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「大人になって勉強しない日本人」

FB投稿より 一連のものをアップします。

今回のお話のテーマは「大人になって勉強しない日本人」です。


(投稿1)

大人になると勉強しない、世界でも異質な日本人。

となると、大人になっても学び続ける人を育てるというのが、現代教育のタスクの一つになるはずです。

もしそれに逆行することが教育現場で行われているとしたら、
民主主義を崩壊させ、同時に、独裁国家を築くことにつながる、
ということを頭においておかなければならないのだろう。

どっちがいいか、国民が選ばなければならないし、

望まない方向に行きそうだとすれば、声をあげるべきでしょう。
いち、市民レベルで。

参考ニュース



(投稿2)
他人はどうあれ、自分だけは大人になっても勉強する、という習慣をつければ、社会では簡単に一人勝ち、というのが現実。



(投稿3)
それとこれは子育てでは大事なのだけれど、自分が勉強していないのに、子どもに「勉強しろ」は全く通じない(見抜かれる)ので、諦めた方がいいです。


(投稿4)

先の投稿で書いたけど、肝心なことなのでここに。

復習・・・子育てにおいて、自分が現在進行形で勉強していない大人が、子どもに向かって「勉強しろ」は通じないので、諦めましょう。

では続き。

勉強しろと言いつつ、大人が求めているものは、「テストの点数に直接的につながるもの」だけを指していることがなんと多いことか。

テストの点数につながる直接的な勉強、つまりは教科書と問題集だけを、「勉強」と定義して、それだけを求めることの愚かさに、ちょっと気づかなければなりません。

それ以外のことは、本当に、「無駄なこと」でしょうか。

表面的で、わかりやすいもの、点数なんかはその典型ですが、みてわかるもの、だけを追う。
その思考や価値観は、ダイレクトに子どもに伝わります。

もちろん、まずは、点数だけを追い求め、○か×か、50点か100点か、1位か100位か、だけを迫られる勉強は、やればわかりますが、ほとんどの場合、精神を病んでしまいまいます。
投げ出すか、引きこもるか、それでもなお続けるか、は、人それぞれですが、
ストレス過多でメンタルが不調になることだけは、ほぼ確定的です。

それだけではありません。

今回はここが中心。

それだけにとどまらず、
"勉強とは、点数を取ること、良い成績、良い順位をとること"という価値観で凝り固まってしまいます。

この子たちが社会に出た後は、それまで散々受けてきた、学力をはかるようなテストというものは無くなります。
通知表もありません。

(よくいうところの"社会に出たら正解はひとつじゃないんだあ"とか、"そもそも問題、課題を発見する必要があるんだあ"とか、その辺りの話はまさにその通りなんですが、ここではおいておきます)

勉強はテストや成績、点数のためだったわけですから、
当然のことながら、もう、その時点で、「勉強やーめた」となるわけです。

とても自然な流れ、当然の流れでしょう。

だとすれば、
子どもの頃から、何のために勉強するのか、何のために学ぶべきかをしっかりと考えながら、テストや点数ではない何かを見つめ続けることこそが、重要になることがわかるはずなのです。

もちろん、何のために勉強するの?というのは、永遠のテーマです。

すぐに答えがわかるものでも、答えが出せるものでもありません。

それでいい。

それでいいから、なぜ勉強するのか?を問い続けながらでも学ぶのです。

さて、これを前提に考えると、
果たして、今の教育は、今の子育ては、本当に必要なことを子どもたちに与えられているのでしょうか。

ニュースでは、すっかり、大人になると勉強しない国、日本、が定番のものとなりました。

で、これを今の大人に向かって「勉強しろ」とだけ叫んで、果たして意味があるのでしょうか。

問題はおそらくそこではないはずです。

まずは、教育と子育ての現場が、「勉強」の意味をもっと大きく豊かなものとして捉え、
それを子どもたちに伝えていく、またそういう環境を作っていく必要があるのではないかと思うのです。


みなさんはどう考えますか。


追伸
ちなみに、現代は、テクノロジーの発展と最強のスマホくんの存在があるので、大局では流れはもっと悪くなると思います。その分、個々で、例えば、地域や小さな共同体単位で(家庭だけでは難しいと感じます)、学びの意義をもっと深いところで共有できるなら、社会で、その子が一人勝ちすることは、簡単になるのだろうとみています。
それでまあ、そういう場を、このことがわかる大人たちと作っているということなのですけれど。

追伸2
近頃の子育てにおいて、"〇〇はやって意味あるだろうか"という親御さんの問いのほとんどが、"学校のテストのために"意味があるだろうか、になってしまっていることに、辟易しています。勉強とか学びというものは、テストごときで測れるようなそんな簡単な次元のものではありませんよ。


追伸3
よく、学ぶことの楽しさとか、勉学の楽しさ、とかそういうことを引き合いに出す方々もいますが、それが、テストや点数のための勉強のフィールドで考えられていることが多くて、辟易します。本当の学びの面白さは、テストに閉じたものではありませんから。

(おわり)



本質的な学びの場を、地方の小さな場所から。




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本田篤嗣(Master Honda)
記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。