滅びゆく生きた教材/Children call it “Gakko”
休校明け。
子どもたちは登校し、あらためて学校とはどんなところであるか、それを突きつけられることになるでしょう。
おそらくそれは、大人以上に、シビアな現実として、です。なにより、学びの場においては、本来、子どもたちが主役なのですから。
それで想定されるのは、このたびの禍を機に、「学校の意味とはなんだろう?」と、
子どもたちに問いかける先生が出てくること。
ありがちです。生きた教材ですから。
この際、当然の如く、問いかける側の先生に考えられるのはこうです。
“ほら、やっぱり改めて考えてみるとね、学校って、ほら、大きな意味を持っているでしょう?”
“これまであまり意識して来なかったかもしれないけれど、〇〇も、●●も、こんなに意味があるものだったんだよ”
たぶん、そこに落としたい(オチをつけたい)先生が多いのではないでしょうか。
先生は、このパラダイムが転換しようとするタイミングであっても、かつての価値観に戻ろうとする、そこに落とし所を見出そうとするのです。
“ほら、やっぱり、これまでやってきた〇〇は、意味があったでしょう?”と。
ところが、です。
肝心の子どもたちは、もはや先生が期待するようなことは感じないのです。
もちろん、先生の落とし所が見えてしまうと、子どもたちは鋭いですから、先生の期待する答えを一応しておこう、となるでしょう。子どもたちは子どもたちなりに気を使ってくれますから。
ただ、本心はそうではなく、
“僕らは、私たちは、そうは思わない、そうは感じない”と心の中で叫ぶことになるでしょう。
“リアルの授業?
それはそんなになくても大丈夫なことがわかったけれど?“
先生の無駄話、先生の機嫌を損ねて怒られる、黙って聞いてノートを取らないといけない、話している先生の顔を見つめてないと怒られる、なんて非効率で不条理なふるまいを要求されるくらいなら、家で自分でやる方がマシ、なのです。そう、すでにそれができることがわかってしまった。
もう少し正確にいうなら、“もうすでにわかっていたのだけれど、やっぱりそうだったことが確認できた”、です。
(これらについては、動画シリーズ『教え方2.0』『地域教育カフェ』『独演会シリーズ』をご覧ください)
授業だけにとどまりません。
それは「リアルの何物か」にも言えることです。
みんなで?集団で?一斉で?息を揃えて?他人に合わせて?輪を乱さないように?
“それってそんなに必要で重要で、そんなに価値があるものなのですか?”
これから来る新しい未来、これから作る新しい社会は、本当に(学校で)それらを学ぶ必要がある“社会”なのですか?と、子どもたちは問うことになるのです。
先生は、この禍の最中で、再び、過去の世界に戻ろうとする。戻るのが当たり前のことだと思う。そして、再び、学校と教師に、かつての価値を与えようとする。なによりそうであって欲しいと願う。
一方、子どもたちはこれを機に、自分たちが生きる新しい世界では、大人たちが言うところの、かつて大事だったもの、かつて意味があると考えられていたものが、その役割を終えてしまったと知る。それを感じとる。
だから、かつての世界に戻ろうとはしない。
そう、
“僕らは、私たちは、そうは思わない、そうは感じない”と、子どもたちはわかる。
戻ろうとする大人。
戻れないことを知っている子どもたち。
この話を理解できれば、大人の側が圧倒的に分が悪いことに気付けるでしょう。
過去に戻ろうとしても、もう戻れない。
子どもたちはそれを感じ、知っている。
「学校の意味とはなんだろう?」
それを真に考えなければならないのは、私大人の側なのです。
きっと。
(おわり)
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