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背伸びか否か

先日、人生で初めて『文藝春秋』を購入した。文藝春秋とはその名のとおり、文藝春秋社が出版する月刊の総合誌である。今回は文藝春秋を買って思ったことをつらつらと書く。

毎度思うが「人生初の~」という書き出しで記事を始ることに快感を覚える。私自身のテーマとして「新しいことをしてみる」というものがあるからだ。常にアンテナを張って自分に刺激を送り続けるよう心掛けている。ただし、これは「新しいことをしてみる」であり「新しいことを始める」ではない。

巷ではよく「三日坊主」とか言って、新しく始めたことをすぐに中断すると非難にあうことがある。だが、これは正しいのか。新しく初めたことが自分に合わないということも大いにあり得るだろう。「百聞は一見に如かず」というように、何かを実際に始めると思っていたのとは違うということは十分にある。時間は有限だ。

そうすると、「三日坊主」の問題点は「新しく始めたことをすぐに中断すること」にあるのではなく、「新しく始めたことを中断して、次の新しい何かに取り組む姿勢が見られないこと」に問題があるのだと思う。なので誰かに「三日坊主」と言われてもそれは気にせずに、自分で「見切り」を付けたと胸を張ろう。ただし、すぐに自分に合う、有益なものを探そう。そうすれば三日坊主ではなくなる。


話を戻すと、文藝春秋のような総合誌は今までも書店で何度も見てきた。名前も知っていた。それでも一度も手に取ったことが無かったのは、「年配の人がその暇つぶしに読むもの」という認識があったからだ。確か、祖母の家にもあったような気がする。

そんな読まず嫌いの総合誌を手に取ったのは何とも下品な理由だ。友人と芥川賞受賞の『ブラックボックス』を読もうとなって、共に書店へ行った。するとブラックボックスの単行本(約1700円)と隣にブラックボックスが全文掲載された文藝春秋3月号(1100円)が並んでいた。どちらを買ってもブラックボックスは読めるので、どうせなら安くて他の記事も読める文藝春秋を買おうということになった。そんな貧乏な思考から文藝春秋を購入したのだ。『ブラックボックス』についての主の記事は以下。


文藝春秋はオトナの読み物だとずっと思っていたので、買った日にはとてもワクワクした。紙はいかにも雑誌というザラザラした感じで週刊少年ジャンプのような匂いがした。帰りの電車からすぐに読んだ。

私はもっと「芸能人のことばかり書かれている」と思って敬遠していた部分もあったが、実際に読んでみると様々な論客やライターの記事が掲載されていて、知的に楽しむことが出来た。私は『週刊文春』と混同していたようだが、それは違う。活字好きや知識人層の好奇心を満たす、上質な文章かつ、興味をそそられるトピックが集められている。

ブラックボックスはもちろん読んだが、他にも「リニア新幹線」「皇室」「ネットフリックス」など、知っておいて損はないテーマばかりだ。やはり、ネットニュースとは違って、その道のライターが書いた確かな記事は勉強にもなるしアイディアにもつながる。くだらない芸能人のゴシップとは大違いだ。特にnoteを更新していると、たまにネタが思い浮かばない時がある。そのような時に記事で見たことや、普段触れることのないトピックで記事を書くこともできる。新たな発見があるのも総合誌のよいところだと思う。

そんなことを考えながら、文藝春秋のザラザラした紙面に印刷された文字を追っていると、自分が改めて「活字好き」なのだと認識した。読書好きな人は多くいるが、活字好きだと自称する人はあまりいない。それは単に語感的な問題なのかもしれないが、読書好きの中には必ず活字好きが一定数いると思う。無意識にそうな人も多いと思う。

読書が好きだと思っている人も、実は、小説の物語を楽しんでいるのではなく、例の軍事侵攻に関する分析の記事で勉強しているのではなく、その活字を追うこと、そしてその言葉や単語の意味を自分の中で反芻し、噛み締めること自体にすら悦びを感じていると思う。

少なくとも、私はそうだと文藝春秋を読みながら気づいた。本も雑誌も、新聞もたまに読む。駅の情報誌や博物館のパンフレット、職場の回覧にも必ず目を通す。この傾向はまさしく活字好きだと言えると思う。本が活字で構成されているのではなく、活字というセカイの中の一つが本であるに過ぎないのだ。


話は少し変わるが、不思議なことに街中で文藝春秋を読む人を見たことがない。本屋ではあんなにも売られているのに。身の周りの友人も小説やハウツー本は読んでも、総合誌や文芸誌を読んでいる人はいない。文藝春秋を含めて、それらのジャンルはどこでどんな人が購読しているのだろうか。

文藝春秋の読者層は、経営者や資産家が多いとどこかに書いていたが、本当にそうなのか。自宅で読んでいるのか、それとも運転手付きのレクサスLSの後部座席で読んでいるのだろうか。だが、仮に文藝春秋が富裕層や知識人層の読み物だとしたら、純粋に楽しんで読む私の購読は背伸びなのかだろうか。庶民である私には合致しないのか。

いや、そんなことはないだろう。例え、富裕層や知識人層の読み物であったとしても、むしろそれを読んでいることで彼ら彼女らに近づくことができるのはないかと思う。富裕層や知識人になってから、文藝春秋を買いに行くのではなく、富裕層や知識人になるために文藝春秋を読む。言わば、文藝春秋を自分を昇華させるアイテムとして利用できるのではないだろうか。

私は憧れる人やなりたい人物像を真似ることにはとても意味があると思っている。富裕層や知識人が好んで文藝春秋を購読しているのだとしたら、私も進んで読もうと思う。そして知識人にでも富裕層にでもなりたいと思う。


タバコを吸う人の最初の動機に「カッコいいから」というものがある。「あの俳優が吸っていたからそれに憧れて」という感じだ。それと私が文藝春秋を読むことは等しく同じことだ。記事や内容ももちろん楽しんでいるが、通勤電車で窓際にもたれ掛かって、文藝春秋を読むことが自分の中では「カッコいいこと」だと思っている。私にとっての文藝春秋はそんな「カッコいい」を表出してくれるモノでもある。

3月号に続いて4月号も買った。ラーメン屋のチャーハンセットと変わらない値段で様々な記事が読めるのはお得でしかないと思う。今は定期購読をするか迷っているところである。


カッコつけと総合誌


頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)