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【ひなフェス2025】縁起誕生譚

『蛭子ト申ハ、二神ノ三男也。是ハ火神也。火ハ礼也。礼ハ物ヲ敬フ義也。
 今、是ノ蛭子生レテ骨無シテ練絹ノ如シ。
 二神是ヲ海ニ打入玉フ。
 龍神是ヲ取奉テ天神の御子ナレバトテ養子トス。』

    古今和歌集序聞書三流抄より一部抜粋

ヒルコにとって揺れる水音は無音と同義であった。

ヒルコは親の顔も知らぬ、その目はうつろにぽっかりと穴が開いたまま、眼もなく無を見つめることしかできぬ。己の体を揺らすその振動は、その身を目的地もなく運ぶ舟の揺れだとつゆ知らず、ただ母の揺らす揺りかごだと信じるのみ。父や母に伸ばす手もなく、また体を支える骨すらないため寝返りすら打てず。

ただそこに愛があるのを信じ、遠い悠久の時を流されていた。

あるとき水の揺らす振動がふと、ぷつりと途絶える。この突然の変化におどろき、ヒルコは声にならない声を上げた。声帯の無きその喉元から、ひゅう、ひゅう、と風の音が鳴る。

「おや、泣きたいにも泣けぬか」

ヒルコを覆うのは、柔らかい布の感触と、その布を支える手の、ささくれた鱗の波。この違和感の正体がわからず、ただ恐怖のみがヒルコを支配する。

「かわいそうに、私たちの子にしましょう?」

優しい声だった、しかしヒルコには聞こえない。闇の中、しかし揺れる二つの炎が見える。

「同じことを考えておった」

天からの恵みか、いや、異なる。
天の神にも捨てられたヒルコを愛する二柱の龍神がいた。

「なんて素晴らしい竜の輪であろう、きっとはかり知れぬほど尊き子に違いない」

「きっと私たちに幸せを届けてくれますね」

ここは地上とは異なる歴史と時間が支配する世界、この地でのちに『縁起の国』と呼ばれる国ができるまでの物語が始まる。

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地の奥の果てにある空洞、そのさらに奥に、ひとつ、ぽつんとたたずむ御殿がある。

「エビスサマ!がんばれ、がんばれ!」

「いっぱいいっぱい、福を集めてね!」

静かな御殿に、はしゃぐものたちがいる。そう、物だ。
三色のかわいらしい菱餅がおぼんの上で跳ねている。ぼんぼりは顔の中に炎を揺らしながら、がしゃんこがしゃんことうるさく跳ね、女乗物ははしゃぐ仲間たちを見て静かに、池の先に垂らされた糸の先を眺めている。

御殿の中の池に、釣り糸を垂らす貴人がいた。貴人は釣り針の先に何かきらめいたものをひっかけると、それを手に取り、袋の中へとしまっていく。

「エビスサマ、うまい!すごい!」

「あ!おだいりさま!エビスサマがたっくさん福を集めてくれましたよ!」

物たちの視線の向こうにはやたらに首の長い、龍神の姿があった。間延びした顔の、その口角は上がり、にこりと道具たちの言葉に笑顔を返している。
彼はこの御殿の主人であり龍の一柱、次郎左衛門……そんな名はついてはいるが、物たちからは「おだいりさま」とよばれている。

「恵比寿さま、ここにおられましたか」

恵比寿……かつてヒルコと呼ばれていた彼は、その硝子でできた義眼を義父である次郎左衛門に向ける。彼──彼ではあるものの、その体は女性の形を取っている──は静かに周囲の物たちをその手でひと撫ですると、義父に向かって深いお辞儀を返した。性も分かたれていない不具の体は、美しい女性の人形の形にすっぽりと収まり、その中で安息の息を立てている。

「恵比寿さま、とは、ただ単にエビスとお呼びくださいませお義父さま。なぜそのようによそよそしく呼ぶのです」

恵比寿の顔はうどんげを用いた木の造りであり、恵比寿の本来のむき出しの肉の肌を囲っている。恵比寿本来の筋肉と人形の表情は連動し、自然な表情が作られる。

「元気そうで何よりです、恵比寿さまがこの御殿にいらっしゃってからというもの、天運の味方することが多々ありますのでね、貴方はこの家の……この地の福の神なのです」

この地では数多くの竜が暮らしている。その中でも小さく弱く、そして短命の竜の一派が恵比寿を拾った者たちであった。弱小の一派と言えども龍神の種族には変わらず、特殊な力を持っている。

「われらが造りしその体、痛むところはございませぬか」

「もちろん、お義父さまの人形造りの手とお義母さまの飾り付けの手は誰にも負けますまい」

恵比寿の身体は完成されていた。精巧に彫り出された顔立ちに、目は美しい朱色の硝子で作られ、その中に金の眼が描かれている。黒漆塗りの顔に金粉がふりまかれ、その顔を夜空に輝く星のように引き立てる。うどんげの木材で作られた骨の模型が下半身を囲うように支えており、幾度も磨かれ削られたその骨の形は龍の背骨のようにその身を立てる。頭に植えこまれた生糸の白色の波が、その黒く美しい顔をさらに際立たせていた。

これは次郎左衛門と雛──この御殿のもう一柱の主人であり、また恵比寿の義母であり、従者や物たちからは「お雛さま」と呼ばれている龍神──が何年もの時をかけて恵比寿に与えた最上の贈り物であった。

「お義母さまの容体は?」

「今日も変わらず……熱と悪夢にうなされております」

恵比寿は腰の付近から袋を抱え込み、急いで義母の元へと向かう。

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恵比寿──恵みと寿。それが次郎左衛門と雛がヒルコに与えた第二の名であった。ヒルコは骨も皮も、感覚も欠けた練絹の如き姿から、二柱に名と体を与えられたことで、身目麗しく、また賢く礼儀正しい神として成長した。

次郎左衛門がうどんげから削り形を作り、雛が金粉や絵付けにて飾り付けを行う。できた人形たちは彼らと寸分たがわぬ姿で、かつてはそうしてずっと身内の少なさを慰めてきた。龍神の一派といえども短命にして弱小。夫婦には一人娘がいるものの、その娘を育てるのがやっとであった。それでも娘が楽しめるようにと、様々な人形や物を作ってきた。

例えば一人娘が暇を弄ばないようにと、おままごとのための人形用の女乗物や茶弁当、貝合わせの貝たちと貝桶を用意した。夫婦は貧しかったものの、ただ娘のためならばと、その人形や物作りには手も資源も惜しむことはなかった。

そんな時に流れ着いたのがヒルコであった。

夫婦は一人娘の良き兄弟になればと、また足りない彼の体を補うために人形の体を作った。娘のために作った彼女そっくりの人形を、彼のために加工し、その蛭のような肉の集まりに少しでも合致するようにと丁寧に、磨き、作り上げた。一人娘にそうするように、自らの本当の子として手厚く愛を込めた。そうしてヒルコは恵比寿として形を与えられたのだ。

異変が起きたのはヒルコを拾って三年が経った後、恵比寿となった彼は短い年月で何もかもを理解し、会得した。夫婦の一人娘と彼が遊んでいるとき、夫婦が作ったおままごと用の物たちが勝手に、まるで命を持っているかのように話し、動き出したのだ。

それだけではない、彼らそっくりの人形たちが言葉を得て、加えて肉を得て、彼らの従者として長年そこにいたかのように振舞った。自分たちを助けてくれる一族の仲間がほしいと願って作った三つの龍神の人形は、三人官女として夫婦や娘の世話を行うようになった。静かで寂しいこの家に娯楽が欲しいと願って作られた五つの龍神の人形は、五人囃子として楽器を演奏し、夫婦と娘を楽しませた。荒れた土地でただ娘と自分たちを守るものが欲しいと願って作られた人形たちは、彼らの随身となり常に彼らを護衛した。細かい作業は仕丁の人形が肉を持ち、行ってくれるようになった。

すべて恵比寿が行ったことだと夫婦は理解し、ただ丁重に愛と慈しみをもって恵比寿に感謝を伝えた。そうして一族はみるみる豊かになり、そこに立派な御殿が立った。

そうしていつまでも幸せに暮らしましたとさ、とはならないものだ。

あるとき雛は病に倒れ、そのまま長らく命のはざまを彷徨っていた。

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「げほっ、ごほっ……」

「お雛さま!どうかお目を覚ましくださいっ!ああ……天よ、どうか彼女に助けを……」

従者が力もなく祈る中、やせ細った体を横たえて眠る龍がいる。その尻尾は細り、中を通る骨が浮き出て彼女の容体の悪さを物語っていた。
泣く従者たちをかき分け、恵比寿は彼女の元へとたどり着く。

「お義母さまっ!」

恵比寿は膨らんだ袋の中から急ぎ何かを取り出し、彼女の上にふりまいた。
きらきらと輝くそれは、空中で舞うように流れを描いたのち、彼女の口元から彼女の中へと吸収されていく。

たちまちやせ細った体は少し膨らみを取り戻すと、龍神の身体からはすっと、何かが抜け落ちたかのように、苦悶の表情は消え、すうすうと寝息を立て始めた。

「ああ、よかった、お雛さま……」

「恵比寿さま、ありがとうございます、ありがとうございますぅ……」

従者たちはそこにいる恵比寿の元に跪き、袖で涙をぬぐった。
恵比寿は黙って、今まで雛を看病していた従者たちに敬意を払うように、彼らの頭に手をかざす。そうして看病の末疲れ切った従者たちから、何かを取り除きそれを袋にしまうかのような動作を起こす。そうすると従者たちの顔からも疲労は取れ、その目に光がともっていく。

「……お義母さま」

恵比寿の目は硝子の義眼である。その目は我々のような景色を見ることはできないが、また別の景色を見ることができた。

恵比寿が命あるものの形を捉えると、そのうちに二つの揺らめきを見ることができる。一つは「福」、命あるものの幸運、健康、喜び……それらの命に良い結果を運ぶものを「福」とし、体内にきらめいた火の揺らめくさまとして見ることができる。もう一つは「厄」、命あるものの不運、病、憎悪……それらの命に悪い結果を運ぶものを「厄」とし、体内に澱むけがれた液体の貯留として見ることができる。

そうして彼の手は命あるものの「福」と「厄」を動かすこともできた。そうしてこの地で集めてきた「福」を、すべて雛に与えたのだった。

「福」と「厄」は小さな命たちにも宿る。それは名のない草花から、目に見えぬ微小な生物たちまで。そうしてその生物たちからあぶれた「福」を、恵比寿はそこかしこから集めていた。ただ義母の、雛の苦しみを取り除くために。

命あるものにのみ宿る「福」と「厄」、それを命ないものに与えることもできた。そうして「福」もしくは「厄」を与えられたものたちは、付喪神として命を持つようになる。
「福」を与えられた付喪神は優しく、朗らかな命として……「厄」を与えられた付喪神は厳しく、攻撃的な付喪神として生まれ出る。その配分をもってして、恵比寿は小さき物の付喪神と、三人官女、五人囃子、随身、仕丁など一族の従者たる付喪神──しかし彼らは与えられた「福」と「厄」が大きかったがために、生きた龍神と寸分たがわない存在として生まれ出た──を作るに至ったのだ。

そのような力を持つ恵比寿でさえ、雛の容体の悪さには頭を悩ませた。雛の身体は、「厄」をがんじがらめに複雑に絡ませていた。雛に宿る「福」はろうそくの上で揺れる頼りない炎のように……風が一つ吹けばすぐ消え去るほどに弱り切っていた。

「……かかさま?」

従者の後ろから、まだ幼い声が雛を呼ぶ。

「……ひいな」

雛とうり二つのかわいらしい娘の龍が、ただ不思議そうに恵比寿の方に目をやった。そのくりくりとした目のうちに、泣きはらした跡がある。

「ととさまが、かかさまのところいかせてくれないの、ね、かかさまなおりゅよね」

舌っ足らずのその声の、乞うような声色に恵比寿の心が痛む。

弱り切った雛は娘にその姿を見せまいと、次郎左衛門の協力をもってただ娘を部屋に閉じ込めていた。しかし母を求める娘の力は強く、ときおり父の力を振り切って母の元に駆けてくるのであった。

「……ひいな、一緒に遊ぼう、僕が遊ぶよ」

「なんで、なんでっ、かかさまと遊ぶ!かかさまとあそぶ!!」

癇癪を起こし泣き叫ぶ龍神の一人娘──ひいなを、恵比寿は黙って強く抱きしめた。恵比寿の心を痛めるのはその小さな子の、母を求める悲痛な声のみではなかった。ひいなの身体に、揺れるふたつのものがある。

金色に輝き揺れる「福」の炎と、それを覆い隠すようにたゆたう、がんじがらめの「厄」。ひいなは母の、その体質までを色濃く受け継いでしまったのである。

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恵比寿は物心つくように成長したのち、ただその天の神譲りの力を持ってこの御殿を、それのみではなく、周囲の種族をも幸福にしてきた。

それは荒れ果てた土地に眠る、かすかな「福」と「厄」の配分に始まり、その配分をうまく回すために政にも手をつけた。幼いながらに頭角を現し、やがて恵比寿と、その龍神の一派は強くその地に名を馳せた。「福」と「厄」の配分により、荒くれものや罪人から「福」を預かり、弱り切った善の心を持つものに与える。また賊が反乱を起こそうとすれば、「厄」をそのものらに注ぎ、根を上げた彼らが真に心を開くように、「福」を分け与えた。

他の土地で争い妬み嫉みあったものたちが、恵比寿の元へとたどり着く。その者たちの心身の傷に「福」を与えて癒し、また凶行には「厄」をもって罰を与えるのがこの地で求められた恵比寿の役割であった。そうして長い年月が過ぎ、この果ての空洞に住むものは誰もが恵比寿を信じ、悪は善の心へと変わり、幸せに恵比寿に支配されているのであった。

恵比寿の心を悩ませたのはただ彼の義母の、そしてその娘の体質の複雑さであった。

彼がどう手を施そうが……彼女たちにいくら「福」を与えようがそれはすぐに小さくなってしまう。「厄」を取り払おうにも厄介なほどにそれは彼女たちの体にまとわりつき、絡みつき、静かに、しかし確かにその嵩を増していくのであった。

この地を支配するうちに余った「福」をひたすら集め、雛やひいなに注ぎ込む。しかしそれは一瞬の安息をもたらすだけで、「厄」はやがてその「福」を覆い隠すようにその体を塗りつぶしていく。

何か策が必要だった、彼に愛を与えた愛しい存在たちを、救う策が。しかしそれは長いこと見つからないまま、恵比寿の心を疲弊させていくのであった。

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「え、恵比寿さまっ!!」

次郎左衛門が急ぎ恵比寿の元へと訪れる。その切羽詰まった表情に、察した恵比寿は袋を持ち、飛ぶように雛の元へ向かう。

「お雛さまあっ!しっかり!!」

「おねがいですっ、天の名だたる神よ、お雛さまの命だけは!!」

「誰か!!誰か!!!」

混乱する従者の中をかきわけ、急ぎ雛の元へと向かう。

「うっ……っ!?」

腐った肉の悪臭と、「厄」の激しい不快感が恵比寿の喉元へと届く。雛の部屋からおびただしいほどの……澱み、濁り、氾濫する「厄」があふれ出ていた。御殿を飲み込まんとする勢いのおぞましい炎が、ぐつぐつと「厄」の液体の中を煮えたぎるように勢いを増している。

「なんて……」

五感の疎い恵比寿ですら、えずくようなその激しさに感じたことのない悪寒が走る。その中を苦しくも進み、雛の元へとたどり着く。その体を支えるうどんげの骨は幾億年経てども劣化しない優れものであるものの、その「厄」の果てしなさに、体が朽ちていく心地すら覚えた。

「お、お義母さま……っ」

恵比寿は苦しみの中、その手からありったけの「福」を雛に与える。

しかし現実は残酷なもの。彼女の元へと届くきらめいた炎は、禍々しい炎に飲まれすぐに消え去ってしまう。与えてもすぐしぼむ「福」の炎に、めげず何度も「福」を分け与える。しかし袋の中の「福」は枯渇してしまった。

「……かくなるうえは」

恵比寿は自身の胸元、雛と次郎左衛門から与えられた人形の身体を一部無理やり壊すと、そこに現れた醜い肉の塊……彼本来の心臓に手を伸ばし、えぐり取る。

「……ッ!か゛はァっ……」

血を吐き、その心根の奥から彼の……天からただ彼が与えられた巨大な「福」の火種を、彼女に与えようと一心不乱にその手を伸ばす。
彼本来を構成する「福」が、雛のあふれ出る「厄」に削られるたび、抉られるような痛みと、不快感と、死の気配を感じる。

しかし恵比寿はやり遂げなければならなかった。

一度は捨てられたこの体、心、命。それを拾われた恩を今が返す時だと悟ったのだ。

「か、かぁ、さまぁっッ……!!」

澱む「厄」の中に伸ばす手は、ただ恵比寿の心を削りながらその雛の心の奥へと到達する。その手が熱い、熱い、今にも引き裂かれそうなほどのその痛みをただ耐え、恵比寿の心を雛の心へと届ける。

「恵比寿さま……いや、ヒルコ」

雛の……母の声が聞こえた。無限に続くように思われたあの揺蕩いから彼をすくい上げた、あの優しき声だった。

「かあ……さま?」

焼けただれた手を冷やすように、雛の元に残ったかすかな「福」が、恵比寿の手を受け入れている。

「私はもう長くありません、どうか、どうか自分の心を傷つけるのはおやめ、ヒルコ」

厳しくも、優しい母の声を久しく聞いていなかった。その中でも救おうと、恵比寿はただ自身の「福」を母に注いでいく。

「かあさまっ!お願いです!!生きてください!!貴女がいなければ僕は……残されたひいなはどうするのです……ッ!」

それは恵比寿の声ではなく、捨てられた赤子の、ただ母を乞う声だった。
雛の心の、ゆらめくかすかな「福」は、温かい手となって、そうして恵比寿を突き放す。

「ヒルコ、お日様のように尊い子……ただ、幸せになって……ひいなにも、どうか、幸せに生きて……と……」

「かあさま……?かあさまっ!かあさまっ!!」

遠のく意識の中、恵比寿はただ母の手に抱えられ、流れる涙を母の手がぬぐう。そうして手は彼の心臓を優しく包み込み、そうして「厄」の渦から解き放つように、彼を押し戻した。

恵比寿の視界から、尊き母の存在が消えていく。うずまく「厄」の中に母の姿が飲まれ、恵比寿の意識はプツリと消えた。

「恵比寿さまっ!」

次郎左衛門の呼ぶ声で目が覚めた。恵比寿は気づきふと次郎左衛門と従者たちの奥、その中に眠るように亡くなった母の姿を見る。

「かかさまあ、かかさまあ!」

その体にすがりつく幼子の、泣く声にすべてを理解した恵比寿は、失意の中、自身の胸に手を当てる。そこには自身がつけた傷跡と、かすかに残された、母の「福」が、心臓の奥で鼓動していた。

「……ひいなは、ひいなは……絶対に、救わなければ」

恵比寿は胸の痛みが残る中、それでもひいなの肩を優しく抱き寄せる。

「それが、かあさまが僕を生かした意味になる」

恵比寿の胸の中に残されたゆらめく炎は、ただ泣く幼子の背中を想い、静かに輝きを増すのであった。

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それから恵比寿はまるで修羅のように、何もかもを置き去りにして「福」を集めた。それは国を豊かにすることであり、どのような悪人も善の心に入れ替えることであり、つらく生きてきた賢いものたちから知恵を奪い、ただ幸福の海に沈めるのと同義であった。

かつて名のない空洞であったその土地は、やがて豊かに富み、あらゆる種族が集まり、傷ついた者たちを恵比寿が一人残らず幸福にした。体を戦で大半失ったものでさえ、恵比寿と次郎左衛門たちの手により新しい仮の体……多くは「福」がより多く集まるようにと、縁起の良い道具たちの姿を与えられた。そうして新しい名を与えられ、本来の名を忘れるほどに、その地で幸せに暮らし、己の不幸を忘れ、「福」を生み出し続けた。

命が集まればやがて国となり、組織が生まれるのが常であるが、この国はその点においては異常だった。

何もかもが恵比寿の手のひらの上で行われている、政に関しても監督する組織などはない。それでいて恵比寿のみが作った制度が「福」と「厄」の分配によってうまく機能し、この国では悪事が全くと言って良いほど起こらなかった。一族を護衛するために作られた随身たちは、ただ暇を持て余すために、ひいなの良き遊び相手としてその役割を変えたほどであった。

幸福にまみれ知識のいらないこの国で、なおも知識や力をもって恵比寿に協力しようとするものも現れた。それはこの土地に古くから住まう神の種族たちで、恵比寿の徳の強さゆえに惹かれたものたちであった。恵比寿はそのものたちに、ひいなの体の仕組みの解明を手伝うよう依頼した。

そうして明らかになったのが、ひいなの、彼女の一族の体の、雌にのみ出現するある体質であった。それは内に生まれた「福」が、「厄」として変質したのち、異常増幅するというものである。

厄介なのはこの「厄」は彼女の体に溜まりこみ、かつ恵比寿の特殊な力をもってしても除去が不可能なこと、またあらゆる種族の力を借りて……恵比寿と並ぶほどの力を持つ医療に長けた竜の力をもってしても完全な除去は不可能であった。

いちど集められる限りのすべての竜の力をもって、その「厄」を取り除こうとし、一部を取り除くことはできたものの、残った「厄」の部分がすぐに異常増幅し、元に戻ってしまったのだ。

恵比寿はしかし、それでも諦めず、ひいなの「厄」を取り除く術を探り続けた。その過程でひいなの、「厄」由来のあらゆる苦しみ、痛み、不幸を除去することには成功した。しかし、肝心の「厄」そのものを除去することはできなかった。

このままではひいなに確実に訪れる、早すぎる「死」。

それを回避するために、恵比寿は昼夜を問わず、いや、なん百年もの年月をただ彼女の体の研究と、不幸を緩和する「福」を集める作業へと費やしていた──。

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「ねえ、恵比寿さま」

「なんだい、ひいな」

「もう恵比寿さまは幸せになって良いんだよ」

「どうしてそんなことを言うんだい?ひいな、何かあったの?」

「今の恵比寿さまはちっとも幸せに見えないから」

「……どうして?」

「ねえ、今日は私の結納の日なの。そんな幸せな日なのに、仲人の役も官女たちに押し付けて……しかもちっとも幸せそうじゃないみたい」

「ひいな、ごめん、おめでとう、君にずっと幸せでいてほしいんだ、だから悩んでしまうね、その夫となる龍神は君のことを本当に幸せにできるのかなとか、ね」

「うそつき」

「……」

「私今なら死んでもかまわない」

「どうしてそんなことを言うんだ」

「だって、幸せなんだもの、ねえ、恵比寿さま、あなたが笑ってくれたらもっと幸せなの」

「……そうだね、ほら」

「作り笑い、へたっぴ」

「……そう見える?」

「ねえ、私、お腹の中に赤ちゃんがいるの。恵比寿さま、この子が生まれる時に、ありったけの福を分け与えてあげて」

「お安い御用さ」

「ねえ、恵比寿さま、そして私が死ぬときは、この国に生まれたすべての子どもたちから、「厄」を奪って私に注ぎ込んで」

「……ひいな?」

「私、さびしかった。お母様が死んでから、恵比寿さまも私の命を伸ばすことに執心して……かまってくれなくなったね。だから、私、どんなに「福」を与えられても、「厄」を取り除かれても幸せじゃなかった。……だからこの思いを、自分の子にも、ほかのどんな子どもたちにも経験してほしくないの。だからお願い、恵比寿さま。この願いだけはかなえて……」

「……きみは」

「……」

「……きみは、死なせない。どんな手を使っても、幸せに暮らすんだ」

「……この、……このわからずや!!」

「……ひいな」

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御殿の中を慌ただしく従者たちが駆け巡る。

「ひいなさまっ!気をしっかり!もうすぐで生まれますよ!!」

「ひいなさまっ、意識が……!!」

「ひいなさまっ!!ひいなさま!!」

ひいなの夫である龍神が、ただ彼女の痛みに、苦しみを少しでも和らげようとその力なき手をしっかりと握っている。

「ひいなっ!!」

恵比寿が、苦しむ彼女の元へと駆けつける。

……あの時と同じだ、がんじがらめの「厄」が、あんなに取り除いた「厄」が……異常に膨張し、彼女の命を支えるかすかな「福」を飲み込もうとしている。

「ひいな……ひいなッ!!」

恵比寿はただ彼女の身体の奥に膨らむ「厄」を、どうにか取り除こうと思いついた策を……どんな手段を使ってでも取り除こうとした。

「……恵比寿様、頼みます」

静かに、ひいなの夫が恵比寿に語りかける。

「……そのまま手をしっかり握るんだ、君がひいなの……「福」を支えるんだ、そのためにお父様と……僕が君を作ったのだから」

「……もちろんです、ひいなさま……お慕い申し上げております」

次郎左衛門はひいなの結婚も、出産も見届けることなく亡くなった。恵比寿と違い、彼は元は弱小で、短命な龍神なのだ。恵比寿でさえひいなのために心身を削る過労の日々であったのに、老いて弱まった龍神が激動の日々に耐えられるわけがなかった。

しかし彼はあるものを娘のために残していた。娘ひいなのための……彼女好みの男の龍神の人形である。恵比寿は義父の意図を汲み、人形の彼に命を与え、またある役目を与えた。それはひいなの「死」を回避するため、あらゆる策を試すための延命装置としての役目であった。

肉の人形の彼の体には、ある仕掛けが宿っている。それはひいなからあふれる「厄」を「福」に徐々に変換する構造だ。それは長年恵比寿と次郎左衛門たちが研究してきた、ひいなの体の構造を、逆の方向で模した作りであった。しかし所詮は作りもの、それは根本的な解決にはならず、もしものための「延命処置」にしかなり得ない。

しかし恵比寿には十分だ、その時間があれば、思いついたあらゆる策をひいなに試すことができる。

「皆の者っ!この国のものを一人残らずここに集めてくれ!!」

三人官女も、五人囃子も、随身も、仕丁も、この御殿にいるものすべての者、物たちが国中を走り、国民を集めた。そのうちにも恵比寿は策を一つ一つ、丁寧に、しかし迅速に試していく。

「従来の除去ではだめだ、じゃあ「福」に命を与えて「厄」を飲み込むよう命令できないか?……いや、まだ国民が集まってない、「厄」の構造自体を変えることは……!!」

恵比寿の六つの腕が、機敏に、正確に動く。しかしどの策もあふれる「厄」の勢いを止めることはできない。

国民はその間に次々に集まってくる。固唾を飲みつつ、この国の象徴たる女主人の命の行く末と、新しい命の誕生の瞬間を見守っていた。

「みんな、頼む!僕に、ありったけの、「福」を!!」

恵比寿は叫ぶ。国民たちはただ頭を下げ、その身を恵比寿に捧げている。その間にも国民から与えられる膨大な「福」と、ひいなの身体からあふれる膨大な「厄」が拮抗し、激しい気流の乱れを生じさせていた。

「「厄」を「福」に変換させる術は……っ!だめだ!「厄」の生産のスピードに追いつかない!じゃあ「福」を圧縮して「厄」の巣の奥に当てるのは……出力が足りない!もっと「福」を頼む!!」

恵比寿の焦る声色に、国民のうちに恐怖が宿る。もともと「厄」を極力そぎ落とされた国民の、何も考えなくとも幸せで辛いことは何もなかった国民の、その目の前に苦しみにあえぐこの国の主たちがいる。そのストレスの強さにじわりと、国民の中から「厄」が生まれだした。

「……どうして、どうして「福」の勢いが弱まっているんだ!!」

普段は優しい、温もりに満ちた恵比寿の声が、焦りと苛立ちに染まっていく。その変貌に国民は耐えきれない。自身に向けられた怒号ではないのに、その恐怖に身がすくみ、震える。しかし与えられた恩を忘れたわけではない。ただ目の前の命を救いたいのは恵比寿も、国民も同じであった。国民は逃げることはない。ただ恵比寿の前に頭をたれ、今までのように幸せな彼らの笑顔が見られるよう祈るしかなかった。

「福」と「厄」が国の中に氾濫し、交差する。そのさなか、恵比寿は全ての策を試そうと、その手を動かすも、ある時、一瞬にして一つの腕の感覚が絶ち消えた。

「……どうしてっ、どうしてッ!」

それだけではない、腕一本から始まり、そこからじわじわと感覚が失われていく。

彼は長い時の中で、疲労の限界に達したのだ。その中で無意識に自身の「福」と「厄」どちらもすんで枯渇するほどに使い切り、本来の肉体と人形の身体の接続が切れかかっていた。

「動けよっ、動け動け動け動け!!!」

かすかな指先の振動の、その一手でどうにか策を試そうともがく。その中で、意識が白く染まっていく。染まっていく意識の、遠のく視界の中で、揺れる二つの炎が見える。

それは輝く命の……彼女に宿る新しい命の「福」と、よどみ暴れる彼女本来の「厄」。恵比寿は手を伸ばし、そこにただ触れたくて、指の末端を感覚が消えるまで伸ばした。

その指先を、手に取るのは彼女の手だった。

「最後まで、私のお願い聞いてくれないんだね」

ひいなの、懐かしい声。なぜ、懐かしく感じるのだろうと恵比寿は考えた。

そこまで、そこまで僕は政と研究のために、ひいなをほったらかしにしてしまったのだ。恵比寿の中に後悔が走る。その後悔を包み込むように、ひいなの手は恵比寿の手を包み込んだ。

「ねえ、恵比寿さま」

「ごめん、ごめんね、ひいな」

「謝らないで、ただ、私のお願いを聞いて」

「うん、聞く、絶対聞く」

「私、お願いしたよね。私の子にはありったけの「福」、死ぬ私にはありったけの「厄」を……できるよね、恵比寿さまは……私の、可愛い弟なんだから」

「うん、うん、うん……」

「おねがいね、お日様のように優しい私の弟」

「うん、ひいな、ひいな……ありがとう……」

恵比寿は突然体の感覚を取り戻す、はっとして見渡すと、国民が、ひいなのみではなく自身に、「福」を捧げている。

感覚を取り戻し、恵比寿はひいなに自身が与えられた役割を、果たすべき時が来た。そのすべての「福」を、彼女のお腹に宿る新しい命に、すべての「厄」を、彼女に……。

うずまく「福」と「厄」の中、恵比寿の意識はそれらの渦の中に飲み込まれ、ありったけの力を使い果たした。

膨大なエネルギーの波が、一つの身体に注がれていく。そうして注がれた体の、その小さな依り代の中で、「何か」が起こった。

そうしてその「何か」は彼女の体の中で蠢き、小さく、かすかに、その声にならない産声を上げた。

赤子の泣く声が聞こえた。

二つの、新しい命が国中が見守るさなか、生まれた。

その二つの命が、ひいなの夫の指を強く握っている。そうしてその夫のつなぐ彼女の手の、その手首に脈がとくん、とくんと小さく鼓動を伝えている。

その鼓動をたどるそこに、すう、すうと寝息を立てる女主人の姿がある。

国民は涙した。やはりこの国には幸せしかないのだ、不幸などないのだと。

彼女の胸元で眠る赤子の、その一柱は目元は彼女に、口元は父親にそっくりだ。もう一柱の姿は、彼女にも父親にも全く似ていない。かひゅう、かひゅう、とただ声にならない声を上げ、自身の誕生を国中に知らせた。

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恵比寿は御殿の中で目を覚まし、ふとあたりを見渡した。

「起きたの、ばかな弟」

久しい、しかし最も聞きたかった声が、すぐ近くで聞こえる。

「……ひいな?」

「なんだか生きてるの、ふしぎ」

彼女の声に、ただ確かめたくて手を伸ばした。その伸ばした手に、温かい血潮の気配が、しっかりと感じられる。

「生きてる、やったんだ、生きてる!」

はしゃぐ赤子のようだった。恵比寿はひいなの温かい体に抱き着き、その奥に眠る静かな「福」と「厄」の気配を確かめる。

「すごい、すごいよ!ひいな!!」

「ふふっ、嬉しそうで何より」

ひいなの向こうで、泣く赤子の声がする。

「ねえ、恵比寿さま、かわいい甥と姪の顔を見てよ、もう忙しくないんだから」

「もちろん、うん、よかった……!」

恵比寿は笑い、向こうの部屋に眠る彼の可愛い甥と姪を見ようと立ち上がる……その時、ぐらりと、めまいのような嫌な気配が彼を襲う。

「……気持ち悪いの?ずっと眠っていたもんね」

「う、ん、たぶんそのせいだね」

気のせいだ。ここまで来るのにすべてを削ってきた。疲労からくるめまいだと、彼は自身に言い聞かせた。そうしてひいなは彼の手を握って引っ張る。そうして赤子の声が近づいていく。

「みて、かわいい甥と姪!こんなにすやすや眠ってね」

赤子じゃない

赤子じゃない

赤子じゃない

赤子じゃない赤子じゃない赤子じゃない赤子じゃない赤子じゃない
赤子じゃない赤子じゃない赤子じゃない赤子じゃない赤子じゃない
赤子じゃない赤子じゃない赤子じゃない赤子じゃない赤子じゃない
何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ
何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ何これ

恵比寿は恐怖で身じろぎした、ただ目の前にあるその片割れの、そのおぞましい姿に恐怖し、硬直するしかなかった。

「……びっくりしてるの?……まあ、似てないもんね、姪の方は」

恵比寿は声が出なかった。それほど彼にとってそれを見ることが、大きな心身の負担だった。それは義母と義父を亡くした時よりも、ひいなを亡くしかけた時よりも、ぷつりと自身の意識が途切れた時よりも、重く苦しいストレスの波だった。

「……ねえ、なんで黙ってるの?」

ひいなの声があたまにぐわんぐわんと響く。あんなに聞きたかった声なのに、どうしてこうも不気味なのだろうと目の前の存在からどうにか恵比寿は意識をそらす。

ひいなの目に映るのは、ひいなと夫にそっくりの息子と、夫にも彼女にも似ていない娘……娘といえども性別はないと国の医者に言われていた。しかし彼女にとっては、無彩色の身体に雲のようにゆらめく髪が美しい、角がちょっぴり多いだけの可愛い娘なのであった。

「えっ、な、なんでもないよ」

恵比寿の声は硬直する。

恵比寿の目は通常の視界を持たない。

恵比寿の目は硝子の義眼である。その目は我々のような景色を見ることはできないが、また別の景色を見ることができた。恵比寿が命あるものの形を捉えると、そのうちに二つの揺らめきを見ることができる。一つは「福」、命あるものの幸運、健康、喜び……それらの命に良い結果を運ぶものを「福」とし、体内にきらめいた火の揺らめくさまとして見ることができる。もう一つは「厄」、命あるものの不運、病、憎悪……それらの命に悪い結果を運ぶものを「厄」とし、体内に澱むけがれた液体の貯留として見ることができる。

しかし目の前にあるものはその二つどちらとも違った。

片割れは尊い命だ、小さな体の中に「福」と「厄」の炎が揺らめいている。

もう片方はなんだ?

直視しようにも、そのおぞましさに長く見れば見るほど吐き気と恐怖と悪寒が広がった。五感の疎い恵比寿の、すべての感覚が拒否反応を示していた。

「厄」のかたまりのようにも見えたし、細かい「福」のうごめきにも見えた。ただ得体のしれない何かが、息を立てている。その息の、なんとぎこちないことか。まるで命がないのに、命があるかのように見せる擬態のように。

ぼんやりと見える目の輪郭はぽっかりと開いた傷口のように何かが流れ、その表面は死したものの鼻をつく臭いを絶えず発している。やけに白いその表面の、ぶつぶつと隆起した何かのうごめきが絶えず恵比寿の視界を害する。ひいながそれに近づくと、まるで彼女の命を犯しているような心地さえする。彼女の「福」と「厄」がその存在によって大きく乱されているというのに、彼女が平気でその何かに頬ずりしている光景を恵比寿は見ていられなかった。

虫の這う足音が不快に恵比寿の喉元をかすめ、獣が胃の中に棲みつき体内を引っ掻いているような吐き気がする。その時、御殿に一筋の雷が落ちた。

「きゃっ」

恵比寿は急ぎひいなとその傍らに眠る子をかばうと、その落雷の落ちた草原に揺れる火を池の水を使い消した。ここは地下の果てしない奥のその奥の国である。積乱雲の発生する余地などない。雷などの自然現象は、他の龍神の力をもってしか起こらない稀な現象であった。

「ひいな、ねえ……」

「珍し……なに、恵比寿さま」

「本当に、その子は君から生まれたのかい」

「ええ、どちらもかわいい私の子ですよ」

「……」

死体を自身の体の中に、一瞬のうちにすべての消化器官に詰められたような気色の悪さを、恵比寿はただただ感じていた。あまりにも醜く、直視できないその存在は、命のふりをする人形であるかのように、ただ母の存在を求めて手足を伸ばしていた。

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恵比寿は舟を探す、自身を乗せていた、あの舟を。

ひいなの生んだ双子の片割れ……命であって命ではない、「厄」よりもおぞましく穢れたあの存在が誕生してから、彼の国に不規則に、命のない場所から「厄」がどっとあふれ出すようになった。

それは犯罪も不幸も生まれなかったこの国で、相次ぐ事故や失踪、死者の増加という結果をもたらした。それは国民のみではない、恵比寿の元にもひいなの元にもやってきた。双子の命ある片割れ……ひいなの正統な息子は謎の病で苦しみ、ひいなはなぜか息子の世話を従者たちに任せて娘と呼ぶ……あの存在に付きっきりになっていた。

恵比寿は、この状況において決断するしかなかった。幸せに慣れ切った国民は相次ぐ不幸の存在に疲弊し、恵比寿に助けを求めている。またひいなも、自身が作った付喪神たちも、そのふりかかる「厄」の急襲に恐れおののいていた。

自身がされたように、不具の子を、この国を成り立たせるのに、またひいなの幸せを取り戻すのに……流すことは必要なことであった。

皆が寝静まった夜に、恵比寿はその災禍の化身を抱えた。抱えるだけで、自身の腕が腐り落ちるようだった。かつて義父が削り出し作り上げたうどんげの骨がきしみ、また義母の飾り付けた色合いが溶けてなくなるようであった。

しかしこの存在から漏れ出る「厄」が道中で他の者に流れ込まないよう、この国に古くから住まう神たちの力を借りて「福」の力を込めた札や拘束具で、どうにかその化身の身動きを封じた。

「……かあさま」

恵比寿は化身の目元を覗く、空虚を見つめるその目線が、恨めしくも恵比寿を呪っているようで額に汗がにじむ。

「僕は、僕は本当にこれでひいなを救えたのでしょうか、ああするほか無かった……そう言えども、これが……これが僕の罪の結晶なのでしょうか」

抱えるその子の肌は柔い。かすかな触覚から感じられるその熱はほのかに赤子のように温かいのに、恵比寿の視界に映るのは、見るも恐ろしい災禍の蠢き。

命なき人形が、禍の渦をその身に宿し静かに恵比寿を見つめていた。

「……」

懐かしい水音が聞こえる、御殿の裏を流れる、清い河川の元へたどり着く。

普段は水に住まう小さき命たちの「福」できらめくその河川の、その静けさに恵比寿は胸に不安を抱く。恵比寿はその災禍の化身を自身をかつて乗せた舟に乗せ、揺蕩う水の中に放した。

水音が、赤子の眠気を誘う。しかし何かに気づいたように、かひゅう、かひゅう、と、声なき声で母を呼ぶ。

恵比寿は、その胸に宿る……ただ母が残してくれた、自身の持つありったけの「福」を、流されていく化身……いや、自身の姪に与えた。「福」はうごめく「厄」の中にどろりと溶けると、腐るようにそのきらめきを失っていく。

どうか、どうか厄災の子であろうと、かつての自分のように、どこかで幸せに……。

それが恵比寿がその子を殺さず、川に流した訳であった。

自身のうちに「厄」を閉じ込めていたひいなと異なり、ただ存在するだけで他者に害を及ぼすのでは、解決策を考える時間の猶予もない。

この国は大きくなりすぎた。恵比寿が国民の自律性を奪い、ただ幸福にしたがために彼らは恵比寿なしでは存在できないほど幸せになってしまった。彼ら国民を置いて、災禍の化身を連れて国を離れることも不可能だった。

ただ遠くに放すことだけが、当時の最良の選択だったと、恵比寿は強く思い込んだ。

「何してるの、ねえ!!」

息のあがったひいなの声が聞こえた。自身の愛娘の危機に、気づき目を覚ましたのだ。

「何ぼーっとしてるの!?はやくあの子を助けてよ!!はやく!!いやだ!!待って!!!」

ひいなは自身の重い装束も気にせず水の中に入ろうとする。恵比寿は、ただ暴れるひいなをその手で押さえつけると、遠のくその子の姿を見た。

昇る朝日の、その光に照らされた川面は、急激に勢いを増し、深い滝つぼの奥にその子を誘った。そうして視界から消えると、瞬く間に川面に小さき命たちの「福」が、きらめいて現れたのであった。

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あれから何年が経ったのだろう、百年、いや、千年……だろうか。

今日はもう数えるのを忘れるほどに何回も繰り返された「雛流し」決行の日であった。

あれからひいなの子孫たちは有り余る「福」のもと繫栄し、また新生児たちの「厄」を引き受ける一族としてその役割を果たすようになった。これはひいなが、娘を失った一族の女主人が、未来の一族に課した執念染みた役目であった。

恵比寿はそれをもう止めることはなかった。娘を失ったひいなは、その身に「福」と「厄」を宿しながらも、まるで死んだように生き、そうして死んでいった。

自身が介入したことによって、ああなってしまったというのなら……その事実は恵比寿の中に大きな傷を残した。そうして役目をはかなく、しかし、心強く果たしていく一族を何も介入せず、見守ることに決めたのだ。

ただ恵比寿は新生児たちの「厄」が、国民たる父母たちから子らへと受け継がれる「厄」が少しでも小さくなるようにと、国中のすべての者をより幸せにしようと決意した。そうしてこの国は「福」と「厄」の大いなる因果が国を巻き込み存続していることから『縁起の国』と呼ばれるようになった。

因果は回る。恵比寿が介入せずとも、ひいなの一族の中で引き継がれる「厄」の蓄積と、国中を駆け巡る「福」の流れの非常に稀な反応により、数百年に一度、あの災禍の化身は生まれてしまう。

たくさんの者が、雛流しの様子を見守っている。ひいなそっくりの娘が、災禍の化身たる自身の子を守ろうと、従者たちに押さえつけられながらも、流されゆく我が子を涙を枯らし、声を枯らし呼んでいる。

恵比寿はこの光景を見慣れることはなかった。しかし自身の背負った罪を償うように、この国に「福」を招く存在となるのみと、その度に決意を固めるのであった。

しかし今回の雛流しは何かが違った。その悲しみの光景に、さっと横切る影がある。

「ハチ!本当に大丈夫なのかっ!?」

「行くしかねェんだよレオ、俺っちたちがあいつを救うんだ、こんな因習くそくれえだ!!」

「まってよーっ、ポコもいく!!」

恵比寿の目の前に、三つの大きな「福」のかたまりが……横切っていく。この国でひいなの一族が「厄」を新生児たちから吸い尽くした因果のもと生まれた、輝きあふれる「福」を持つ子どもたちが、流されゆくその化身を追って駆けていく。

因果は回った。「厄」の化身が生まれるのならば、「福」の化身が生まれることは果たしておかしなことであろうか?

恵比寿は一生懸命に走るその子たちに追いつくと、その前に立ちふさがる。

「あっ、恵比寿さま……!」

「なんでェてめえ!!たとえ尊い恵比寿様でぇあろうと俺っちたちは止まらないぜ!」

「なに、どしたのえびすさま」

恵比寿はその子たちに、幸福の化身たちに、ありったけの、自身の「福」を分け与える。幸福の化身たちの、その輝かんばかりの炎に最大級の礼を示して。

「……どうかあの子を救っておくれ、尊い、福の化身たちよ」

「言われなくてもやってらあ!!」

三人はどこまでも駆けていく、その走る道すら、恵比寿には光り輝いて見えた。

ここは因果と縁起のめぐる国、尊い子らに、ありったけの「福」が訪れるように、恵比寿はただただ強く祈った。

日の光は彼らの行く道を照らし、そうして流れる川の水のせせらぎを、その子らの「福」に満ちた大きな声が、かき消していくのであった。

登場人物紹介

注意書き
・この物語は引用箇所を除き、全編において1ヘンタイニンゲンの妄想でありフィクションです。実在の人物や団体、伝承などとは一切関係ありません。

参考・引用

参考
カニ人公式X(Twitter)
カニ人公認公式ファンサイト
引用
片桐洋一."資料篇 古今和歌集序聞書三流抄".中世古今集注釈書解題(二).京都.赤尾照文堂.1981(第二刷出版).p234

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