を角盥(つのだらい)に浸けると、その指先で縁八さんの額にそっと触れました。咽ぶほどに甘やかな月来香の香りが辺り一面漂い、縁八さんは、たちまち気を失いました。
舟底を叩く波音で縁八さんは目を覚ましました。肌を覆う直垂の絹の当たりが心地よく、眼前の天窓には、銀色の月が涼やかに輝いています。
「おどろきたるか」
月来香の馨しさだけを身に纏い巫兎様は、その白く柔らかな御肌を縁八さんの胴体に、ひたと寄せ、柘榴石のような赤い瞳で縁八さんを見つめます。
慌てて起き上がろうとする縁八さんを、巫兎様は押し留め、縁八さんの肢体に、その御肌をさらに摺り寄せ、そして絡ませ、月の輝きにも勝る白磁のような頬を縁八さんの胸坂に、くと押し当てました。
長い御耳が鼻先に触れて、くしゃみが出そうになるのを、縁八さんは必死で堪えます。
巫兎様は、縁八さんの胸深くに染み入るよう、ことばを伝えました。
きりがみにて つるを こしらへよ
ちかきわたりに くばりたまへ
そを
あした より みか
うしのこくに したまへ
あがきみの おこなひ
あが やみのよの とばりにて おほえば
こころやすかれ
そを ほくとて うけるもの ものくる
そを じゅとて うけるもの はなる
三章 其の弐につづく