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父の人生を変えた『一日』その76 ~忘却の闇に捨てる~

その76 ~忘却の闇に捨てる~
 ゴルフでも何でも、「もし、こうであったら」と思う時がある。それはあくまで仮定の話でありそうでは無いのである。どうしても㈱トーメンを辞めて会社経営してくれ。そして致し方なく円満退社そして第2の人生でかなりの業績・功績を残し、そして一番退社を希望して当社に来ていただきたいと言った亡き会長の奥様からの「絶縁状」。全く言語道断である。叩かれても叩かれてもどんなに理不尽を思っても『それも人生かな、嗚呼悲しいかな人生』と自分の心の中に鍵をかけて『忘却の闇に捨てた』。
早いもので離婚から5年3ヵ月が過ぎ、会社分割から今年の9月で5年になる。どんな悩みがあってもどんなに苦労して考えても『何時でも、おおらかで元気で前向きい生きること』のみを考えていたライオンに拍手を送りたいと思った。自分で自分を誉めてやろうかとも考えていた。人間これだけ悩めば狂うであろうが総合商社で鍛えられた強靭な精神力は微塵とも揺るがなかった。
 「人生波瀾万丈」である。しかし、この『人生を変えた一日』のある田舎の少年は後ろを振り返られないのである。千昌夫の唄う「夕焼け雲」を唄いながら『帰りたくても帰れない』。
「必ず故郷茨城にしっかりと錦を飾るまで」帰らないのである。利根川を見て育った田舎の少年は、毎朝早朝に信濃川を見て生活している。こんな骨肉の争いを経験したライオンは亡くなった母親が小さい時に言っていた「お前は茨城県立水海道第一高等学校を卒業したら守谷町役場に(今は守谷市)に入って地方公務員で頑張るのだよ」と言う人生もあったのかも知れないが私は今の人生に絶対に後悔しないし後悔しても始まらないと自分に更に喝を入れている。そしてまた、何事にもなかった様に今日も又「明るく冗談言いながら大きい声で元気で」人生街道を歩いていくのである。


~倅の解釈~
 記載されている日付から考えると一番、会社の経営が苦しい時に書いた文面である。親父は本当に精神的に強かった。どんな逆境も乗り越えてきた。
ちょうどこのころ、さすがの親父も倒れた。会社に出社すると、いつも全社に配信しているライオンニュースというメールの文面がおかしい。文章になっていない。部長数名で社長室に入るとロレツがまわっていない。部長数名で病院に行くよう説得したが言うことを聞かない。私の出番であった。「倅」という強みをフル稼働して救急車を呼んだ。
親父の身の回りを見てみると手と膝が擦り切れて血が流れている。聞くと、早朝、出社して車から転び落ち、這いつくばりながら社長室までたどり着き、何とか回復を待っていたそうだ。凄まじい精神力。
救急車を営業車で追いかけながら。
「親父、死ぬなよ。まだ早いぞ」
救急車に乗り込む時点では完全にロレツは廻らず意識も朦朧としてた。車で救急車を追いかけながら親父の『死』を真剣に考えた。病院にたどり着き、緊急処置室へ。近くによると「出ていけ」とロレツが回らない中でも喝を入れられた。処置室の外で部長たちは心配そうな顔で下を見ていた。心配だろう。まだまだ29歳のボンボン倅には会社は経営できない。
数時間後、先生が出てきて「脳溢血でした。あと少し遅かったらまずかったですが、何とか大丈夫です」と。その一言ですべてがほどけた。緊張感、不安感。覚悟しただけに、安堵感がすさまじかった。本当に駄目かと思った。病室に入って意識がある親父に一言。
「大丈夫ですか?」
「早くタバコもってこい。あと、腹が減ったから吉野家の牛丼とイカの塩辛買って来い」。。。
2週間ほど入院していた。実はこの2週間で本当に様々なことを学んだ。会社での環境がガラッと変わった。私の対応、覚悟を見た部長連中から少し信頼も得られたことから、会社経営のことを初めてこの2週間やらせてもらった。親父復帰後の役員会で私の専務取締役が決まった。役員、部長の全員の承認を得られた。不思議なものである。ここから役員が数名辞め、会社経営はズタズタになるのである。そんな環境の中で専務取締役。親父の計算の中にさすがにこれだけ劇的な組織変化は想定されていなかったであろう。でも私はやる気満々であった。得意の営業を全力で出来るポストに就いたのである。ここからの5年間は地獄であったが同時に一番、仕事が楽しい時期でもあった。
親父も私も同じ遺伝子。だからこそ不条理や都合に悪いこと、嫌なこと、大変なことが立ちはだかると、『忘却の闇に捨てる』ことにたけいるのかもしれない。

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