【教育と消費はなぜ別物なのか】「学校について考えよう5」
勉強が未来を創る 第13回より転載
「学校について考えよう5」
そもそも学ぶという行為は師弟関係の中で成立する行為でしょう。
師弟関係という非常に一方的な関係性の中で成立する行為だと言えます。
師は一方的に言いたいことを言う。
弟子がそこから何かを得ることができればそれでいいし、伝わらなければそれでもいい。
そうした「一方的」な関係性がそこにはあります。
師が弟子に対し見返りを求めるということはないですし、その逆もまた然りです。
弟子は何かを受け取れることもあれば、そうでないこともある。時にはクリティカルな学びの瞬間があるでしょうし、まったくもって無意味に感じる時間を過ごしてしまうことすらある。
そこには等価交換だとか取引だとかいった概念が全くあてはまらないことがわかります。
前回までに、現代の学校と生徒の関係は消費のそれと同様のものになっていると述べました。
消費行動で学びをとらえることは不可能です。
等価交換を基準に考えていては学びは成立しません。
師弟関係の中にあるのは「ギフト」のような概念です。
教える側は一方的に与える。
受け取る側は受け取っても受け取らなくても良い。
そもそも受け取れないことだって、ギフト自体に気づかないことだってある。
ですから、師の教えを受け取る行為以上に、「受け取れる感覚」を磨いていくことが学びであるとも言えます。
一方的に発信されるものを「これこそ私のために発信された何かだ」と勘違いする能力。
本当は自分のためだけに発信されたものでないのかもしれないのだけれども、自分のためだけに発信されのだと感じる力。
それを磨くことが学びの本質なのです。
ですから学ぶ側が最初から師に向かって「私のために教えてください、さもなければ私は取引に応じません」という態度で臨んでいては、学びは発動しようもないのです。
消費行動の等価交換の概念を持ち込むと学びはその本来の意義を失ってしまう。
それが今、学校の現場で起こっていることの一つなのです。
(つづく)