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失われた学びの場について考える/9.11の日記
9/11、本日の授業を終了。
小中高校生のみなさん、おつかれさまでした。
テストの近いみなさんはがんばって。
それと、今日の小学論理の授業は思考実験でした。
対話とそこにある思考から様々なものが見えてきます。
こちらも、まだまだ今年のメンバーの実力アップ、ベースアップが必要です。一歩ずつがんばっていきましょう。
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仕方ないと言えるのは、小中、ほぼ例外なく、ここに来るまでは、学びの姿勢を養えていないことです。
だからここに来てくれたら、その時が小学一年生の始まり。何年生であれ、そこからが学びの始まりです。
さて。
改めて、
学びが失われてしまった今を考えます。
どこへ行っても学びの姿勢を学べる場所はなく、学びという動作を知ることができない。
ああすればこうなる、これを習えば必ずこういうことが学べる、シラバスに従えば予定通り学べる、というような、本質的な学びとは似ても似つかない、“フェイクまなび”と呼びたくなるような、フリや思い込みで溢れています。
本質的な学びは、予定調和的には発動せず、規定されたレールやシラバスによって、思いの通りに手に入るものではありません。
学び手自身ですら、今から何が学べるかわからないのです。
未規定で、何か得体の知れないものとの出会い、そこにある偶有性。本質的な学びとはそういう、なんともよくわからないところにあるのです。
その意味で、公教育だからと言っても、すでに多くの公教育より現場は、学びの場とは程遠いものに成り変わっているのです。
学びの場が失われていることを残念に思います。
(おわり)FB投稿より
まなラボスクール(小中高)
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