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管理教育はこうして進んだ/Twitter連投

最近のtwitter投稿より。連投。
@atsushi_h

twitterには、匿名で投稿できるという特性ゆえに、教師アカウントが多数存在します。

そこでは、現場の先生方の嘆きの声、をたくさん聞くんですね。

保護者の無茶な要求の具体例、なんかを見ると、
見事なまでに壮絶すぎて、そりゃあ大変だろう、と思ってしまいます。

人が仕事としてやれるキャパシティーを超えているんじゃないかと、思うわけです。


今後、いかに、人がやらなくていいことをやらないでいられるか、とか、人には耐えられないのでやらないようにするか、とか、そういう仕事の分別、取捨選択が進んでいくのだろうと思います。




以下、連投。



一定のここまでの管理教育(指示命令管理統制、課題宿題)が進んだ要因の一つは、
保護者がお客さん化したことにあるでしょう。

モンスターなる言葉が鳴りを潜めたのは、目立った人たちだけの問題ではなく、大半がそれになったから、とも言えます。



流石に、誰も彼もが、個々の要求を、無作法に、かつ感情のままに、学校(教員)に突きつけてしまっては、先生たちの負担が大きくなりすぎてしまう。

それに対処対応していくことで、管理統制が強まったという図式です。

もちろん、これは一つの要因に過ぎませんが。



ただ、クレームのような要求が多くなりすぎて、人としての負荷が高くなりすぎた。
先生という"一人の人"が許容できる範囲を超えすぎたわけですね。

悲劇です。



要求やクレームへの対応の結果が今の姿なのですが、
問題は、
負荷が高すぎて、本来維持していた"教育"という誇りまでも、捨てざるを得ない状況になっていった、ということでしょう。

公教育の誇り、は今は、ちょっと別の何かになってしまっている。



個人的には、教師の教育者としての誇り、が頼りだったのにと感じます。

教育者が誇りを失い、サービス提供者になり変わってしまっている。
これが一つの現状でしょう。



もちろん、対応・対処がまずかった、というのはあります。

特に、一斉集団を率いるための、指示命令管理統制、以外の手法を(学校や教員が)持ち得なかったというのが、一番のまずかったところでしょう。




教師が真に、優秀な「学び手」であれば、
今の時代、今の子どもたちにあった、手法を学び直すことができたでしょう。

そうではなかった、ということです。



(ひとまず おわり)







 


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本田篤嗣(Master Honda)
記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。