地域への視線・地域からの視線 ―近世地誌編纂者の世界像―
(鳥取市歴史博物館平成14年度秋季展覧会の図録『江戸時代、「諸国」繚乱』所載のものをベースに修正。図録所載のものには図版・脚注が付されているが省略。どっちかというと省略したもののの方が面白いので、関心のある向きは是非図録の方をご覧ください。下記で販売されています。http://www.tbz.or.jp/yamabikokan/index-34054.php)
はじめに
ここでは、寛政三奇人の一人である林子平(仙代藩士)と、近世因幡国最大の史家・地誌編纂者である岡嶋正義(鳥取藩士)をとりあげ、彼らの著述と「地域性」との関連について考えてみる。
地誌編纂者であり、一生を地域の歴史研究に捧げたと言っても過言ではない岡嶋正義はともかく、地域性よりも先見性が評価されている林子平をここで取り上げるのは、決して奇をてらってのことではない。もちろん、世代的にも一世代以上隔たりがあり、影響力の広がり方や形態という点からみても、この二者を単純に比較するようなことはできないし、そのような立論はほとんど無意味である。考えるべきはむしろ、「地域に閉じた著作」である『鳥府志』などの作者・岡嶋正義が、何故に林子平の著述に深い関心を抱いたのかということ、つまりは地域の「地誌」・「歴史」編纂と林子平の著作への関心が、正義の中でどのように統合されていたのか―あるいはいなかったのか―という点にある。
林子平をあえて取り上げるのは、そのことを考えるためである。もちろん、日本全域で高まりつつあった海防への関心がその中心にあることは、前提として理解しておく必要がある。
同時期の松江藩の例からみても、日本海に面する山陰諸藩が海防策に無関心でなかったことは明らかである。しかし、後述するように、正義の子平への関心はそればがりではないようなのである。
林子平と「仙台」
ここではまず、子平の著作、特に『海国兵談』を、冒頭の問題設定を念頭に置いて再検訂してみる。
林子平(一七三八~一七九三)は、幕末に盛んになる海防論の先駆けとして、また、「密に憶へば当時長崎に厳重に石火矢の備有て、却て安房・相模の海港に兵備なし。此事甚不審。細かに思へば、江戸の日本橋より唐・阿蘭陀迄境なしの水路也」に端的にみられるような世界情勢を地理的に捉える視点をもつ思想家として、現在でも高く評価されている。『三国通覧図説』や『開国兵談』に共通するこの先見性は、逆に、子平の思想の他面での評価を「従来の軍学の再編成」程度にしてしまった観もあるほどである。
特に荻生徂徠『鈐録』の影響は大きいといわれており、実際、『海国兵談』の立論は『鈐録』と大部分共通している。ただし、徂徠学の重要なモチーフである道学的要素はほほ完全に抜け落ちており、より現実的な処方の書となっている。
『海国兵談』第十四巻では、子平自身も、徂徠・太宰春台らの土着論を学んだことを文中で表明しており、これまで指摘されてきたとおり、その思想背景に徂徠学があることは疑いない。そのためこの巻は、一見、『海国兵談』の中でもっともオリジナリティに乏しい面を示しているようにも思われる。
しかし、子平の思想と「地域」の関わりを考える上では、この巻は重要なポイントとなる。ここに表明された「武士の本体」および「知行割」の論からは、子平が映して机上の理論として「復古」思想を表明していたのではないことがわかるからである。
子平は、次のように述べている。
「制度を立て、奢侈を禁じ、武士を真の土着歟、又は土着同様になして、武術再興あるべき事、一国一郡をも領する人、勃起すべき事也。今の世にも古き諸侯に家中を土着にしたるあり。近くは吾藩を始として相馬、大村、肥前、薩州など也。如此なれば直参も多く陪臣も多き也」
前半部分だけに着目すると、の論をただなぞっているかのようにも見える。しかし、この一節で注目したいのは、「今の世にも」以下の後半部分である。子平はここで「吾藩」をはじめとし、「相馬、大村、肥前、薩州なと」「古き諸侯」の事例をあげ、土着制度を採用している例としているのである。
このような論法は、他にも見いだすこどができる。
子平の復古説は、理論的なものというよりは、地方知行制の実体が色濃く残る仙台藩の実状、また、見聞を広げる中で知った鹿児島藩の郷士制度など、実際の土着制度の知見の上に成り立つている。そして、それを「吾藩の大法也」と強調する点などから、子平が、仙台藩の「中世の遺制」ともいわれる支配制度に、復古的理想像を重ねていたことは明らかである。
「海図兵談』は、子平が徂徠・春台の説をただ受け継いだのではなく、より実践的な視点で再編成したことを示す書なのである。
子平は、仙台藩への度々の上書が容れられなかった後、長崎・江戸などで見聞を広げた結果、「一藩的な視点」から脱し、日本全域を視野に入れた、「一国的な視点」へと移っていったと言われている。しかし、その著述からは、「一藩的な視点」を捨て去ってというよりは、むしろそれを起点として二国的な視点に到達した姿がよみとれるのではないだろうか。
体験に基づく実践性と、実践の延長としての地理的な世界認識が、子平の著述に通底するものであるとするならば、時に「地政学的」と表される子平の世界認識は、「地域」という足下から視界を広けたもののように思われるのである。
岡嶋正義の林子平受容
岡嶋正義(一七四八~一八五九)は、鳥取藩士で、地元では著名である賀、全国的にはほとんど無名であると思われるので、少し伝記事項に触れておく。
岡嶋家は、天正十一年(一五八三)美濃国大垣で出仕して以来の池田家譜代の家臣で、石高は四二〇石。正義はその7代で、名は儀三郎、号は石梁。鳥取藩士・佐野義左衛門家より養子に入ったため、相続石高は三七〇石。文政七年に御目付役を仰せつけられるも、文政九年に二年ほどで御役御免となり、以後藩の役に付くことはなかった。そして安政六年に没するまでの長い間、ひたすら歴史叙述・地誌編さんに没頭した。著書は多数あるが、多くは未定稿であり、終生推敲を重ねたために著述間の関係性などは不分明である。
これらの叙述は、藩の正史が編まれず、事績が不明になりつつあることへの危機感などから成されたものであると言われ、後世の便覧のために編纂したとう。
しかし、『鳥府志』『因府歴年大雑集』等の正義の他の著作には、藩に関わらない話事も多く、正義自身の関心の幅は「藩史」の枠に留まらないことが知られる。むしろ、正義の関心の中心は自分及び養家である岡嶋家の歴史と、鳥取城下(地域)そのものにあった。その意味では、代表作であり藩の正史の代替的な性格もある編年体藩史(藩主献上本『鳥府厳秘録』など)以上に、岡嶋正義の歴史意識・地域意識を捉える上では、地誌雑集の類が、より重要な意味を持つといえる。また、これらの善作の主要なものは、刊行などの形で広く公開されることを前提とせずに著されている。はじめに、正義の著作を「閉じた」ものと表現したが、それは内容的な面だけではなく、著述のスタイルにも現れているようである。このように、地域内の著述者としてのありかたをむしろ積極的に選び取った観のある正義が残した稿本の中に、『諸邦略図類』 と題されたものがある。これは、長久保赤水の『新刻日本輿地路程全図』など、当時流通していた日本図及び日本周辺図の写に、鳥取藩所蔵の図から写したと思われる竹島(鬱陵島)図を加えて冊に仕立てたものである。
原典と対比すると、それぞれ着彩などに異同があり、正確な写本というよりは岡嶋自身の見解に基づいて手を入れた(または、写本の典拠自体も写本だった可能性もある)もののようである。
この『諸邦略図類』の中心をなしているのが、林子平の「三国通覧図説」写である。現存する正義の資料の中には『海図兵談』の写本こそ残されていないものの、岡嶋正義が子平に関心を寄せ、その著書に触れていたことは間違いない。また、『因府歴年大雑集』の中にも、幕府による子平の処罰についてげ項が見える。
ただし、正義自身が子平について直接述べたものは、今のところ見つかっていない。確かに『因府歴年大雑集』に項はたてられているが、本文を全く欠いているのである。わざわざその丁の項目以下を空白にしていることから、岡嶋が何か記そうとしたことはわかるのだが、その内容は全く不明である。
正義は、単に地域に没入する形ではなく、地域をとりまく地理的環境にまで目を広げた上で、細密な地域の地誌を記すことに注力した人物である。ある意味では、「仙台」を起点に世界情勢の理解と処方を記した子平に、近似なものを見いだしていたのかもしれない。
また、正義が、武士の土着、あるいは給所との関係の回復を望み、ある程度実行に移していたことは、『給所勧善祭の発端』 によって知られる。仮に、直接の影響関係は認められないにせよ、徂徠学を背景にした復古思想は、共通点として見いだされるのではないだろうか。
その意味では、あくまで自分の視点に引きつけてのものであったにせよ、正義が林子平を評価し、その思想のある面を受容していた可能性は高い。
地域への視線、地域からの視線
紙数のためもあってやや乱暴な立論になってしまったが、以上みてきたように林 子平と岡嶋正義の一見遠く隔たったもののように思われる著述の営為は、ある意味で基盤を共有するものであった。自地域への深い認識に基づき、それを拡大してゆく形で日本をとりまく世界への認識を深めてゆく方法論、徂徠学を背景としながら、さらに実践的であろうとする姿勢などがしれである(ただし、正義には小平にはあまり見られない道学面への拘泥が見られる)。直接それを示すものこそ書き残していないものの、岡嶋自身が子平を重視した遠因は、この方法論上の近似性だったのではないだろうか。
仮にそのような考え方が許されるとすれば、子平はそれによって実体的に「日本をとりまく世界」について考えることができたのであろうし、正義の著作は同じ方法論で「鳥取」という小世界について考えたものであるということができるだろう。
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