[Logos Sampling Series] Chapter6.山川均君についての話
明治三三、四年のころ、わたしは万朝報の編集局で初めて山川均君の名に接した。
日刊平民新聞第一号に「前半身に対す、山川生」と題した一文が載っている。
日刊平民の編集局における山川君は寡言沈黙、ただこつこつと働いていた。
日刊平民がつぶれてから、山川君は守田君と一緒に淀橋の柏木に住んでいた。
赤旗事件の前に、屋上演説事件というのがあって、山川君、大杉君、わたし、その外数名が一、二カ月禁固されたことがある。
赤旗事件のため、山川君は二年間、千葉監獄にいた。
大逆事件の後、我々の運動は全く屏息した。
売文社はようやく少し発展の形で京橋南鍋町に進出した。
大正六年八月号の『新社会』に、「小説、赤い布団、山川均」と題した一編の文字がある。
大正八年五月号の『新社会』に、「山川均著、デモクラシーの煩悶」という広告がある。
最後に、わたしは子としての山川君、ユモリストとしての山川君を一言したい。
(堺利彦「山川均君についての話」・『改造』T13.11より)