学生服を着た先生がいた。50余年前、広島。足跡をたどった。
名は武永健一郎 離島の洞窟で
半世紀前にもらった古い手紙が引っ越し荷物の中から何通か出てきた。すっかり変色したはがきや封書には、宿題へのアドバイスや内緒話が書いてある。「あんまり参考書を丸ウツシにしたらバレるぞ」と作文指南までしてあった。
差出人の名は「武永健一郎」。私立修道中学校(広島)の1年の時に習った地理の先生だ。
当時はまだ大学院生で、学生服のまま教えにくることもあった。中2になると学校に先生はもういなかった。手紙には「修道はクビになっちゃった」とある。
文面から考えると、退職後にも手紙のやりとりをしていたらしい。年の若い先生に中学生がなぜか懐いて、先生のほうもかまってくれていたようすがうかがえる。
存在さえ忘れていた古い手紙を前にして、発掘した遺物から過去を読み解く考古学者みたいな気分になった。辞めても手紙をくれた武永先生はいったいどんな人だったのか。その後の人生はどうなったのか。退職してひまになった私は調べてみることにした。
沖縄の離島の洞窟で先生は亡くなっていた。32歳。新婚半年だった。
先生からもらった手紙。1965.8.26の日付がある
半世紀前の5通の手紙
手元に残る古い手紙は、年賀状2枚を含むはがき4枚と封書1通。ちょっと癖のある幅2~4ミリのていねいな文字で綴られている。
中1の3学期にあたる1965(昭和40)年2月のはがきは「僕は腹がへらないよう冬眠中です」という書き出しのあとにアドバイスが続く。『日本の工業』のこと困ったことでしょう。まず第一に分かりやすくくわしい参考書を買うこと。ちょっとむづかしいかも知れませんが高校用の旺文社『人文地理の要領』などがよいでしょう」とある。
レポートか何かの宿題でも出て、何をどう書いていいのかさっぱり分からなくて、中1の私は手紙で先生に泣きついたのだろう。はがきはその返答で、320字ほどしたためてある。「丸ウツシにしたらバレるぞ」という忠告はこのはがきにあった。
中2の夏には、約570字の封書が届いている。「御誕生日おめでとう」と始まり、「せっかく心配してくれてるんだからマレーシアについて本当のことを教えてあげよう」と続く。
「昨年冬6人で行く予定で準備を進めていたのは君のご存知の通り。しかし資金が集まらずお正月頃には『延期』ということになった」。地理研究の現地調査と思われるが、計画ははかどらなかったようで、「そう説明したけど修道はクビになっちゃった」とのことだ。
雨季を避けて延期を繰り返すうち仲間の士気はしぼんだが、「新聞に出たりした以上また寄付を2万円もらった以上、このままではすまされない。だから僕は行きます。12月~1月に」と単独行を表明している。
マレーシア・タイ・カンボジア・南ベトナムをめぐる計画だが、旅費も乏しく「ベトコンに殺られるか、オイハギに荷物をやられるか、いずれにしても5~7割までは日本に帰国できないのではないか」と冗談交じりに書いてある。
ほかの手紙は、鉄人28号のイラストがある年賀状や台湾から届いた絵葉書など。読み取り可能な消印は1965~1967年だ。手元に残る資料はこれで終わりである。
はがきは4通あった
生塩睦子さんら妹2人 研究者の道へ
先生のことで何かわかることはないかと修道中・高校の事務局に問い合わせた。記録が残っていないので非常勤講師だったのではないかとの回答だった。
名前をキーワードにネットで検索すると『地理科学』『地理学評論』などの記事に「琉球列島中部地域における後氷期の海水位」「沖縄南大東島の池沼と地下水」などの論文がヒットした。沖縄の島々をフィールドに地形の研究をしていたのだろうとおぼろげながら想像される。
中国新聞の記事もヒットした。広島経済大学名誉教授で琉球方言研究者の生塩(おしお)睦子さんに佐田尾信作・論説副主幹(当時)が聞くインタビュー記事「『言』 奥底の思い 伝えるために」(2014年8月13日)だった。
「島言葉の復権」をテーマにしたこの記事の中で生塩さんは「サンゴ礁地形の研究者だった兄武永健一郎の影響もあって、とにかく沖縄へ、と思い立った」と語っている。佐田尾さんに仲介をお願いして生塩さんに連絡すると、やはりあの武永先生に間違いなかった。
沖縄県伊江島へ2020年現在で56年間かよって島言葉を今も記録している生塩さんは「琉球の方言に私が関心をもつきっかけとなったのは兄健一郎でした」と話す。
そういえば、中1のときにもらったあの手紙のしめくくりは、「チュラカーギ」や「ニービチ」「ユクシ」といった琉球の言葉を織りまぜて書いてあった。生塩さんに読み解いてもらうと「美人の恋人がいないので結婚できません。嘘じゃないよ」という意味だった。
生塩さんによると武永先生は、歯に衣を着せぬところがあったけれど人に好かれるたちだったという。ひととなりを教えてほしいとお願いしたら、とくに仲のよかった妹が詳しいとのこと。3人きょうだいの末妹の武永尚子さんと連絡がとれた。
武永尚子さんは、中国語と中国現代文学を二松学舎大学などで教えた元教授。進路を決めるきっかけとなったのは姉の生塩さん同様、兄の健一郎さんだった。兄に同行して台湾への巡検に参加。それがきっかけとなって台湾の故宮博物院と縁ができ、のちに同博物院で青銅器の研究を3年間続けた。
妹・武永尚子さんが振り返る兄
健一郎さんの人となりを尚子さんに振り返ってもらった。
それぞれ3歳ちがいの3きょうだいは幼いときに終戦を迎え、中国東北部(旧満州)から広島へ引き揚げた。親戚も引揚者だったり原爆で焼け出されたりして誰も頼れず、小学校教員をしていた母の給料が頼りの生活は苦しかった。
高校受験のとき、修道にも合格したが国泰寺高校に進学。「力試しのために受験しただけだからと兄は言っていましたが、妹2人のことを思うと私立には行けなかったのでしょう。我が家にもう少しお金があったら、あなたの先輩になっていたかもしれませんね」と尚子さん。幼い頃から病弱で、せきや鼻血に苦しんでおり、大学受験もインフルエンザによる40度の熱を押して出かけた。おとなになっても発熱や下痢はよくあったという。
方向感覚にすぐれていたせいか危険なことをやりたがったといい、真っ暗な鍾乳洞でもどんどん進む。それでも、地上のどこに当たるのか、現在位置を的確に把握していたという。高いところも好きで、製糖工場の煙突にひょいひょい登り、てっぺんで「見上げてごらん夜の星を」を熱唱した。
工場の煙突に登って歌をうたった
地図や時刻表を見るのが好きで、地理の道に進んだことは自然な成り行きだった。大学生になると日本中を飛び回っていたといい、身のまわりにはないサンゴ礁に魅力を感じていたのではないかと尚子さんはいう。
【コラム】武永尚子さんから見た兄
「何でもできるスーパーマン」
ふだんは一緒にソフトボールや卓球をやったり、テレビを見たり、唱歌や歌謡曲を木琴や縦笛や横笛で奏でたり……。兄はビートルズやベンチャーズが好きで、広島の本通りで偶然撮ったベンチャーズの写真を見せて自慢していました。グループサウンズも好きで、スパイダーズやワイルド・ワンズの公演にも行っています。よき遊び相手でした。
勉強のことでも、試験前日になってわからないところを聞くと、英語でも数学でも化学でも必ず答えを出してくれました。忙しいからと断られたことはありません。妹の私から見た兄は、なんでも当たり前のようにやってしまうスーパーマンのような気がしていました。
大学1~2年ごろの武永さん。キャッチボールをよくしていた
1971年 琉球大の講師に
先生がつくった履歴表も見せてもらった。自身の結婚式で貼り出したものという。
五日市中学校・国泰寺高校をへて広島大学教育学部へ。進学した同大学院文学研究科で研究活動のかたわら祇園高校や幟町中学校、文化女子短大など広島の学校で非常勤講師を務める。修道中学で非常勤講師をしたのは25~26歳のときだ。博士課程を終えて鈴峯女子短大の講師となり、1971年4月には琉球大学教養部の専任講師となった。
武永先生はその前月、後輩の女性と結婚したばかりだった。沖縄へは単身赴任だったようで、夫婦がともに暮らした期間は3週間に満たなかったという。
自身の結婚式で掲出した自作経歴表の一部
現地・南大東島に今も顕彰碑
亡くなったのは、結婚や赴任の約半年後の1971年9月8日。32歳だった。
広島から南1000キロの沖縄県・南大東島は周囲20.8キロの離島だ。ラジオの気象通報にも登場する島で、那覇から船だと13時間かかる。島にある洞穴「具志堅洞」で調査中に武永先生は亡くなった。
武永先生の恩師の地理学者・西村嘉助さんは、その時のもようを追悼文(注)のなかで次のように記している。洞穴は奥行き十数メートルで、屈曲があり水をたたえていて、測量するにも暗い中を泳ぐ必要があった。武永先生は巻き尺を持って泳いでいったが、そのまま帰らず、2時間あまりの捜索の後に深みで見つかったという。
※注:没後、武永健一郎遺稿出版委員会によって刊行された遺稿集『珊瑚礁地域の地形-沖縄および奄美諸島-』(1973年、)に収録された「武永健一郎君を憶う」
亡くなって間もなく、洞穴のそばに顕彰碑ができた。建立の式典に生塩さんも参列した。碑では今も、武永先生を知る人たちが掃除をして線香を手向けている。そのひとり伊波清英さんは武永先生との出会いを今もよく覚えている。
「水質調査をしたい、地形を調べたい、ついては手伝ってほしいということで、島中をいっしょに測量しました。そのとき私は測量技術を教えてもらい、のちに村役場に入って土木の仕事をするようになりました。武永さんの研究は村の基盤を整備するうえでおおいに役立っています」
1964年に始まった武永先生と伊波さんのつきあいは数年に及んだ。「直接知る人はほとんどいなくなりましたが、役場の職員だった人たちとともに今もお供えをして遺徳を偲んでいます」と伊波さんは電話で話した。
前出の恩師・西村さんの追悼文によると、武永先生の研究は、珊瑚礁地形の解明と島の地形誌の記録が中心で、対象区域は南西諸島から台湾北部に及ぶ。休暇をつぶして南の島へ通い、10年余で1000日を越えて現地調査に費やしていたと推測されるという。
広島県内の地形調査も手がけた。追悼文で西村さんは「彼の一生はまことに充実したものであった。南西諸島の地形研究の礎石を築いたといえよう」とたたえている。
地理学者・堀信行さん「登山靴を1年で履きつぶせ」
東京都立大学名誉教授で奈良大学教授も務めた地理学者の堀信行さんは、広島大学で武永先生の5年後輩に当たる。
南の島々を舞台にした現地調査や中国山地の巡検に参加しては、武永先生に質問をぶつけたものだった。在学中、武永先生が組織した地形研究会に加わり、『地形研究』という雑誌の発刊も手伝った。
「亡くなるまでの10年ほどのお付き合いでしたが、中身は濃密でした。島や山を一緒に歩いたり見たりした経験はその後の私の研究人生にとても役立っています。武永先輩への思いは格別です」
堀さんは、武永先生が呼びかけた現地調査に大学2年のとき初めて参加し、その後も調査に同行するようになる。あれこれ質問を繰り出し、調査を進めたい武永先生から「しばらく黙れ。そんなことより今はここを測りたいんだ」などとよく叱られたという。『ナショナル ジオグラフィック』日本版デシタル版(2011年10月)も2人のそのエピソードを紹介している。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20111006/286479/?P=3
堀さんの研究は、世界中のサンゴ礁のタイプと分布を調べてその違いがなぜ生まれたのかを明らかにするとともに、氷河期と間氷期で熱帯海域がどう変わったのかを解き明かすというものだ。のちには、アフリカの熱帯地形の研究にも手を広げ、人の営みと自然とのかかわりまで研究対象とした。
堀さんは「アプローチが違っていました。私はまず全体を知りたがる。武永さんは逆に、部分を一つひとつ丁寧に積み上げていく。初めから安易に全体を見渡すような、大風呂敷を広げるようなことをするなというのが自戒を込めた武永さんの厳しく謙虚な姿勢でした」と話す。
山ではくキャラバンシューズを1年で履きつぶせという合言葉もあった。「現地に学べという意味合いだったのでしょう。広島の山々や海岸を歩き、地形をさまざまに観察して議論しあったことがのちの私の研究にどれだけ役立ったことか」と堀さんは振り返る。
一人前の研究者となったのちも研究室にこもっていると「お前は何をやっているんだ。現場へ行け」という武永さんの声が頭のなかで鳴り響いた。集めた海図をもとに地形計測の作業をしているときはとくに「いやいや、こういう研究もあるはずだ」と心のなかで先輩と対話していたという。
「だからよけいに、サンゴ礁の地形計測による学位論文をお見せしたかった。武永さんが生きていたら何とおっしゃるだろうか。『おまえらしいやり方だな』と言ってくださるとうれしいのですが」
武永先生の訃報を堀さんは、調査のために滞在していたケニアの海岸で聞いた。ウエットスーツやシュノーケルを用意していよいよ初めての潜水をするという日に電報が届いた。思いも寄らない知らせにあまりのショックで体は震え、調査を中止して冥福をただただ祈ったという。
武永先生が亡くなった南大東島は環礁が隆起したサンゴ礁の島で、地下も地表もすべて石灰岩でできている。地層を調べれば、サンゴ礁の成り立ちを時代ごとに探ることができ、とりわけ鍾乳洞は、まるで包丁で切ったケーキのように内部の地層が露出している。そういう島は世界でも珍しく、研究にはうってつけの場所だった。
「サンゴ礁のすべてをここでなら研究できると武永さんは着目しました。調査が困難だった復帰前の沖縄で、研究例の極めて少なかったサンゴ礁地形の研究に取り組むという開拓者精神も大いにあったはずです」と堀さんは推測する。
地元の琉球大学が教員として招いたのも、武永先生の研究に期待をかけたからに違いない。
【コラム】堀信行さんから見た先輩
「ノートが見事だった」
野外で観察し、そこからいろんなものを引き出していくわけですから、地理学の研究者にとってフィールドノート(野帳)はすごく大切なもので、武永さんのノートは何とも見事でした。美術的なセンスだけでなく本質を読み取る能力の要るスケッチも、ポイントを見逃さず書きとめ、説得力がありました。周りの私たちが真似をしたくなるような書き方なので、その影響を受けた後輩も多くいます。後輩のノートを見れば、その影響ぶりがすぐわかるほどでした。
特徴を言い当てて自分なりに用語を作り出す才にも長けていました。たとえば「箱型の谷」というのもそのひとつかと思います。深く切れ込んだ谷の底が平らになっている地形が広島には結構あるのですが、花崗岩の風化と関係する谷の成り立ちも見抜いたうえで「箱型の谷」と表現したものです。現場から生み出した武永さん用語がいくつもあって、我々だけの「方言」が成り立っていました。
橋幸夫や舟木一夫などの流行歌も新曲をいち早く覚え、山を歩きながら歌って私たちを驚かせたものでした。
歴史学者・田中誠二さんにとっては「兄貴」
毛利博物館(山口県防府市)の館長を務めた山口大学名誉教授で歴史学者の田中誠二さん(日本近世史)は若いころ、武永先生のことを「兄貴」と慕っていた。小学4~5年生のころ家庭教師をしてもらい、修道高校に進んだとき非常勤講師の武永先生と再会した。
クラブ活動で社会班に所属していた田中さんは、「巡検」と呼んで日曜ごとに出かけていた「兄貴」の山歩きに高校生ながら大学生に交じってたびたび参加したという。
大学進学時のエピソードも「兄貴」から聞いた。兄貴は、志望していた東大理系を家庭の事情で受験できず、担任の先生がひそかに願書を出していた広島大教育学部に入学し、自然地理にのめりこんだ。アメリカ統治下の沖縄にまで当時はなかなか行けなかったため、与論島に通ってサンゴ礁の研究をしていたという。
「人間、やってみれば何でもできるものだ」と話す先生の笑顔を覚えている。無鉄砲なところもあって「いざというときのために崖から飛び降りる練習をして足を痛めた」との話も聞いたという。
「巡検にいくと、地形図の切れ端に図を描いてよく説明してもらったものです。おかげで研究というものがいかに楽しいものかイメージできた。小学生と高校生の時に兄貴と出会えたのは幸運なことだったと思います」
武永先生は地理、田中さんは歴史と専門分野は異なる。「しかし、資料を用いてそれを読み解いていく楽しみは変わりません」。学生を教える立場になった田中さんは、学問や研究の面白さ、楽しさを伝えることに心を配ったという。
自身の結婚式で
半世紀が過ぎて
1951年に私は生まれた。今では、武永先生の亡くなった32歳の2倍以上も歳を重ねている。中学の同級生数人に「武永先生を覚えているか」と聞いてみた。
弁護士となって沖縄に住み着いた三宅俊司くんは、武永先生が出題した地理の試験を覚えている。「広島カープに入団する安仁屋選手が九州を飛行機で縦断するという設定で、桜島や阿蘇山の地形を問う問題があった。やさしそうな雰囲気が印象的だった」という。その後の消息を聞いた三宅くんは「南大東島で亡くなっていたのですか」とメールで返事をくれた。
同窓会の近畿支部総会で会った網崎修くんは武永先生のことをよく覚えていた。「中1のときに確かに習った。ときどき学生服で教えに来ていた」
妹の尚子さんから提供してもらった資料の中に学生証の写真がある。大学院博士課程のときのもので、写真の中の先生は学生服を着用している。この格好で中学へ教えに来ていたのだろう。
網崎くんは「どこそこへ行ってきたという話を授業でよく聞いた。海外に行ってみたいと思うようになったのは先生の影響だった。あと1年でも長く先生の授業を聞いていたら、地理の道へ進んだかもしれない」と振り返る。
退職にあたって武永先生が生徒に語った言葉も鮮明に覚えていた。「君らは恵まれているのに、なんで勉強をしないのか。もったいない」。苦学した先生から見たら歯がゆいことだったのだろう。最後の授業で先生はそう言ったという。
同じクラスで同じ授業を聞いていたはずの私は、その言葉をすっかり忘れていて、「ほんま、勉強しときゃよかったのう」と、半世紀を過ぎた今頃になってため息をついている。
※写真は、手紙を除き武永尚子さん提供
※修道高校卒業50周年の集まり「最後かもしれない補習授業」で同期生向けに発表したいと思い、この作文をまとめました。2020年8月に予定されていた集まりが新型コロナウイルスの影響で延期となったため、noteで公開します。
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