エスプレッソの文句が多すぎるイタリア人に疲れてきた
僕は本当にイタリア人なのか、疑問に思う。イタリアでの生活ができなくなった気がする。
日本に来てからどんなことがあってもチャレンジして、失敗しても勉強の気持ちを忘れず、成長していく毎日。文句を言う暇なんてなくて、元気に生きているだけでいいことだらけだと思っている僕は、間違っているのか。この考え方は僕だけなのか。
今日は晴れている日に雷が落ちたような出来事あった。
朝は金沢市内にある大好きなカフェに行った。キャロットケーキとアメリカンを頼んでカフェの空間を楽しみながら執筆の仕事をしていた。何気ない日常で特に問題ないように見えるかもしれないけど、ここから雷が連発で落ちてきたのだ。
具体的に言うと、この雷はイタリア人観光客団体だった。一気に10人以上お店に入って、10人中5人が僕と同じテーブルに座った。彼らからは驚きの言葉が聞こえてきた。そのカフェの文句が始まったのだ。その文句たちは、まるで雹が降って体に当たるように、僕の心に痛みとなって降ってきた。
そのカフェのコーヒーや料理、スイーツが個人的に好きだし、お客様がいつも多い。外国人も割と多くて、みんな特に問題なく美味しそうに食べながらおしゃべりして楽しんでいる姿を何回も見た。でも、同じテーブルに座ったイタリア人はずっと文句だった。
そのイタリア人たちはエスプレッソを頼んで、待っている間「まだ?」「こんなに時間かかる?」の会話から地獄が始まった。
少しずつエスプレッソが出てきて一旦、安心したような顔だった。もしかしたら行けるかも?ここからいつものように砂糖をたっぷりを入れてスプーンで丁寧に混ぜた後に、やっと飲む瞬間。イタリアでよくある風景でほっこりしそうな僕はやっぱり、心が折れた。
一口飲んで、約500円の価値がない。もう一口飲んで、これをイタリアに出したら100円の価値もない、と。酸味が強すぎてこれはエスプレッソじゃない。量も多くてクリーミー感がない。「エスプレッソを頼んだはずなのに」。
このような会話を聞きながら、悲しみと怒りが同時に襲ってきて、僕の精神は危険な状態になっていた。
エスプレッソはその時その時で楽しく味わって、新しい味と作り方を学ぶのは普通だと思っていた。でも、イタリア人にとっては、少しでもコンフォートゾーンから出ると、自分の知識以外を認められなくなってしまう。自分が専門性を持っているように振る舞い、格好をつけて個人的な好みを並べるのだ。
せっかく旅行に来ているのだから、イタリア現地でいつも飲んでいるカフェと比べずに新しいコーヒー文化を楽しめばいいのに。いちいち文句を言うならイタリア国内の旅行をすべきだし、よく考えたらイタリア以外の世界中でコーヒー文化がどんどん進化している中で、「世界一美味しいコーヒーはイタリアだよ」というプライドは何の意味があるかわからない。
エスプレッソだけの話ではない。1人は抹茶ラテを頼んで、運ばれてきた時に「緑のカプチーノになっている。これはカプチーノだぞ」と言い出した。その後イタリア人の仲間は、こんなに時間をかけてただのカプチーノなの?と、もう止まらない。ここまで聞いて僕はもう爆発寸前だ。
イタリア人はなぜ文句が多いかというと、マイナスの会話が好きだから。文句が好きなのだ。日本語の良い諺に「無知の知」があるけど、彼らはただの無知。だからこそ、悪口などの会話が止まらない。個人意見だけど、これがイタリアという国の大きな問題だと思う。とりあえず、悪口。相手の失敗に喜ぶ。相手の成功に嫉妬して悪口。この部分だけ、イタリア人として恥ずかしいと感じてしまう。
エスプレッソの話もそう。不味くて死ぬほどではなく、普通に問題なく楽しめる味、文化の違いを大切にすればいいのに、ついつい文句が出る。せっかく日本に来ているから、日本の文化に集中してここでしかない体験を楽しめば、最高の思い出になるはずだ。
同じテーブルにいたイタリア人5人は、お店を出るまでずっと文句だった。
文句のエネルギーはとにかく、もったいない。もったいなさすぎて、日本にこのようなマイナスの気持ちを持ってきて欲しくないと感じた。
よくよく考えたら、イタリアを出る17年前までは、僕もそうだったのかもしれない。母国を出て異文化の扉を開け新しい世界に触れることで、学び受け入れて楽しむ心を育んだのだと、17年ぶりに改めて気がついた。
イタリア人同士でお互いのことを理解できない僕は、一体何をすればいいのかと考えながら、ホットアメリカンを飲んでいた。
Massi