父の人生を変えた『一日』その38 ~ピンチはチャンス~
その38 ~ピンチはチャンス~
若い社員の堤君が運転して高速道路を走っていた。助手席の私の手にはたれ褌のテレックスがありそれを読んでいた。カナダのパルプ関係企業のストライキが始まって長期化して大変な事になった。すぐにカナダトーメン社の木材担当の先輩、テッド此口さんに電話入れた
「テッドさん困っていますね。パルプ用のぼろ丸太をカナダトーメン社に売ってあげましょうか?」
とサウンドした。テッド先輩は一瞬、むっとした声で
「ライオン、冗談どころではないのだ」
と語気を強めて言った。彼は事態が深刻で頭を抱えている事が分かった。まさかライオンがぼろ丸太をアメリカから輸出するとは先輩は思わなかった。
カナダトーメン社はシアトル支店から見ると与信上、無審査取引先であった。アメリカのぼろ丸太を沢山買い付けてカナダトーメン社に販売した。また、ニューヨーク本社から誉められた。
「第3国向け輸出商い」との範疇になった。カナダからバージを持ってこさせその丸太をカナダのパルプ工場も運んで大変喜ばれ当方は金儲けができた。テレックスは世界各地に写しが流れているがカナダ向けのテレックスからヒントを得た商売であった。してやったりで有った。
~倅の解釈~
水澤電機に入社して私はすぐ腰道具をして現場へ出た。私の教育計画は内線工事部3年。配電部2年であった。工事をわからずして、電気工事会社の経営には携われないであろうと親父以外の役員が決めた方針。私は従った。毎日、現場に出向き汗をかいた。サラリーマン時代の給料の約半分の高卒と同じ給料でスタート。これも親父と私の勝負、闘いの契りであった。
「元博、給与どうする?」
「新卒と同じでいい。実力で自分の給与はあげる」
サラリーマン時代、営業マンとして都内を飛び回り実績を残した自分に酔っていたのか強気で啖呵を切った。給料日、びっくりした。高卒の新卒給与だった。確かに弊社には大卒はほとんど入ってこない。でもやりくりは得意。毎日、現場に出向き勉強した。1年ぐらいたったころだった。会社の経営がぐらつくトラブルが起きた。同族争いである。次々と役員が辞めていく。社員もやめていく。親父の右腕だった取締役営業本部長も自身で会社をやると退職。
私の教育計画はこれで完全に変わった。急きょ、営業へ転属。水を得た魚のごとく、新潟県内を走り回った。引き継ぎ期間で営業本部長から何度も怒られた。
「こんな会社に営業行っても無駄だ。そこは電気工事屋は決まっているのだ」
でもあきらめず、だれよりも人と会い、名刺を誰よりも配ってやると。
会社の経営土台が完全に崩れる寸前まで追い込まれた水澤電機。その時、親父から今でも忘れない一言があった。
「元博、会社をたたむことを考えるか?」と。
「冗談じゃない!親父とこの会社を盛り立てると決めたのだ。何弱気になってんだ」と言い返した。
「バカ!!お前を試しただけだ」と笑顔で返答された。その三日後、親父は脳溢血で会社の社長室で倒れて入院。救急車を自分の車で追いかけて病院まで向かった。いつも全社に流しているメールの文章がおかしいということでスタッフが社長室に見に行ったところロレツが回っていなく、急きょ救急車。発見が早かったので1週間程度の入院で退院できた。
このときは、さすがにビビった。28歳の若造。逃げ出したかった。こんな会社経営なんてできないと。でも、「どうしても憧れの親父と仕事がしたい」そんな強い信念が勝った。あの時、逃げ出していたら今頃何をしているんだろうとたまに考えることがある。どん底まで落ちた親子。親父と倅。最強であった。どん底だからこれ以上下にはいかない。怖いものはない。この数年間は私にとって本当に貴重な経験。
水澤家の遺伝子なのか、ピンチは絶対にチャンスにする。順風満帆なんて言葉は水澤家には似合わない。いまだに親父が枕元に出てきてはったかれる。克己。己に負けるなと。