どうして自分がいわゆるマイナー言語ばかり勉強しているのか考
私が大学でトルコ語を専攻した理由は以前に自己紹介の文章でも書きました。いろいろきっかけはあったものの最終的には「日本語と似ている」というところが出発点でした。
大学では色んな外国語を学びたいと思っていたこともあり、トルコ語に関係のありそうな言語を片っ端から受講しました。
トルコ語に関係の深いテュルク諸語からは現代ウイグル語、カザフ語、ウズベク語、オスマン語、いわゆるアルタイ諸語と呼ばれる言語の中からハンガリー語、モンゴル語、フィンランド語、イスラム圏で共通の語彙の多いペルシャ語、アラビア語、その他にはトルコ語の参考文献が読めるようにとドイツ語、そしてテュルク諸語の参考文献が読めるようにとロシア語を履修しました。その他はメジャーなものいろいろ。
一見すると初志貫徹でトルコ語に関係するような言語ばかり勉強してきたように見えますが、今考えると、語学としてはもっと研究に必要なロシア語を重点的に学んでおけばよかったとか、語学ばかりじゃなくてもっと言語学の勉強に重点を置いていればよかったとか、時間のある時に教員免許くらいとっておけばよかったとか、いろいろ思うわけですが、後悔しているわけではありません。
ただ、今振り返って考えてみると自分の語学のモチベーションは、研究に必要だとか、トルコ語に関係しているというのは大義名分で、「人と違うことがしたい」ということだったのかもしれません。もっと単純に考えると「面白いことがしたい」だけだった可能性もあります。トルコ語専攻を選んだのだって元をただせばそうなのかもしれません。英語や中国語を学んでも一番(何の?)にはなれないし、誰からも面白がってももらえません。でも、トルコ語の世界に入れば入るでそこでは自分よりも上手で、文法にも精通している人がたくさんいます。もっと深く、もっと深く、潜っていくとトルクメン語を見つけました。今現在、トルクメン語が通訳ができるほどできるのはおそらく日本人で私だけです。ようやく求めていたらしきものにたどり着きましたが、その低い山の頂に立ち世界を見渡すと、ある疑問が湧いてきます。「目指していたところはここでよかったのか。」
「他の人と違うことがやりたい」という目標のゴールは「他の人と違うことをしている」になるだけで、何かを達成したことにはならないのです。私は少しの間悩みました。このままでよいのか。何かを達成せずに死んで行ってよいのかと。
しばらくしてこのようにも考えました。私は必ずしも何かを達成する必要があるのか。ただの田舎者なんだから大層なことをする必要なんてないんだと。人生終わるときに幸せだったと思えればよいではないか。
長々と書いておりますが、要は人生の岐路に立たされ、「開き直った」というだけの話です。
外国語を学びたいという意欲は今でも変わっていません。きっかけはなんであれ、この十数年の学習を通して、テュルク諸語を学ぶこと、テュルク世界と関わることが本当に好きなんだと思うからです。私が言語学の研究をしているのも言語全てを包括できるすばらしい理論を考えることのような大層な理由ではなく、テュルク諸語をより正しく理解すること、その学習自体に楽しさを感じているからなのです。
お金にもならないかもしれない、万人には役に立たないかもしれない、それでもテュルク諸語をはじめとするマイナー言語を学ぶことは私にとって大事なことなのです。
他人と違うことをしているってことをアイデンティティとしてもいいですよね。