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『飯炊き女と金づる男』 #6 在宅勤務

ところで、益次郎が昼夜を分かたずして寝ていた昨日も、太陽が昇り切らんとしている今日も、平日であった。キッチンの掃除を終え、満足気にリビングに戻った益次郎は、テーブルの方を見やった。テーブルの奥の壁には、縦軸に日付と曜日が印刷され、横軸に名前が書きこめるファミリーカレンダーが吊り下がっていた。

ポケットからスマホを取り出して、今日の日付を確認する。2月20日。千魚(ちか)の欄には歯医者と書かれ、ヤマメとイワナ、2人の娘の欄には学校からの帰宅時間が書かれてあった。やはり平日だった。日にちの感覚も曜日の感覚も、麻痺していた。いちいち確認しないと時間のスピードに意識は付いていけず、置いてきぼりになっていくばかりであった。

益次郎は中堅の広告会社に勤めるサラリーマンである。昨日は会社に連絡することなく、1日寝ていた。無断欠勤である。しかし、それを気にする風はなかった。もはや当たり前のことになっていた。罪悪感は捨て去っていた。

リビングの一角、ぽっかりと開いた仄暗い(ほのぐらい)入り口を通って寝室に入った。寝室と呼んでいるのは益次郎だけで、千魚もヤマメもイワナも“益次郎の住み家”と呼んでいた。

その6畳の部屋にはキングサイズのベッドが置かれ、確かに夫婦が寝るための部屋ではあるけれど、それ以外の時間は益次郎が独占していた。正確に言うと、益次郎は窓際のキングサイズのベッドの上で昼も夜も過ごしていた。

ベッドの端に座り、何からやろうか、と考えた。体を捻り、薄緑色の遮光カーテンをつかむと、ボールを投げるかのようにレールを走らせた。光を部屋に導き入れた。カーテンは半分ほどしか開かなかったけれど、それでも天色の空が見えると、今が活動する時間なのだと認識できた。

益次郎はベッドから立ち上がり、カーテンを全開にした。窓も開けた。部屋の空気は澱んでいた。マンションの管理人と近所の人の挨拶が聞こえた

「おはようございますー。今日も寒いですねー」
「おはよう。すっかり寒さが戻ってきたね。この間まで暖かかったから、このまま春になると思ってたんだけどね」
「昨日の天気予報では、寒さは今日までだって言ってましたけどねー。桜の開花も早いんじゃないかって」
「冬はもういいよ。春になって、陽気になって、桜が咲いて。今年は花見に行けるといいんだけどね」
「そうですねー」

スズメの鳴き声。ランニングをしている人の正しいリズム音。自転車のチェーンが回る音。ゴミ収集車の機械音。営みの音が網戸から入ってきた。

管理人は、ここしばらく会っていない父親と同じくらいの年齢に見受けられた。益次郎がジャージ姿で散歩に出かけるときも「行ってらっしゃいませ」と声をかけてくれる。「行ってらっしゃい」でいいですよ、何なら挨拶は無くてもいいですよといつも思う。丁寧過ぎてこそばゆかった。顔を直視できずに、軽い会釈だけを返していた。

「せっかくだ。全部洗うか」
つぶやくと同時に、益次郎は身に付けているものを脱ぎ初めた。下着までも放り投げ、真っ裸になった。昨日から風呂に入っていなかったし、起きてからは顔も洗っていなかった。誰もいないことを良いことに、堂々とリビングを横切り、風呂場に向かった。

シャワーを浴びながら湯船にお湯を張る。脂ぎった髪を洗い流し、汗臭い体にはボディーシャンプーを塗り付けた。頬っぺたまで伸びた髭を剃る頃には風呂が沸いた。湯船に浸かり、手でお椀を作ると思いっきりお湯を顔に叩きつけた。

「顔を洗うときはね、ごしごしと洗っちゃだめなんだよ。ぬるま湯で優しく、なでるように、だよ。家の洗面所は32度設定でしょ。そのくらいがちょうどいいんだって」

高校に上がりたての頃にヤマメが教えてくれた。何を大人ぶってと思いながらも、洗顔のやり方を変えていた。今日は仕方ない。誰もいない家。昼間の風呂。気持ち良かった。仕方がない。

風呂から上がり体を拭くと、腰に手を当てて歯を磨いた。千魚が歯医者に行っているのを思い出し、ごしごしとは磨かずに優しくブラッシングして、歯間ブラシとフロスも通した。さっぱりした。憑き物が落ちた。

寝室に戻ると、洋服ダンスから愛用しているジャージを取り出した。どこに出かけるでもない。駅の近くにあるスーパーに行くのが一番の遠出なのだ。わざわざ着替えるのは面倒だった。部屋着にも近所への外出着にもなるファッションを追及し、ジャージに行き着いた。洗濯すればすぐに乾くという利点もあった。

着替えが終わると、コックピットを組み立て始めた。折れ曲がった掛け布団をまっすぐに直し、凹んだ枕を数回叩いて元に戻す。枕の上に三角クッションを置き、ベッドのヘッドボードにアーム型のスマホスタンドを取り付けた。毎日同じ場所に座っているはずなのに、微妙に角度が気になった。

アームの調整を終えると、マイク付きのイヤホンをスマホに差し込んだ。机はクッショントレイを使っている。リビングに転がっているのと同じ素材のクッションに竹のトレイが付いたラップトップサイズのものだ。

ベッドに座り、三角クッションにもたれ掛かる。太ももの上にクッショントレイを乗せ、イヤホンを耳に入れる。在宅勤務の準備が整った。まずは、スマホを確認する。アーム型のスタンドに取り付けられたスマホは宙に浮いていて、昔映画で見た宇宙艇のコックピットのようだと気に入っていた。

着信は、無かった。LINEとメッセージの通知があった。LINEには公式アカウントから配信されたクーポンが、メッセージには宅配便を装った詐欺メッセージが送られていた。

ノートパソコンを立ち上げて、メールを読み込んだ。メールは1通も無かった。送受信のボタンを何度もクリックする。そのたびに進捗を示すダイアログが表示された。ソフトウェアは正しく動いているのに、誰からもメールは届かなかった。

ある日の散歩途中に石を見つけた。自分が下を向いて歩いていたのだと気づかされた。それ以来、散歩するたびにその石を確認するようになった。いつも同じ場所に同じ形で転がっていた。物言わず、他の人の目に留まることなく、そこに居続けていた。自分が重なった。

1年前、まだ毎日通勤していた頃。視界に黒い粉がちらついた。目が疲れているのだと思った。数日続くと、何かの病気かと心配になって、ネットで調べた。飛蚊症(ひぶんしょう)という症状があることを知った。時間を作って医者に行かねばと思いつつも、文字も読めたし、放置していた。黒粉(くろこ)がウィルスだと自覚したのは、同じ会社の人間が発熱した時だった。

いつかの帰り際、年若い社員とすれ違った。「お疲れ様です」と挨拶してくれた唇には黒い口紅が塗られていた。淡いピンクのフレアスカートに白いシャツという服装にも、明るい茶色の髪に包まれた幼い顔立ちにも、会社という場にも、明らかに不協和音が鳴っていた。

益次郎が立ちすくんでいると、彼女と挨拶を交わした人々が通り過ぎていった。不自然な唇を気にする人は誰もいなかった。その光景が異様だった。気になって次の日にその子を探したけれど、熱を出して休んでいた。数日後には、陽性者が出たと社員全員にメールが回った。

同い年の部長には、黒粉のことを話した。自分にはウィルスが黒い粉として見えると。黒粉は日に日に増えている。初めは点に過ぎなかったけれど、今はムクドリの大群のように空を覆っていると。何か対策が必要になる気がすると。部長は「分かった」と頷いた。

世の中が鬱屈した空気に覆われ、自殺のニュースが報じられ始めた頃、益次郎に不定期な人事異動の辞令が出された。アーカイブス管理室という部署の室長であった。「大抜擢じゃないか」と同い年の部長は電話口で嬉しそうに言った。会社では正直さはいらない。上手くあざとく、人の気持ちに寄り添わない人間が高く評価された。

広告業界は大手と中堅の差が大きい。益次郎が務めている会社も、中堅と言ってはいるけれど、その実は大手の下請け仕事が売り上げの大半を占めていた。それでも4年に1回行われるスポーツ大会の仕事が回ってきたお蔭で、売り上げは堅調だったし、社内の雰囲気もお祭りに参加できる楽しみで明るかった。益次郎もそれを享受していた。その矢先の人事異動だった。

室長と言っても部下はおらず、独りの部署だった。自社で制作したポスターや映像の管理が仕事だった。下請け仕事以外の自社制作はほとんど無かったけれど、受付の隣のわずかなスペースに制作物を陳列し、1か月に1回入れ替えるのが重要な任務とされていた。この人事異動が同い年の部長の優しさだったのか、異物を排除するためのものだったのかは、今でも分からない。

窓の外で車が止まる音がした。トラックの音。続けてもう1台。午前中指定の荷物を届けに来たヤマト運輸と佐川急便がバッティングしていた。様子を見に管理人が外に出てきた。

「あー、ヤマトさん、だめだよ。そこだと人も通りにくいし、駐車場から車出せないよ。あっちに止めてくれないかなー」
「すみませーん。重いのがあるんですよ。荷物落としちゃうと大変でしょ。すぐ済みますから」
「だめだめ。移動してねー」

えーと言いながらもトラックを移動させる音がした。バイクのエンジン音が近づき、マンションの前で止まった。エンジンが止まった後もバネの音が聞こえた。福龍飯店の出前だろう。

「あれっ、さっき電話したばっかりなのに。速いねー」
「違いますよ、これは先客の。今作ってますから。もう少しお待ちくださいね」
「楽しみだねー。今日は特別なんだよー。こちらのマンションを担当させていただいて、今日で1年。まぁ、自分へのご褒美というか、記念日というか」
「あぁ、そうなんですか。よし、お祝いに餃子、サービスしますよ。あ、でも、うちの餃子、大きいからなぁ。食べきれるかなぁ」
「えっ!嬉しいねー。食べるよ、食べる!年寄りを馬鹿にしちゃいけないよ。幾つになっても食べることは、活力だからねー」

皆それぞれの居場所で働いていた。人は飯を喰わねば死ぬ。飯を喰うためには金がいる。でも、きっと、それだけではない。益次郎の中には、このままで終わるのかという思いがあった。その思いはこれまでにも幾度となく湧き上がってきたけれど、それでも会社に依存してきた。

人事異動後、成果が上がっていないと言われ、ボーナスは全額カットされた。それはそうだろう、何もやっていないのだ。しかし、何をやったら成果になるのかは分からなかった。毎月の給料は変わることなくもらえていた。かろうじて金づる男としての役割を果たすことはできている。このままでいいという思いもあった。

あといくつ寝ると、この葛藤は消えるのか?益次郎は自問したけれど、答えは出そうになかった。

「今日は、忙しくなるな」
そうつぶやくと、パソコンを閉じた。

<続く>

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