怖いけど気になる… 宗教へのモヤモヤを語り合う。学びへの扉を開く意外な視点
「宗教って、どうしてこんなにも近寄りがたく、かつ興味をそそるんでしょうか?」
――今回の対話では、僕たちが抱くその複雑な感情を真正面から取り上げてみました。「近づくと危険?」「でも何だか惹かれる…」という矛盾した想い。あなたも、同じような気持ちを持ったことはありませんか?
本記事では、宗教に対する「避けたい!」という気持ちと「もっと知りたい!」という好奇心を両端に置きながら、そのあいだをゆらゆら揺れる僕たちの心理を探っていきます。
ときどきビジネス哲学芸人らしくツッコミを入れつつ、最終的には「宗教って実は学びのツールとして使えるんじゃない?」という、ちょっと意外な結論にたどり着いたので、ぜひ最後まで読んでみてください。
※この記事は、日米のIT業界で働く友人同士で対話したポッドキャストの内容を元に文章化しています。実際の音声へのリンクは最後に掲載しておきます。
なぜ宗教を「遠ざけて」きたのか?
勧誘への恐れ
「宗教」と聞くと、「一度巻き込まれたら抜け出せないかも…」という不安感がよぎる方は少なくないでしょう。世の中には、カルト的な団体や強引な勧誘の話があふれていますから、つい「うわ、関わりたくない」と身構えてしまいがちです。ショーンくんはまさにこのタイプでした。
“知らなければ巻き込まれない”戦略
その結果、「とにかく関わらなければセーフ」という姿勢になることも。でも、実際どうでしょう? そこには、「知ってしまうと洗脳されるかも」という誤解がある一方で、“よく知る”からこそ怪しいものとそうでないものを見分けられるようになるという見方もあります。
ポイント
「興味を持つ → 勧誘が怖い → 結局、何も知らないまま」
となりがちですが、ほんの少し扉を開けてみるだけで、“カルトと本流の宗教を見分ける目”が養われる可能性があります。
コテンラジオ「キリスト教の回」が変えた視点
ドアを開けたら見えた“広大な領域”
今回の対話では「コテンラジオのキリスト教の回」をきっかけに、宗教を“深く学ぶ”面白さに気づいたという話が盛り上がりました。ショーンくん曰く、今まで「よく知らないし、怖いからいいや」でスルーしていた世界が、一気に広がる感覚を得られた、とのこと。
神との“出会い”は偶然? それとも本物?
あなたは、「人生のある瞬間に“神”に出会った」という人々のエピソードをどう捉えますか?
脳の錯覚? 単なる偶然?
いや、本当に神が導いてくれたんだ!
いずれにせよ、「説明しづらい体験」を自分自身がどう受け止めるかで、宗教に対する姿勢が大きく変わるという結論に。
ポイント
触れない方が安全 vs. よく知ることで怖さが和らぐ
どちらも一理ある。しかし、“正しく知る”ルートを手に入れると、思ったより怖くなくなる場合もある。
「神を感じる」という感覚
今回の対話中に、ビジネス哲学芸人(僕)が語った「神の感覚」は、いわゆる世の中一般の神様像とは少し違っていました。
人格神とは違う
「空の上にいる白ひげのおじいさん」「キリスト教的な三位一体的な何か」ではなく、もっと漠然とした世界の根本法則や本質のようなものを感じる
“信じる”より“感じる”
「僕は神を信じます!」と決意するのではなく、自然と「そこに在る」ものとして無意識に実感してしまう
大いなる恵みへの感謝
「なんか自分、めちゃくちゃ恵まれてるな……」と気づいたとき、「これは偶然とは言い切れないのでは?」という考えに至り、“神の加護”というフレームワークが浮かぶ
これは「他者から押しつけられた教義」とは違い、「自分の人生経験を解釈すると、神の存在を感じざるを得ない」という内発的プロセス。言い換えれば、「あれ、ただの運じゃ片付けられないかも…」と直感した時に、自然と“神”のフレームを採用している状態です。
宗教を学ぶ=正解を押し付けられること…ではない
押し付けが苦しい理由
宗教が嫌がられるの理由の一つが、「これが唯一の正解だ!」という押し付け感。「こうしないと地獄に落ちるわよ!」と言われると、そりゃ引きますよね。
でも、本当は“解釈の豊かさ”が魅力
一方で、世界の歴史や哲学、伝統の中に深く根ざしている宗教は、さまざまな解釈のレイヤーを持っています。「自分はどこまで取り入れるか」を自由に選びとることだって可能なのでは?
“自分にとって都合がいいところ”だけ採用
ビジネス哲学芸人曰く、宗教の使い方としておススメなのは、「三位一体とか小難しい要素はあまり考えないで、自分が心から納得できる部分だけを採用する」スタイル。これって、ある意味、学問や哲学と少し似たようなアプローチかもしれません。
感謝と囚われ:共通するのは“認知力”
感謝とは「すでに受け取っているもの」に気づくこと
たとえば、「自分がいかに多くの恵みを受け取っているか」を認識したときに湧いてくるのが感謝。逆に、それを“ゼロ”だと認識していれば感謝は生まれません。
“囚われ”も認知・解釈がカギ
何かに苦しんでいる人が、その重荷の正体や構造を自覚したら「あれ、意外に抜け出せそう…?」と気づくかもしれない。「自分がどのような視点を採用するか」で見える世界はガラッと変わるのです。
ポイント
感謝も囚われも、本質は「自分がどう認識しているか」
宗教的なフレームが、感謝を深めたり、囚われを解くヒントになったりする可能性もある
まとめ:押し付けでなく、学びのツールとしての「宗教」
宗教を遠ざける理由
勧誘・カルトが怖い
わからないものへの抵抗感
それでも“ドアを開けてみる”メリット
周囲の文化・人々をより深く理解できる
「どうして自分はここにいるんだろう」「どう恵まれてるんだろう」といった根源的問いに対する解釈が広がる
正解主義ではなく、自分なりに取り入れる
宗教は“人生を解釈するOS”みたいなもの
完全に丸飲みインストールする必要はないし、押し付けられて苦しくなるなら距離を取ればいい
ただ、もし自分の中にモヤモヤを抱えているなら、「宗教から学ぶ」という手段を選択肢に入れるのはアリでは?
囚われを外して、感謝を感じる
人が苦しんでいる“囚われ”をどう解きほぐすか、視点を変えられるか――それも宗教が扱うテーマの一つ
大いなる力や神を「感じる」人は、特別な存在というより、認知力を使ってそこに意義を見出している可能性が高い
「宗教という看板」に縛られず、あくまで自分の人生を豊かにするツールの一つとして捉える姿勢が大事
ポイント
カルトの危険性が気になるなら、むしろ歴史ある宗教の“本流”を複数比較してみる
「学問」や「人生解釈のOS」として宗教を取り入れる発想もあり
感謝や囚われをめぐる問題は、結局「認知力」がカギを握る
結局、宗教ってどう向き合えばいいの?
「怖がって遠ざけるか、無批判に染まるか」の二択じゃなく、“学ぶツール”として使うのも手だ――これが今回の対話が導いた一つの答え。確かに敷居は高いかもしれません。でも、一歩踏み出してみると、意外なほど世界が広がる。
もちろん、人によっては「やっぱり苦手だな…」と思うかもしれないし、「今はまだタイミングじゃない」と思うかもしれません。それでも、もしあなたが心のどこかで「なんで自分はこんなに恵まれてるんだろう?」「なぜあの人はあんなに苦しんでるんだろう?」といった深い問いを抱えているなら、宗教の考え方や歴史をちょっとかじってみるのも面白いかもしれません。
「押し付けがましくない宗教理解」――そんな新しい扉が、あなたの人生にどんな彩りをもたらすか。怖さと興味が入り混じるこの微妙な心理、その先には意外と豊かな景色が待っているかもしれません。
さあ、あなたはどう感じますか? 「いや、それでもやっぱり距離を置きたい」という声もOK。でももし、「少しのぞいてみたい」という好奇心が湧いたなら、ぜひ一歩踏み出してみては――きっと、新たな学びの旅が始まるはずです。
こちらの記事の、元となった対話音声はこちら↓
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